イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

健康の話題をひとつ・・・(私のストレスとは?② 5/10)

2017-04-23 | 第五章「和解と平和」

 1999年ごろWHOの憲章前文の健康の定義が見直され、健康の定義に新たにdynamicとspiritualといった概念を入れるべきという動きがあった。最終的には現在の前文が今でも機能しており、変更の緊急性がないということで、採択にならなかったものの、高齢化を迎えている世界各国の大きな話題となり、その影響は確実に今にも及んでいるようだ。

  日本では例えば平安時代の貴族が阿弥陀如来像に結んだ紐を手に死を迎えるなど、いわゆるspiritualな文化は縄文時代から底流に流れており、非宗教的になっている現在でも宗教は信じないが、魂は信じるという人が過半数を占めるようだ。私はカトリックの信仰をもっているので、当然ながら魂・霊魂の存在を信じており、2003年に会社を辞めたときも、spiritualを重視したグループリビング(老人施設)建設に貢献したいという想いもあった。

 日本の老人施設や、医療機関では世界的に見ると福祉や宗教の影が小さく身体のケアをする医療が異常に幅を利かせているようだ。死に水という古来の日本の習慣も、従来は死を迎える前に近親者が再生を祈って水を与えたのに、今では死後になっているようだ。死を迎える前に、自分の魂をケアし残される人に平安を与えたい。そう思うのは当たり前のことだと思うが、そういう習慣は変になくなってきている。私の場合は小さくてもよいから聖堂があるなど宗教的に寛容な老人施設で自分の死を迎えたいと思った。

 さて、spiritualをきちんと捉える人間観は現在世界的には主流であり、人間のケアを身体のケア(医療)、こころ(成育史)のケア(心理療法)、魂のケア(宗教など)の分業でとらえようとしているが、5000年前などはどうだったのだろうか。私は、縄文小説の中でいろいろ思索した。はっきりしているのは、魂のケアは確実にあることだった。さらに、フォーカシングで有名なジェンドリンが日本の俳句や和歌の文化に驚いたように、日本の言霊文化はこころのケアにも通じると推定した。また、20歳台のポリオに罹ったと推定されている縄文中期の女性の遺骨等も発見されており、福祉や医療も存在したと考えられる。縄文時代は、今の世界より健康的な世界だったかもしれない。

 U先生の<生き甲斐の心理学>は、欧米の影響が強い人間観(特定の宗教ではなく、比較宗教学的)をもとにしているが、縄文小説を書く上で貴重な羅針盤となった。性善説的な人間観で縄文世界を考えていくと、人間なので縄文時代でも殺人事件や部族どおしの葛藤もあったと思うが、健全な社会の和解と平和への道筋も見えて来る。

私のストレスとは?② 5/10

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ 人気ブログランキングへ <・クリック応援いつも感謝しています!

 

 


成育史の中の<愛とゆるし> (私のストレスとは?② 4/10)

2017-04-22 | 第四章「愛とゆるし」

 世の中には、こうしたいと思っても全く歯が立たないことがある。私にも経験があり、苦悩というのはこういうことかと、その時、変に納得した。

 しかし、その時は大変でも後で考えると、そうした経験が人生で大きな意味を持っていることがある。

 さて、この5-6年、日本の古代を学ぶようになってから、系図の持つ意味をしみじみ感じている。ギリシャ悲劇のオイディプスにしても系図にしてみれば、あっけないくらい簡単に表現できてしまう。同じように、日本史の中に登場する人物の系図を見ると、さまざまな人生模様が想像できてしまう。

 ただ、運命と言ってよいかもしれないが、その中で二通りの人生があるように思う。自分の出自の大枠から余りずれないような、周りが作った軌道に乗る人生を歩むもの。そして、もう一つは個性を発揮しわが道を切り開く人生だ。しかも個性を発揮して、真善美のような普遍的な何かに触れる人生は貴重だと思う。

 拙書、縄文小説も実は系図を大切にしている。そして運命に翻弄されても、その中で意味を獲得し個性を発揮する人生を描くことを目指した。

 本当に意味を発見すると、人間は大きく脱皮するように思う。時には人生が180度変わることもあるだろう。それが、本物であるときは私は「愛とゆるし」のドラマがどこかにあったのではと憶測してしまう。心理療法の世界でも、ロジャースの六条件が大きな働きを示すことを教えてくれるが、これも「愛とゆるし」に通じるところがある。

私のストレスとは?② 4/10

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ 人気ブログランキングへ <・クリック応援いつも感謝しています!

