幼いころに、例えば親との接触の中で、愛されたり、愛したりの経験する。そして、それがこころの愛の原型となっていく。
人は個々の愛の原型に従い、愛の満足感を得たり逆に孤独感に陥ったりする(それは、一人ひとり全く違うものである)。勿論、その原型はその人の思考・解釈によるところもあり(意外と昔の幼かったころの解釈であったり)、思考・解釈が変われば愛の原型も変わっていく。原型が変われば、孤独感も変わる。
先日、梅が綺麗でじっくり眺めていると、知り合いのシスター(修道女)が通りすがり、「綺麗ですね!」と声をかけて下さった。それに言葉で応えたが、美しい日和のなかで梅を愛で、共に語らう幸せは素晴らしかった。これも、自分の愛の原型に触れたのだろうか。
生き甲斐の心理学を学び始めたころ、自分の愛の原型は何かと訊かれ、その時に想い浮かべたのは、幼いころあたたかい日溜りの縁側で積み木で大きな城をつくり、両親に褒められた時のことであった。
その時以来、いろいろ愛の原型を思索してきた。すると不思議に、いくつもの名場面を思い出してくる(お金もかからないので時間があるときにのんびり楽しめる。楽しむのがコツ、辛くなる時はすぐ辞める)。
また、愛とは何か(両親に立身出世を期待されることか?失敗しても与えられる無償の愛か?命をかけるものか?)などと思索を深めることにより、自分の特選・愛の原型も変わっていくようである。変われば、愛の満足感や孤独感も少しずつ変わっていく。
両親だけでなく、祖父母との思い出、幼友達との思い出もあった・・・そういえばシスターとの語らいもあった。自然との語らいも・・・
真善美と自分の愛の原型がリンクするのはやはり良いように思う。
ちょっとしたこと愛の満足を感じ、すぐ感動し涙を流すお爺さんに、将来なれたらなあ。
(感謝の領域(ゆるしと和解⑦)57/60)
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