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縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

何故か隠れる自分のコタエ・・・(こころの援助を考える④)

2010-03-24 | 第六章「螺旋状に上昇する意味」

 昨晩も娘と話をしていたが、自分の若いころと比べても、今の人はいろいろ悩みが多いようだ。しかし、悩む人は私も含め同じようなところがある。

 私が、最も悩んでいた40歳代のある日。苦悩という全く歯が立たない壁のような問題を実感していた。家に帰ると、そんな日々はパソコンで「信長の野望」を遅くまで遊んだ。それで、問題を忘れることができ、昼は仕事をすることで忘れることができた。本当はやるべきことがあるはずなのにである。ただ、自分の問題への回答が全く見えなかったのも事実である。

 今までの自分の経験の物差しがあって、それに囚われる。親しい周りの人からみれば何か変だと気付くが、自分の内にあるはずの答えが隠れてしまうのでしょうがない(心理学的に言うと、自己概念が答えを見えなくする)。ただ、先送りした問題は依然と残っている。

 さて、アラスカでの女性教師との出会いを振り返ってみよう。英語が全く出来ない7歳の私が陥っていたのは、「自分は英語の世界ではしゃべれない。」という深刻な問題であった(今だったら、ソフトランディングするための智恵を日本人は持っているに違いないが)。

 英語をしゃべれるという理想と、当然ながら今は全くしゃべれないという現実の間のギャップ(不安)を幼いなりに持っていたのである。

 ただ、優しいまなざしでこころを通じあうことができた私は、優しい先生を感じつつ、その不安を胸に実感し始めていた(先生の存在で実感できたと言ってよい)。

 そして、それは既に心理療法に必要かつ充分な6つの条件の2つまで辿りついていたのだ(心理的接触、不安を持つ人の存在)。

 自分の不安、問題に気付くのはとても重要だ。皆さんの経験に照らして考えてみたらどうでしょうか?

(こころの援助を考える④(1億2千万人のための生き甲斐の心理学) 5/60)

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