イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

集まって咲くシャクナゲ!

2007-04-20 | 第四章「愛とゆるし」

先日は、友人と酒を酌み交わしながら、日本の神社仏閣の国宝の写真を観て楽しんだ。同じような興味関心を持った方と、語り合うことは本当に楽しい。

残念ながら、そうした楽しい時はほんのひと時で、人生は多くの不安感に満ちている。

ただ、不安感が、人を不幸せにするのなら本当に辛いが、不安感が幸福へのメッセージ、生き甲斐へのメッセージと理解すると、辛さも半減する。

友人と一緒に寄った公園に、シャクナゲが咲いていた。立夏はまだだが、本当に見事であった。シャクナゲはツツジ科であるが、花弁がまとまって咲くので実に華やかである。

一匹狼で暮らす生き方もあるが、やはり、同好の士の集まり、同志の集まりは有難い恵みだと思う。

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嫌いな人を好きになれるか?

2007-04-19 | 第四章「愛とゆるし」

時々、「嫌いな人を好きになれるか?」を話し合うことがある。

私たちは、仕事として、あるいは使命として、様々な理由で感情的に嫌いな人とも付き合わなければならない。時と場合により、体感的に駄目な人とも付き合う必要がある。

嫌いな人に出会えば、感情は正直であり、ネガティブな感情が沸き起こる。

ただ、ネガティブな感情をもつことは、自分の人格が至らないからではなく、単なるひとつの感情であり、自分になにかを知らせる大事なシグナルと考えたほうが良い。

このことに気がつかない前は自分の嫌悪感で、その人本人だけでなく自分も嫌悪してより混乱した。

今では嫌悪感を感じても、なにも自分を嫌悪したり、人に単純に防衛的な行動をすることもないと考えるようになった。

嫌悪感に対処するため、ある人はその人の良い部分を必死で思い出すという。また、性善説的に全ての人の本質を考え、どんな人も本来は愛すべき魂を持っていると思うこともできる。

理性的に考えながら、ストレスを軽減する方法はいくつかあるようだ。

風に揺れる可憐なポピーの花言葉は、慰めと忍耐!

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幸せの黄色いチューリップ!

2007-04-18 | 第三章「無意識の世界」

家の近くの香り豊かなムスカリの中に、黄色いチューリップが咲いていた。私は黄色い花が大好きで、とても元気付けられる。

朝起きてから、寝るまで、本当に一日の感情の流れは驚くべきことが多い。今日の早朝は、久しぶりにとても憂鬱なひと時であった。敢えて起きだして掃除をしているうちに、急に平安な気持ちに変わった。それと共に考え方が、とても健全になる。

それからは、いつものペースで午前中が過ぎていった。今昼ごろの感情は黄色いチューリップのようである。ムスカリの花に申し訳ないが、とてもブルーな状態早朝5時ごろの状態が黄色いチューリップに変わってしまった。

こころの流れは、ときどき理屈以外の何かで変わるように思える。掃除という、人の為にする行動が、感情や思考を突然変えていくのは不思議である。

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アゼリアってツツジのこと?・・・・・・・・・

2007-04-17 | 第三章「無意識の世界」

小学生のころ、友達と学校から帰るときは、いつも寄り道をした。東京の外堀公園あたりが多かったが、ツツジの陰で隠れてよく遊んだものだ。春になると、ツツジが咲き出し紫や白、赤の花が咲いた。

ツツジは家でも、道路、公園でも、植え込みにどこでもあり。だんだん年とともに空気のような日常的な存在になっていった。花をみても素通りしてしまう。

家のそばに「アゼリア・ハウス」という洒落たアパートができたときは、アゼリアというのはどんな素敵なものかと思った。アゼリアがツツジであることを知って、ちょっとがっかりしたものである。

日常的になるというのは怖いものである。昨晩バグダットERというドキュメントを見た。イラクで爆弾テロなどで負傷した兵士の緊急医療を報告したものだった。

人の死や負傷が単なる数字として、日常的に語られる中、大切なことを忘れてしまうと思う。そんなことを実感したドキュメントであった。

恐ろしい殺戮の現場から病院に運ばれた若い兵士が、従軍牧師に「泣きたかったら泣いても良いんだよ。」と言われ、号泣するシーンを観たときは涙がでた。日本でも形は違うがバグダットはあるのだろう。

ツツジの花もよく観ると美しい!

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やはりチューリップ・・・・・・・

2007-04-16 | 第三章「無意識の世界」

山吹が物心ついてからの一番目の花とすれば、2番目はチューリップだと思う。幼いころ遊んだ庭は、祖父母の戦災前の家の土台がそのまま花壇になっていた。

小さかったので、大きくて背の高い花のイメージがある。写真のように上から見ることは無かった。「さいた、さいた、チューリップの花が・・」の童謡もよく聴いた。

いろいろ咲いている花の中から、チューリップを見つけるとホッとする自分がいる。チューリップと共に一緒にいたはずの祖父母の思い出を無意識に求めているのかもしれない。同一化のメカニズムかもしれない。

何気なく見て、どこか元気になるチューリップ。

チューリップの遠い記憶を再統合し、元気を貰っているのだろうか?

チューリップに感謝である!

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