昨日に続いて言語の話題をもう一つ。
どうして疑問文はイントーネションが尻上がりになるか。もちろん疑問詞で始まる疑問文は必ずしも尻上がりではないが、尻上がりのイントーネーションでも間違いではない。
疑問文が尻上がりのイントーネーションだとそこで一まとまりのテーマが終った訳でないということを示しているということだろう。
だから疑問文の場合はそこで終っている訳ではなく、続いてある答えの文の文末のイントーネーションが下がって初めて一つの完結したものになるということだろう。これは音楽で和音のドミソで終るのが落ち着きが良いのと似ている。
この間NHKの英語講座の放送で大西泰斗先生が「英語は順序の言語だから,順序が変わると緊張感が違って来て感情のニュアンスというか感情の緊張感が高まってくる」と言っていた。「疑問文のときも言葉が平叙文のときから倒置されて緊張感が高まってきているのだ」と説明されていて、なるほどと納得のできるものであった。
それで思い出したのが、このなぜ疑問文は尻上がりのイントーネーションかという疑問に対する答えが冒頭に説明したようなことである。しかし、「疑問文はなぜ尻上がりのイントーネーションか」という説明はどこでも聞いたことがない。これは自己流の解釈である。
文が尻上がりになったときにはそこで終ったとするには落ち着きが悪い。すなわち、聞き手はまだ話が続くと期待する。そういう心理を持ち合わせているのではないか。これはだから音楽についても同じであろう。
理屈だけではなくもっと人間の感覚の深いところに言語も依存するということだろうか。