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116年前の真実!(歴史を振り返る 4/10)

2012-05-17 | 第一章「意識と知覚」

 年をとってくると、一人の人間が生きることは実にドラマチックだと実感するようになる。

 父母のことを思ってもなかなかドラマチックである。しかし、祖父母の代となると、祖父母が子供の私たちに直接話してくれたことは少なく、また父母も忙しいので、祖父母のドラマチックを知らないで済んでしまう可能性は高い。

 ただ、私の場合は、母方の祖父母が隣に住んでいた幸運もあり、幼いころから16歳までは、祖父母(特に祖父)とは随分言葉を交わした。しかし、一人の人間として一対一で話し印象に残ったことは決して多くはない。印象的で今でもその情景が思い浮かべられることの一つは、私が16歳の時に亡くなる直前に祖父から聴いた話である。

 それは、祖父が何故養子に行ったかということであった。20世紀のことも忘れかけてきている世代である私たちにとって、19世紀の文化に生きた祖父母世代は、当たり前だが理解しにくい。青年時代の真っただ中の私は、そうした祖父母の言葉を深く理解することができず、浅く表面的に誤解したように思う。しかも、その後の中年時代は忙しくて、これもまた理解するには不適な時代であった。

 そして、今。やっと考える時期になったのかもしれない。

 祖父が16歳の時、祖父の兄(11歳年長の桂金太郎)は台湾の芝山磐で土匪の襲撃で同僚と共に惨殺された。芝山磐事件として歴史にのこる事件だ。今は台湾のことは日本では通常殆どニュースにも出てくることは少ないが、当時は日清戦争で初めて台湾が日本の領土となり、台湾への関心は極めて高かったようだ。そして、事件は当時の政治事情を反映してAというように解釈され(仮にAとした)、世間に伝わった。

 今私が関心あることは、その時祖父が、その事件を兄弟姉妹と共にどう解釈したかということだ。どうもAではなくBだったようだ。いつの世でも当事者は傍目と違う世界にいるものだ。

 やがて、第二次世界大戦も終わり、日本も修身の教科書は破棄される。台湾も日本の統治を離れ大陸からの国民党による支配の世界になる。そして、台湾では芝山磐事件は、Aと解釈されるどころか正反対のCと解釈され、事件の記念碑は倒され、関連の墓も壊され神社は破壊された。しかし、またもや時代が変わり芝山磐事件はDと解釈されるようになった。でも、A,C,D解釈の根拠となっている事実はどうだったか?真実は何処にあるのか?

 そんな中、今年の初めに、「芝山磐事件の真相」(篠原正巳著 和鳴会)という貴重な本を入手した。著者の真摯な実証的な調査により、身内も知らない事実が詳しく説明されていた。そして、今回その知識をもとに台湾の芝山磐を訪れることができた。

 大伯父さんは、どのようなところに、どのような同志と暮らし、どのような生徒を教えたのか。そして事件当日の行動、惨殺の状況、死体の状況・・・そんなことまで詳しく把握しつつ、ゆかりのある地を訪れ六氏先生の墓を参拝させていただいた。親切な地元の方のお蔭で墓を見出すことができたのは、幸せであった。

 16歳は、エリクソンでいうと、アイデンティティ、自己混乱感、忠誠心の時代である。そういう時期に受けた祖父の衝撃は、以降の人生にどういう影響を与えたのだろうか。私も16歳の時に祖父から聴いた話、やっと理解できてきたのは、祖父の年齢に少し近づいた今ごろである。

 歴史を振り返る 4/10

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