比較宗教学を専攻されているTさんから教えていただいたことに、日本語の「ゆるし」は様々な漢字で表現されることが多いが、本来の「ゆるし」の意味を的確に表現できていないという。確かに、昨日のくらやみ祭りではないが、深い宗教性をもった「ゆるし」は許しでもなく、赦しでもなく・・・やはり「ゆるし」なのだろう。
「ゆるし」は、宗教で大事な概念であるが、心理療法やカウンセリングでも、専門用語である受容に近い概念かもしれない。そして、それは、こころの病をもった人だけでなく、誰でも等しく大変重要な課題なのである。感情を伴った人間にとり、「ゆるし」は極めて奥の深い問題なのだ。
実は、来週台湾に行くのだが、その時に大叔父さんが芝山巖で亡くなったので参拝に行こうと思い、当時の芝山巖事件に関する文献を読んでいる。大叔父さんは芝山巖事件で27歳で他界したが、志を持ち無垢な日常を送る中で、突然無残に亡くなった。改めて、この事件を考えると、その死の意味を考えざるを得ない。恐らく、当時の被災親族は余りの出来事に「ゆるす」など夢にも思わなかっただろう。神も仏もないと世界と呪っただろう。それが当然である。
ただ、こうした理不尽な出来事は、100年前の事件だけではなく今に至るまで、毎日のようにどこかで起こっているのも間違いがない。
昨日の平清盛の鳥羽法王ではないが、「ゆるす」はさまざまな形で、生きている限り挑戦させられるようだ。その時に、「ゆるす」の意味を少しずつ深く理解し「ゆるされ」そして「ゆるし」ていく。
ストレス曲線 8/10