イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

どんなストレスか?(私のストレスとは? 10/10)

2017-04-17 | 第十章「今ここでの恩寵」

 今日は私にとって最大級のおめでたい日であった。復活祭での孫の幼児洗礼だったのである。そして、感動的なひと時が済んで、家族集まって夕食を囲んだ。が、何かへんだった。皆いらいらしてているようだった。私も、何かへんであった。

 こうした場合、自分のストレスを簡単に身体からくるストレス曲線、成育史からくるストレス曲線、魂からくるストレス曲線と分けてみることをU先生から学んだ。身体は医療(物理的な身体)の対象、成育史は心理療法やカウンセリングの対象、魂は宗教や哲学の対象である。まあ、簡単に言うと、このストレスから考えると、医者に行くべきか、カウンセラー(外国では国家資格がある)に行くべきか、宗教家のところに行くべきか・・・こんな分類である。

 私は、先週は風邪で熱を出したり、仕事が深夜まで及んでいたので身体からくるストレスだと思った。「いやー疲れてるのかな~」。そんなことを言うと、皆異口同音に「私もそうかな」。

 十分睡眠をとっての休養。こころのストレスをああだこうだと分析する以前に、睡眠が十分とれているか、体調はどうかは大事だ。特に4月はそんな季節かもしれない。そして、休養をとる。

 この区別は、今の世の中ではとてもに重要だと思う。十分寝ればよい、ちょっと気分転換すればよい・・・そんな時に、結果的にへんてこな身体の治療をして、ますますへんになるということを聞くことがある。魂や成育史の問題に過度な身体の治療(薬)はどうだろうか。

 話しはちょっと飛ぶが、認知症治療でスウェーデンでは医療より福祉に投資し、認知症が重度化するのを防ぎつつ、財政的にも成功していると聞いた。興味がそそられる。まあ、その真偽はわからないとしても、生き甲斐を求めている老人に、薬よりは別のものが必要なことは確かだと思う。生き甲斐の実現にそうことが重要ではないか(ささいなことでも)。

 そして、実はこの問題について、最近こころの疼きを感じている。

私のストレスとは? 10/10

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愛の原型を楽しむ・・・(私のストレスとは? 9/10)

2017-04-15 | 第九章「愛」

 厳しい日常の中で生きているときに、ふと思い出す愛の原型。生き甲斐の心理学を学び始める前は、そんな愛の原型があるとは、あるいはその大切さなど考えてもみなかった。だいたい、過去を思い出すことは余り楽しいことではなかった。

 愛の原型とは成育史の中で、心底こころが温まるような名場面である(主観的な)。そういわれて初めて愛の原型を考えてから、もう15年以上経過したが、そのころと今を比較すると引き出しが増えていることに気づく。あれは今考えると愛の原型の一つだと思える場面が増えている。昨晩帰宅時に見た満月に近い月も、幼いころに母や祖母たちと庭先で見たお月様に似て、一つの愛の原型に触れていたのだろう。こころがほんわかと温まった。

 15年前は恐ろしい場面にすぎなかったのに、今は最上級の愛の原型だったなとしみじみ思うものもある。伊豆の海水浴で波で海中の飛び込み台の柱に引っかかった絶体絶命のとき、父に助けられた経験がそれだ。全く英語がわからない中でアラスカの小学校に一人入ったときに外国人の女性の先生とのやりとりも、はっきり覚えている原型の一つだ。

 自分の中には、いろいろな愛の原型がある。なんとなく自他肯定的に分類できるものもあれば、自己肯定・他者否定に通じる場面もある。そして、過去のことではあるが、ストレスの多い今ここでの日常の中で、影響を及ぼしていることも感じる。自分にとっての愛とは何か?哲学的に愛をとらえるやり方もあるが、心理学的にアプローチする方法もあるのだ。

 さて、明日は復活祭である。春分の日の後の満月を過ぎた最初の日曜日だ。そして、嬉しいことに孫の洗礼の日である。

私のストレスとは? 9/10

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ストレスという杖を持ち・・・(私のストレスとは? 8/10)

2017-04-14 | 第八章「魂と聖霊」

  何気なく道の隅にある祠やお地蔵様。昔は眼に入ることもなかったが、最近は思わず佇みしげしげと見入ってしまう。有名な仏像やガイドブックにも載っていないお地蔵様でも、長い時間祈りが込められているのだろうか、何か頭が下がるものだ。

 祠やお地蔵様でなくても、道端の雑草や野鳥に感動するときもある。美しい夕焼けに感動することもある。

 年をとりできることが少なくなっても、私は若いころよりもこころの自由を得ているように思う。もちろん、自分が今は何もできない政治や経済の話などで、ストレスを感じ心が氷のようになることもあるが。それは忘れ、自分が自由にできる自己肯定・他者肯定の道に焦点を合わせ、その中でストレスを杖に歩んでいく。意外に楽しい。これも生き甲斐の心理学のお蔭かなと思う。

 ストレスと毎日のように付き合うのは若いころと同じだが、ストレスを分類しよりより知ることで、あるいは、自分のこころを傾聴する力をつけることで、ストレスの大半は人生の宝となるようだ。

