新聞の切り抜きをしたら、「その新聞名と日付をきちんと書いておくべきだ」と口を酸っぱくして言っていたのは私の次兄である。
彼は I 市の市役所に長年勤めた公務員であったが、部下の人たちによく言っていたらしい。
いくらいい記事でもその日付と新聞名がない切り抜き資料は無価値とは言わないとしても価値が半減する。彼はいつもそう言っていた。
だからという訳でもないだろうが、できるだけ私も新聞の切り抜きをしたら、そのようにしている。だが、昔の切り抜きはそのような原則に忠実ではなく、新聞名と日付がないものもある。
日付ということが私の意識に登って来たのは、もちろんSATP細胞の実験ノートに日付がなかったとかいうのを新聞で見たからである。
実際に私がその実験ノートをみたわけではないので、真偽のほどは保証しかねるが、多分そうなのであろう。
それくらいその日付は重要である。記録をした当時はなんてこともないのだが、時間が経てば重要な意味をもってくることがあるということだ。
エッセイを書いたときにできるだけ、日付を入れるようにしているのは自分に忠実にということもあるが、日記をつけない私の自分の過程を記録することになればよいという気持ちからである。
このブログは日付が残っているが、毎日アクセスされたものを見直して一部文章の手直しがすることがあるので、文字通りの記録ではない。
もっとも趣旨を書き換えることはないので、そういう意味では記録にはなっているだろうが。