明日から奈良旅行ということもあり、日本書紀や歴史家の本を読んだりして楽しんでいる。
7-8世紀の日本を学ぶ・・・悠長かな、と昔は思っていたが、現在に多大な影響を与えているのが、この7-8世紀なのだと思うようになった。
日本人のこころの原型や仕事にたいする基本的な考え、外交(中国や朝鮮半島)や内政(東北等の問題、法律、官僚機構)、宗教。日本人のアイデンティティが作られてきた時代なのだろう。そして、その生成の過程を知ることは極めて重要だ。
ただ、残念ながら、人間が作るものはフィルターがかかるのは世の常。日本書紀も古事記も様々な遺跡も、オリジナルもフィルターがかかり、それを解釈する側もフィルターがかかるのは何ら不思議でない。昔伝言ゲームを楽しんだことがあるが、当初の情報は随分変わって届き驚いたりする。
私は、若い頃から、幸か不幸か科学的態度というものを結構学んだつもりである。デカルトではないが、すべてを疑うところからスタートする。何となくかっこいい。しかし、最近はっとしたことがある。真理とは何だろうかということだ。真理の意味づけということかもしれない。
例えば日本書紀を例にとってみよう。巻第26斉明天皇に、こんな記載がある。斉明天皇が西征で九州に行くが、そこの朝倉京でお崩れになる。その日の夕方・・・
「この日の夕、朝倉山の上に鬼が現れ、大笠をつけて喪儀を見つめた。人々はみなこれを怪しんだ。」
そんなこと有るわけない。と考えるのも一つ。良くわからない話だと無視するのも一つ。普通は、そんな感じで無視されるのではないだろうか。私も若いころは、そんなことだったろう。ただ、年をとり十年以上生き甲斐の心理学を学んだりすると、現象学に立脚したロジャース理論も大切にしているので、これは、当時の人にとってリアルなことであったとハッとする。厳しい現実の中から何が見えたのか、リアルを愛でもって解釈し、そのような表現になったのでは。そう書かざるを得ない真実と愛。今では良く判らないが、何か素敵なことがあったのではと夢想するのだ。
斉明天皇が見た幻想、当時の近臣や日本書紀の作者が見た幻想。それは一笑にふすことなどできない。
古今東西 7/10