今度の奈良の旅を終えて、つくづく思うのだが、神社・仏閣・教会・聖地といった、多くの人が祈るところは何か違う。
人は生き抜くために身も心も鎧甲を身に付け、外敵に備える日々を送る。それは、こころの世界を考えると、フロイトのいう防衛機制を張り巡らすことに通じる。それは確かに身を守ることかもしれないが、それにより本来感じるはずの微妙な心の動きや感情が見えなくなるという問題がある。それゆえ、本来持っている自分の回答が見えなくなる。
しかし、何らかの環境下では自分の様々な感情が風のように感じられ、自分の本来持っていた回答がふと観えたりする。
このような状態を整備するために傾聴とか心理療法があると私は理解しているが、先に述べた神社・仏閣・教会・聖地には、その場所に来るだけで防衛機制を外させる何かがあるように思っている。
仏教の牛に引かれて善光寺参り。キリスト教のヤコブの井戸でキリストに出会うサマリアの女。・・・不思議な体験する場所は、聖地でもあることが多い。
これは、何も特別な人だけではなく、かなり一般的なことではないかと私は思っている。私にも、思い出のスポット、人生を変えてしまったスポットがある。
イグナチオ教会での不思議な経験は、このブログでも何回も書いたので今日は書くのをやめるが、もう一つ忘れられない聖なる場所の経験がある。
もう20年以上前に、父が肺がんでなくなるのだが、亡くなる直前の夏に、父の郷里に家族で旅行に行った。病気が一時的に回復したこともある。そして、天気の良いある日、瀬戸内海が一望できる岬に、父と二人だけで父の知っている神社まで登ろうということになった。そこは、荒れ果てた神社だったが、父によると、その神社は父の同級生などが出征の時に無事を祈った神社だったそうだ。
その神社には不思議な言い伝えがあったそうだ。この地方の豪族が海坊主?と深夜戦う。戦いは厳しく、大将がもうダメかと思ったとき、鶏が鳴く。それを聞いた、海坊主は朝が来たと思い退去し危機を脱出する。そして、ふと刀の柄を見ると柄の中の鶏が血を流していた。そんな話である。
父は、その神社の参拝からしばらくして、体調が悪い中役員会に出席する。大切な決議をする会合だったそうだ。その後、すぐに入院し間もなく亡くなった。父といえども他人なので、良く判らないが、私は父が、その神社で何かに気づき、戦いを決意したのだと思っている。
そのうち、私も天国に行ったとき、実際はどうだったか聴いてみたい。
蛇足だが、私の経験ではあるが、これをロジャースは次のように言っている。
17.自己構造に対して基本的になんらの脅威も包含していない条件下においては、自己構造と矛盾対立する経験は、知覚され検討されるようになり、また自己構造は、そのような経験と同化し包含するように修正されてくるであろう。
プロセススケールを考える 4/12