■F-2戦闘機&F-15戦闘機
EOS-40Dで広角とEOS-50Dで望遠を撮影する故に撮影番号が混合する不思議な幕間の写真です。
F-2戦闘機祝賀飛行。F-2戦闘機三機が海洋迷彩で観閲艦上空を飛行します。前回は航空部隊祝賀飛行の航過を終えて一斉回頭する様子を紹介しましたが、撮影機材がEOS-50DとEOS-40Dに二分されていますので、少し写真が前後する事もあります。そんな情景ですね。
F-1支援戦闘機後継として日米共同開発されたF-2戦闘機は第4.5世代戦闘機として1995年10月7日に初飛行を迎え、試作機を含め98機が生産されています。当初はブルーインパルスへの配備を含め141機の調達が見込まれていましたが、最終的に98機となりました。
支援戦闘機とは開発当時の区分で、近接航空支援や航空阻止と対艦攻撃を任務とし、実際F-2は空対艦誘導弾4発装備した状態で戦闘行動半径450海里を有し、短距離空対空誘導弾と中距離空対空誘導弾をそれぞれ2発乃至4発装備する事が開発時に要求されました。
三沢基地の第3航空団に第3飛行隊と第6飛行隊、九州の築城基地第8航空団に第8飛行隊、教育訓練用に松島基地第4航空団の第21飛行隊へ配備されます。ただ、2019年より第3航空団へ最新のF-35A戦闘機が配備開始、第6飛行隊は第8航空団へ転属しています。
第3航空団の所属航空機で青森県三沢基地を拠点としています。ただ、1958年から1978年まで愛知県の小牧基地に居ました。実は長い事、第3航空団は小牧基地創設と思っていたのですが最近、新編は1957年に松島基地で、翌年小牧基地に移駐した、と知りました。
F-2戦闘機は運用費用がF-15よりも低く、実際使い勝手は相応にある機体なのですが要撃第一主義の航空自衛隊では異色の存在であり、2006年に政府が生産縮小を決定しています。今思えばこの時点でF-2を海上自衛隊に移管し対艦戦闘と艦隊防空に充てるべきでしたね。
F-15戦闘機三機編隊、白梅マークが眩しい第305飛行隊の所属機です。第305飛行隊は現在、宮崎県の新田原基地に展開していますが、この当時の第7航空団は第204飛行隊と第305飛行隊、共にF-15戦闘機の飛行隊で構成され、首都防空の重責を担っていました。
第7航空団は1961年に松島基地で創設されました、当時の松島基地はF-86戦闘機のマザースコードロンという位置づけでしたが、航空団は1962年に入間基地へ移駐、1965年にF-104戦闘機へ機種転換の上で現在の百里基地へ移駐したのです。1967年に移駐は完了へ。
ファントムの航空団という印象の百里基地第7航空団ですが、実はその通りで1972年に航空自衛隊最初のF-4戦闘機飛行隊が創設されたのは百里基地、航空自衛隊のファントム飛行隊のマザースコードロンという位置づけで全国のファントム飛行隊新編に寄与しました。
F-15戦闘機の時代、航空自衛隊にとってのイーグルマザースコードロンは新田原基地にありまして、第7航空団も1985年よりF-15戦闘機の運用を開始、F-4は原型の初飛行が1959年と古い機体です、首都防空、太平洋岸に南下するソ連爆撃機東京急行へ新型が必要です。
首都防空、しかし21世紀に入り南西諸島へ中国空軍の脅威が顕著化する事となり、この観艦式が執り行われた2009年に第204飛行隊は沖縄那覇基地へ移管され、代わって那覇基地のファントム飛行隊第302飛行隊、当時の第83航空隊から第7航空団へ移管されています。
九州防空、中国空軍の近代化は凄まじく、南西諸島に及んだ脅威は数年を経て九州に延びるようになり、南九州新田原基地のファントムを運用する第301飛行隊と交代で第305飛行隊が百里から移管、首都防空は旧式のファントム飛行隊二個が担う事となったのですね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
