夕方、住まいのマンションから見る冬の景色。写真には、明星がはっきり写ってないが、透明な眼差しのような明星(金星)の美しさにはっとさせられる。
空海が明星を見て悟ったとか、あるいはキリスト教でも、明星とマリア様を結びつけたりする。昼と夜の境に煌めきを増すような明星は、それだけで人を不思議に導くようである。生と死の境をイメージするのだろうか。
さて、私は小学生時代から、物を観察するのが好きになったようだ。本来はズボラで注意散漫な性格なのだが、親への反動形成なのだろうか几帳面になり、理科などで観察日記を真面目につけたりするようになった。課外活動では地学部で、気象観測までした。そのちょっとした修行?の中で、観る楽しさを知ってしまったというのが本当のようだ。
顕微鏡を買ってもらい、庭の池の水や草木(あじさいの葉など)などを手当たりしだい見た。小学校5年には天体望遠鏡を購入し、これまた惑星、月、太陽などを見た。小さなもの遠くのもの見てトキメキ、わくわくしたものだ。
57歳の今、眼も視力は弱まり、夜空の星も一等星などは観えても、暗い星は良く見えない。以前しし座流星群が来た時も、家族で河原で見たが、私だけは殆ど見えず悔しい想いをした。
加齢等で細かいものを観察しにくくなったが、50歳ごろから「生き甲斐の心理学」の勉強を深めることにより、森羅万象を見て湧きあがる微妙な感情の動きが少しずつ観察できるようになってきた。湧きあがる感情を意識化するのは、結構修行が必要なのだ。
今は星も心も楽しい。
今朝、7歳の時にアラスカでお世話になった方の訃報が届いた。アラスカの海岸でその方が漕ぐボートに乗り、海底の黄色い大きなヒトデを眺めたのを思い出す。優しかったおじさんは空のキラ星になったのだろうか。
<視覚3/4>
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