 


こころの故郷を辿る (私のストレスとは?② 3/10)

2017-04-21 | 第三章「無意識の世界」

 まじめに「生き甲斐の心理学」を学んでいくと、ギリシャ神話や日本神話をはじめ、世界各国の神話を親しむようになってくる。神話というとおとぎ話のように思われる方が多いと思うが(私もかつてそうだった)、部族・民族が生き残るうえで大切な生きた思想と考えても、さほど外れていないように思う。

 そして、年老いて読み直し、その意味をあれこれ考えると何か元気になってくる。知恵・自我統合性・絶望感の話と深いところでつながっているのではないだろうか。

 さて、昨年自分のこころの故郷を辿りつつ、ついに縄文時代中期、約五千年前を思索していた時に、自分の信じる宗教・哲学の起源に想いを廻らせた。もともとは幼児洗礼を受けた私だが、高校生の時にニーチェなどに凝った時期があり、物質だけのサイコロをふるような人間観、世界観に自分ながらぞっとした時もあった。それと同じような人間観・世界観が5000年前にあったのだろうか?それとも伝統宗教に近いものがあったのか?

 5000年前というと、旧約聖書の時代より古く、その時分に文字をもつ文化といえばメソポタミアくらいしかなかった(メソポタミアの楔型文字はエジプトにも使われるようになる。日本の縄文時代の文字もないようだ)。そして、U先生からジャン・ボテロ著の「最古の宗教」(りぶらりあ選書 2001年)を紹介されて、当時の宗教をいろいろ勉強した。神話もいろいろあるが、やはり知恵・自我統合性・絶望感の問題とつながってきそうな、宇宙開闢と人類起源論の神話に特に興味を覚えた。

 メソポタミアの楔型文字で記述された宇宙開闢や人類起源論は、高校のときに自分ながらぞっとした人間観ではなく、「宇宙はその機能において神に従属し、また人類も神々との関係の上に存在するという直観」に基づいているようだ。もちろん、メソポタミアの文明はやがて森林を破壊しピラミッド型の支配者による文明となっていくので、日本の縄文文化とは異質だと思う。しかしながら、土器の紋様(蛙人紋様など)やシリアの刻印を押された土版が日本の縄文時代の土版(大湯遺跡)に酷似するなど、やはり同時代の西と東の文明の交流は無視できないと思う。そして、縄文時代中期の小説に、メソポタミアの神話を重ねて楽しんでしまった(ウェー神など)。

 それから、縄文小説を貫く思想は、新約聖書の次の言葉だ。<イエスは言われた。「はっきり言っておく・アブラハムが生まれる前から、『私はある。』」>(新共同訳 ヨハネ福音書 8-58)。勿論、日本の縄文文化にキリスト教があるわけではないが。

 私が今住んでいる多摩は、縄文文化が花開いた地域の一つである、現在に至るまで、その祈りの文化は継承されているように思う。江戸時代に平田篤胤に紹介された、勝五郎再生の話も舞台は近くにあり興味をそそられる。そして、この地で散歩しつつ、自分のこころの故郷を感じていくと、何かこころが落ち着いてくるようだ。

私のストレスとは?② 3/10

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ 人気ブログランキングへ <・クリック応援いつも感謝しています!

