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縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

日本の和を貴ぶ思想はどこから?(縄文からの風 ⑤ 8/10)

2015-03-04 | 第八章「魂と聖霊」

 昨日は、腰越でU先生の勉強会があった。お題は「無防備」。傾聴という心理学の中で実に奥が深く大切な分野にもつながるお題である。

 その勉強会を受けて、昨日から無防備のことを考えていた。無防備ゆえに、自分のこころの奥が見えて選択がうまくできた・・・ということもあるが、無防備ゆえに、階段を外されて絶句した。こんな経験は誰にでもあるだろう。

 比較文化や比較宗教などの観点から無防備はいろいろ楽しい想像をめぐらすことができる。海外に行って、犯罪に巻き込まれたことは良く聴く。今も、まだ美風は残っているが、田舎に行くと玄関に鍵がかかっていないのは日本では当たり前だった。島国?なのか、縄文の美風が残っているのか、日本は無防備だ。

 縄文時代。弥生時代は戦争が多発したが、縄文時代は、個人的な戦いはあったようだが、集団的な大規模戦争はなかったようだ。

 さて、時代は下がるが、日本書紀の推古天皇のところに十七条憲法がでてくる。これは聖徳太子が考案したとされるが、これを巡って井沢元彦氏が『逆説の日本史』で、和が「わ」というヤマト言葉であること。さらに第一条に「和をもって尊しとなす」を置く意味について一石を投じた。議論をつくし仲良くする・・・それが、仏法等のイデオロギーより大事で起源はかなり古い・・・そんな論旨であった。

 さて、縄文時代は環状に竪穴式住居があり、中央に墓地や祭祀の広場を置くことが多いのが定説である。私の住居に近くの堀之内のNo.72遺跡もそうした環状遺跡で、東西200m、南北90mの範囲に住居が巡っている。厳しいヒエラルキーをもった大陸系文化ではなく(階層はあったと思うが)まさに、和をもって尊しとなす住居だったように見える。

 そして、井沢氏のように何故、この和が第一条にあり、仏教信仰が第二条、天皇に従うことが第三条なのかを思いめぐらした。縄文時代は、日本列島はもともと多民族国家であったことは定説になってきている。恐らく、宗教等もそれなりに部族間で異なっていたのだろう。その中で和を保つことは、実はかなり強烈な論理的背景がなければならないのではと思う。メタ宗教的な何か、それは何であっただろう。

 神話には、神々の起源の神話が各地に残っている。私は、以前ブログで述べたが、それが二通りあったように思えてならない。一つは混沌という物質世界が前提の神。もう一つは、その混沌とは無関係に存在する神だ。そして、和の思想に親和的な神はと思いめぐらせると、混沌とは無関係に存在する神ではないかと思うのだ。混沌から生まれたA神、B神、C神・・・・。これらに優劣はつけにくいし、優劣をつける基本的な基準はあるように思えないのだ。しかし後者の「ある」という名の神は、直観的に把握できるからだ。

 縄文時代、日本列島では大きな戦争もなく、恐らく大陸の文化と比べると人と人の争いで命を落とすことの実に少ない時だったと思う(この影響が、例えば、現代日本は自死は多いので自慢はできないが、他殺が実に少ない)。その背景には、私は自然災害が多かったという要素も無視できないと思う。戦争をするより自然に打ちのめされることが多かったのではないか。特に縄文中期以降は寒冷化で人口はどんどん減っていく。それも数十年という単位でなく数千年という単位での右肩下がりなのだ。そんな中では、どのような神が直観されるのだろうか。

 私たちの祖先は、筆舌に尽くせないような苦難の中を生き抜いてきたことは間違いない。その中で、精神的な文化(文字が無かったので残せないが)が逆に深まったのだろう。そして、その中でも生き抜いてきた神、それは「ある」という名の神だったのでは・・・そんなことを妄想してしまう。

縄文からの風⑤ 8/10

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