今日はクリスマスイブ。
クリスマスというと、静寂のイメージがある。雪の日の朝のように、静寂なイメージである。小学生のころは母に連れられて、クリスマスの深夜ミサ(いつもと違い深夜で長ーい)に行き、深夜の静寂に触れたためなのだろうか?
クリスマスイブの今朝、眼をつぶると、妻が朝の用意で、湯を沸かす音、洗濯機を回す音、朝のテレビのニュースの音、・・・が聞こえる。ちょっと雑然としているが、平和な朝なのだろう。
聴覚情報は、視覚情報と異なり、眼では見えない物陰の情報が得られる、音波を媒体とする情報である。暗闇の中など、視覚情報が得られない場合は貴重である。
さらに、身の危険など命との関わり方もなにか深い感じがする。実際、ゲルク派版「チベット死者の書」(学研M文庫、平岡宏一訳)では人が死に逝く中で、視覚より聴覚が後で消失するという興味ある記載がある。臭覚や味覚がさらに後であるのも興味があるが。最新の脳科学ではどうとらえているのだろうか?
さて、見渡すと24時間光に囲まれているような都会の生活がある。それとともに、暗闇、漆黒の暗闇などは生活の中では、殆ど縁が無くなったようである。闇の中の物音に耳を澄ますことなど、最近まったくない。
ただ、こうした明るく、視覚中心の文化は、生命40億年の歴史の中ではほんのつい最近、一瞬のようである。今でも、地球では電灯のない生活をしている人も多くいる。電灯が作られたのもせいぜい130年の歴史しかない。源氏物語も闇夜での大きな間違いの物語まである!
暗闇の物音で時に恐怖を感じたりすること、人間にとって時に必要なことなのかもしれない。恐怖の後の素敵な安堵感。そんな思いで深いこともあった。
クリスマス・イブ、今日は獣のように深夜に耳を澄ませてみたい。その後の平安を得るために。
<聴覚3/4>
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