 



 

 

 

 


わびとさびが、人生を豊かにする。(私のストレスとは?② 2/10)

2017-04-20 | 第二章「五感と体感」

 年をとり、仕事の第一線から遠のき、だんだん身体が不自由になっていく。人生を再出発するのも困難になっていく(例えば私が小説家になることも(笑))。老年とはそんな時期である。しかし、最後の死を迎えるときに「自分の人生」に悔いはないと安らかに旅立つことができれば全て良しなのだろう。そんな、大切な時期なのだと思う。そして、エリクソンはこの時期を、知恵・自我統合性・絶望感の3つの面から捉えている。

 身の回りで、老年を送る先輩達はどのように過ごしているか?それも、この問題への一つのヒントになる。自分史を書いたりする。巡礼をする。自然に親しむ。旅行をする。宗教や哲学に興味をしめす。芸術に興味を示す。他にもいろいろあると思うが、私もこの2-3年を振り返ると、60歳を過ぎた多くの人と同じような模索をしていることに気づく。

 私の場合は、「生き甲斐の心理学」の論文を通して自分史を検討した。さらに縄文小説というかつては想像もしなかった暴挙?に出て、自分の宗教・哲学や成育史を縄文の世界に投影して推敲の中で統合を試みたようだ。

 さて、昨日某所で生き甲斐の心理学の勉強会に参加させていただいたが、その時、この知恵・自我統合性・絶望感の話題が出た。私にとって多くの気づきを得た貴重な時であったが、その一つは年老いてからの五感・体感の重要性であった。五感・体感と漠然と言うと分かりにくいが、一つの美意識に集約されるかもしれない。

 日本には昔から「わびさび」という言葉がある。私は長くこの言葉の本来の意味を考えていた。よくわからなかったからである。そして、昨年の夏に青森の津軽半島をドライブしたときに、その意味を実感したのだ。

 ちょうど、太宰治の「津軽」を読んでいて、その中で「古池や蛙飛び込む水の音」の説明にいたく共感した後だった。太宰治の「わびさび」感は、次の不思議な経験を鋭く説明してくれた。

 濃霧でほとんど前方が見えない中、恐怖心と戦い必死に絶壁を縫うの海岸道路を運転し、見えないので対向車の警笛を聞き分けるため耳を澄ましていたのだが、竜飛岬にやっと近づく時、鶯の声が聞こえた。そして、濃霧という困難の中で、私はまわりの命と鶯を通して統合されたように感動した。

 絶望とも言える状況の中で、ふとしたことで五感・体感を通して何かと統合される。

 これは、決して日本のオリジナルではないと思う。例えば旧約聖書のノアの箱舟で、放った鳩が陸地を見つけたのかオリーブの葉をくわえてくる場面がある。これなどは、「わびさび」といえるのではないだろうか。伝統とは意外に普遍的なものではないだろうか。

私のストレスとは?② 2/10

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ 人気ブログランキングへ <・クリック応援いつも感謝しています!

 

 


年をとってからのストレス・・・(私のストレスとは?② 1/10)

2017-04-18 | 第一章「意識と知覚」

 昨年65歳で、初めて縄文小説を発表した私だが、そんな私のストレスはどうなっているのだろうか?

 U先生の「生き甲斐の心理学」を学び第一論文を64歳で書き終わってから、私の脳裏にはエリクソンの8つの人格形成の最終段階が引っかかっていた。61歳を過ぎるころから、それまでの人格形成の段階として、知恵、自我統合性、絶望感の期間に入る。ちょうどその時期の私なので、知恵、自我統合性、絶望感の意味合いが見えにくいのではないか?

 今考えると、その不安(絶望感)が縄文小説の原動力になっていたかもしれない。私は日本ではマイナーなキリスト教(カトリック)を背負って生まれ、反発しながら育ち、そして回心し今に至っている。しかし、そうした私は晩年をこの社会との関わりの中で、どのように生きるべきなのだろうか。自分の信仰とは何か、日本社会とは何か、一万年以上続く日本の文化の中で、こうした自分を新たにとらえなおしたい。そんなことが小説を作る動機だったようだ。

 縄文文化をいろいろ考察したが、万葉集や日本神話、メソポタミアの神話などに触れたことも貴重な体験だった。その中で、創世神話や人祖の神話の意味をいろいろ考えた。それは私にとって貴重な体験だったようだ。古の絶望感に対する希望や知恵が溢れていたように思う。 

私のストレスとは?② 1/10

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ 人気ブログランキングへ <・クリック応援いつも感謝しています!