人は生れ落ちてから死ぬまで、人格を絶え間なく形成し変化させていく。その時々の出来事の、その時々の自分なりの解釈が、自分を形成していく。カール・ロジャースの人格形成論を眺めながら、そんな風に想った。
さて、今年は自分の青年期のころの想いの再解釈の時かもしれない(その前は少年時代だったが)。
ちょうど学園紛争も終焉に向かうころに大学生で、大学3年のころはカフカをよく読んだ。カフカの小説は不安の塊のようであり、当時は不思議に惹かれよく読んだのだ。
今年の冬、幸運なことにチェコに行く機会があり、カフカに所縁のあるプラハの地を訪れたりした。カフカの足跡も少しは学んだ。また、そのカフカがまだ息づいているような街の空気を吸うことで、カフカの宗教性を20才台の眼ではなく60歳の眼で再解釈をしたり、当時プラハでアインシュタインとカフカが出会ったという説にぞくぞくした。厳寒の冬にプラハの城の中で小説を書いているカフカを想像し、自分の中にあった若い思い込みが氷解していったようだ。
これと同じようなことであるが、高校一年の時に祖父から直接聴いた祖父の出生のことが、ずっと気になっていたが、これも台湾旅行(来週になるが)の機会に大叔父さんの人生をより知ることで氷解。閊えていたものが取り除かれたようだ。
氷解とは自分で書きながら、何なのかと自問自答したが、自分自身のイメージ・解釈で利己主義(他人よりまず自分の利益を考える)と健全な自己愛(自分を大事にする。宗教や哲学、心理療法のなかで他者との関係においても大事にされる。)を混同していたのがポイントかもしれない。それが自己嫌悪を心のどこかに産んでいたようだ。若いころはその微妙な違いが全く判っていなかった。年をとると、それだけで見えてくるものがあるようだ。
ストレス曲線 10/10