 同行二人という言葉がある。杖をつき弘法大師さんと一緒に巡礼するというイメージは、信じる宗教は違っても感動する。私にとっての杖は、湧きおこる感情かもしれないが。

私のストレスとは? 8/10

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小さな理想と大きな理想 (私のストレスとは? 7/10)

2017-04-13 | 第七章「光と復活体」

 ストレスは良いものか悪いものか?こうした質問を受けたら、私は最近、良いものだと言うことにしている。もちろん人それぞれキャパシティがあり、それを越えるようなストレスは健康上問題ではあるが。

 ストレスはそもそも何であるか?U先生の生き甲斐の心理学ではストレス曲線は理想と現実のギャップと考える。誰にでも、実際の関心の対象に関しては、こうあるべきだといった理想があり、そうではない現状があるものだ。

 例えば、洋式トイレの便座がある、独身で一人住まいの時は、自分の思いの通りなのでストレスはないが、配偶者と一緒になると、トイレを終えて便座を上げるか下すかは性差等からか、配偶者と理想形が異なることが多い。

 こうした場合、自分の小さな理想にこだわっていると(意識的にも無意識的にも)、二人の仲はギクシャクするものだ。

 まずは、ストレス(また、便座が下/上になってる!)を感じた時、つまり暗い感情が湧きおこっている時(不信感、嫌悪、怒りなど)にどうするかが重要だ。U先生は「ストレスは幸福へのシグナル」とよく言われる。湧きおこってくる感情を、いったん客観視してみる。その怒り?は私に何を教えてくれるのだろうかと・・・

 状況によって(タイミングや相手の状況)、時には我慢(抑制したり・・)する必要もあるかもしれないが、相手に自分の考えをうまく伝える必要があるかもしれない。主張より感情を伝えるほうが良いこともあるかもしれない。その結果、新たに和解が成立しちょっと大きな理想ができれば幸せである。

 家庭や職場、仲間との場、さまざまなところでこうした理想の問題が発生する。成育史を始め違ったひとたちが集まるのだから当然である。そして、ストレスを感じたときに、自分の真実(ストレスを感じることは大きな意味がある)を否定(抑圧)するのではなく、自分自身でその意味を考え、自己肯定・他者否定(尊大)、自己否定・他者肯定(卑下)ではなく共存共栄(自己肯定・他者肯定)の道に向かう。それが重要だ。

 もちろん、我が家の便座問題?のように永遠に解決できないこと(笑)もあるかもしれない。ただ、話し合うことで現状は変わらないまでも、お互いをより理解し受容していけるようだ。つまり理想がすこし変わる。

私のストレスとは? 7/10

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スパイラル・アップ (私のストレスとは? 6/10)

2017-04-11 | 第六章「螺旋状に上昇する意味」

 4月は、毎年忙しい時期であるが、今年はさらにお目出たいことが二回あり、ちょっと大変なことが一件、さらに仕事も大変で、何か怒涛のような一ヶ月である。しかし、そういった中でも昨日はA先生の太極拳・気功のレッスンがあり、その後は楽しいランチタイムがあった。

 このところ、八王子のレストランをレッスン仲間と開拓しているが、不思議にもおいしい店に出会う。昨日は労政会館のそばの南米ペルー料理。ちょうど、巨石文化に興味をもっていたこともありお料理もおいしかったが、マスターのお話しに興味深々。心と身体に元気をいただいたようだ。しかし、南米の現地語(スペイン語やポルトガル語以前)が二通りでケチュア語とガラニ語であり日本語にも似ているとのことに驚いた。縄文時代の交流はどうだったのだろう。妄想の世界が羽ばたく。

 さて、大変な中で何とかやりくりし、ストレス曲線を乗り切り幸福曲線にたどりつくと、またもや次のストレス曲線がくるようである。この流れは円環のようだが、私にとっては円環というより螺旋状に上がっていくイメージがある。実際は私は自分の死に向かっているだけなのだろうが、天に向かって少しかもしれないが登っているイメージがあるのだ。

 このことは、私の信仰故の精神力動と深く関係しているのだろう。

 私は母がクリスチャンで幼児洗礼を受けたが、自我が発達し(生意気になり)高校生のころ決定的に神が信じられなくなった(逆回心なのだろうか)。まあ、それは小学校のころの事件が遠因だったと今では分析していて、神を信じようと思っても信じられない経験は、深い悩み(ストレス)でもあったと思う。これは、昨日の関係性の問題であり(他者が神仏のケース)、求めているのに求めきれない。一言でいうと、昨日の映画だと主人公がピアノの鍵盤押せばいいのに押せない。そんな状態だったようだ。一歩踏み出せばいいのに踏み出せない。

 それが、不思議なことに50歳近くになって、背中を押される不思議な経験をし、一瞬にして私の深い悩みは去っていた。そして、天の方向を見えて来ると、それに伴い螺旋状に上昇する感覚をもつようになった。

私のストレスとは? 6/10

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