昨晩から、来週行く飛鳥や奈良の資料づくりをしていた。今回は飛鳥・奈良時代が中心だが、1300年の年月の中で当時の政権トップの方々の墳墓も盗掘されたり、破壊されたり、場所が特定できなかったりが当たり前。美しい古代のイメージは現実の前には、ちょっと無力だ。
さて、先日行った遠野で二日目にデンデラ野に行った。素晴らしい天気であったが、里と山の境界にある半異界なのだ。昔は60歳を過ぎると土地の人はみんなデンデラ野に行き、そこで一緒に暮らす。厳しい暮らしの中で知恵を寄せ集めて残した家族に負担にならないように暮らす。姥捨の場とも見えるし、老人を生かす場とも見える。
実際にその場に立ち、また、当時の住居が再現されていて、その中に入ったがとても静かな体験だった。私も60歳を過ぎているので、世が世ならば本当にこの場所に来たかもしれない。今の季節は良い季節だが、冬にはマイナス20℃になったりする過酷な場所でもある。
自分の生の意味。死という対局の嫌なもの(死んだらどうなるのか誰も体験していない)を考えると何かあぶり出されてくる。
それを思索するのが哲学であり宗教なのだろう。
DNAの最近の研究から、人間の祖先を考察した本に「5万年前」(ニコラス。ウェイド著)がある。私の愛読書であるが、それによると5万年前アフリカを出発しユーラシア大陸に渡った150人くらいの集団は、すでに宗教を持っていたという。魂の存在や何かの神を信じたらしい。脳の進歩はそれほど変わってないようなので、今ここの私も5万年前の祖先も、考えたり感じたりすることは意外に大差ないかもしれない。
この5万年の歴史の中で、生命の連鎖を維持し、私たちに繋げてくれた方々は、殆ど無名(名前も実績も不明)である。私も恐らくこの世では数百年もしないうちに無名となるだろう。そんな中信じるということ、信じる力は、とても大事なことだと思う。
古今東西 3/10