昔、湯川秀樹から写真家土門拳のことを聞いたことがある(注)。
土門拳が湯川の写真を撮りに来たときに撮る前に彼と話をした。わざとだと思うが、腹の立つようなことを言うのだという。そして腹が立ったときに写真を撮るのだ。
湯川は多分、土門は「腹を立てたときに人はその本性が現れると思っていたのだろう」という。この話を聞いたのは1968年の4月から9月の間のことである。多分すでに土門は亡くなっていたのではないかと思うが,定かではない。
つまらない想い出話しだが、自分の聞いた話を昨日(2007年12月2日)朝日新聞で高村光太郎の土門拳評を読んだので思い出した。
「土門拳はぶきみである。土門拳のレンズは人や物を底まであばく。レンズの非情性と、土門拳そのものの激情性とが、実によく同盟して被写体を襲撃する」 これが高村光太郎の土門評である。
(2013.12.9 注) 湯川秀樹博士のような碩学を呼び捨てにするのは本当は失礼にあたるだろう。もちろん一人で聞いたわけではないので、その場に居合わせた証人がいるはずだが、それが誰であって、まだ存命の方かどうかも覚えていない。
だが、ここではすでに歴史上の人物になっているという意味で敬称をつけていない。尊敬していないという風にはとらないで頂きたい。