EOS-40Dで広角とEOS-50Dで望遠を撮影する故に撮影番号が混合する不思議な幕間の写真です。
F-2戦闘機祝賀飛行。F-2戦闘機三機が海洋迷彩で観閲艦上空を飛行します。前回は航空部隊祝賀飛行の航過を終えて一斉回頭する様子を紹介しましたが、撮影機材がEOS-50DとEOS-40Dに二分されていますので、少し写真が前後する事もあります。そんな情景ですね。
F-1支援戦闘機後継として日米共同開発されたF-2戦闘機は第4.5世代戦闘機として1995年10月7日に初飛行を迎え、試作機を含め98機が生産されています。当初はブルーインパルスへの配備を含め141機の調達が見込まれていましたが、最終的に98機となりました。
支援戦闘機とは開発当時の区分で、近接航空支援や航空阻止と対艦攻撃を任務とし、実際F-2は空対艦誘導弾4発装備した状態で戦闘行動半径450海里を有し、短距離空対空誘導弾と中距離空対空誘導弾をそれぞれ2発乃至4発装備する事が開発時に要求されました。
三沢基地の第3航空団に第3飛行隊と第6飛行隊、九州の築城基地第8航空団に第8飛行隊、教育訓練用に松島基地第4航空団の第21飛行隊へ配備されます。ただ、2019年より第3航空団へ最新のF-35A戦闘機が配備開始、第6飛行隊は第8航空団へ転属しています。
第3航空団の所属航空機で青森県三沢基地を拠点としています。ただ、1958年から1978年まで愛知県の小牧基地に居ました。実は長い事、第3航空団は小牧基地創設と思っていたのですが最近、新編は1957年に松島基地で、翌年小牧基地に移駐した、と知りました。
F-2戦闘機は運用費用がF-15よりも低く、実際使い勝手は相応にある機体なのですが要撃第一主義の航空自衛隊では異色の存在であり、2006年に政府が生産縮小を決定しています。今思えばこの時点でF-2を海上自衛隊に移管し対艦戦闘と艦隊防空に充てるべきでしたね。
F-15戦闘機三機編隊、白梅マークが眩しい第305飛行隊の所属機です。第305飛行隊は現在、宮崎県の新田原基地に展開していますが、この当時の第7航空団は第204飛行隊と第305飛行隊、共にF-15戦闘機の飛行隊で構成され、首都防空の重責を担っていました。
第7航空団は1961年に松島基地で創設されました、当時の松島基地はF-86戦闘機のマザースコードロンという位置づけでしたが、航空団は1962年に入間基地へ移駐、1965年にF-104戦闘機へ機種転換の上で現在の百里基地へ移駐したのです。1967年に移駐は完了へ。
ファントムの航空団という印象の百里基地第7航空団ですが、実はその通りで1972年に航空自衛隊最初のF-4戦闘機飛行隊が創設されたのは百里基地、航空自衛隊のファントム飛行隊のマザースコードロンという位置づけで全国のファントム飛行隊新編に寄与しました。
F-15戦闘機の時代、航空自衛隊にとってのイーグルマザースコードロンは新田原基地にありまして、第7航空団も1985年よりF-15戦闘機の運用を開始、F-4は原型の初飛行が1959年と古い機体です、首都防空、太平洋岸に南下するソ連爆撃機東京急行へ新型が必要です。
首都防空、しかし21世紀に入り南西諸島へ中国空軍の脅威が顕著化する事となり、この観艦式が執り行われた2009年に第204飛行隊は沖縄那覇基地へ移管され、代わって那覇基地のファントム飛行隊第302飛行隊、当時の第83航空隊から第7航空団へ移管されています。
九州防空、中国空軍の近代化は凄まじく、南西諸島に及んだ脅威は数年を経て九州に延びるようになり、南九州新田原基地のファントムを運用する第301飛行隊と交代で第305飛行隊が百里から移管、首都防空は旧式のファントム飛行隊二個が担う事となったのですね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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