物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

誕生日のお祝いが

2018-05-29 12:42:28 | 日記

方々から寄せられた。これは取引銀行だとかメガネ店だとか車の代理店とかからであった。鉢植えの花だとか生け花だとか、はたまたJALからまでメールがあった。これはときどき東京までJALに乗るからである。

これらはすべてこれからの商売がらみの思惑から寄せられたものである。もっとも人間としては誕生日を祝ってもらって、うれしくないわけがない。もっともそれ以上でもそれ以下でもない。なにか取引の回数がとくに急に増えるわけではない。

最近は若い人は収入がすくないが、老人は比較的金持ちであるとか、言われているようだが、そういうことは少なくとも私に限ってはない。すなわち、あまり豊かだとはいえない。何もしなければ、いいのかもしれないが、しかし、そうもいかないからである。

本はできるだけ買わないようにすでにしているが、それでも全く買わないということでもない。だが、現職で勤めていたころのようには買わない。できるだけ図書館で借りられる本は借りて読むようにしている。


テニスをやめてから

2018-05-29 12:10:57 | 日記

ほぼ2年が経った。77歳の誕生日を迎える数日前に、もうテニスをやめると言ってやめた。なかなか体力的に難しくなってきたからであった。それまでもあまり体を動かす生活をしてはいなかったので、なかなか走ることができないということもあった。

それでもいまのところ特に体の異常を感じてはいない。たぶん、ガンとかが体のどこかにすでに発生していたり、はたまた心筋梗塞とか脳梗塞だとかのタネはすでにもっているかもしれない。しかし、これは私自身のあずかり知らぬところなので、まあどうでもいい。

79歳までまあなんとか健康で来られたのだから、自分の体に感謝せずにはおれない。病院には2週間に一度とか4週間に一度とか通っている。飲む薬も少しづつ多くなってくる。ただ、そのことがまだフェータルなものではないだろうと思っている。

いつまでも生きていることがいいことだとはあまり思わなくなった。本来、私は「人が長生きすることはいいことだ」と思ってきたが、それが自分のことにおよぶとやはり簡単にそうは言いかねるという気がする。だが、西部邁さんのように自死を選ぶほどの覚悟もないし、自然に任せざるをえない。

だが、そのことは別にして、いくつかのことでまだやっておきたいというか、自分ですっきりと理解できたと思わない、数学のベクトル解析の中味だとか、熱力学や統計力学もある。

それだけではなく、量子力学でもよくわかっているわけでもない。そう考えるとなかなか人生をおさらばする覚悟はできない。


論文の投稿希望者

2018-05-29 11:45:02 | 数学

「数学・物理通信」の投稿者の候補が潜在的にどれくらいいるかであるが、その数はおよそでも推定できない。数人から10人くらいであろうか。

こちらからお願いをして少し時間がかかってでも投稿してもらったこともないではない。だが、個人的に努力してインターネットで配布しているサーキュラーであるので、原稿料を払えるようなシステムになっていない。自発的な投稿者に依存したサーキュラーである。

そこらあたりが、出版社が出版している数学関係の雑誌、たとえば、「数学セミナー」(日本評論社)とか「数理科学」(サイエンス社)だとか、「現代数学」(現代数学社)とはちがう。だからといって文章がいい加減であってもいいということにはならない。どうもそこらあたりを勘違いしてもらっては困る。

いままでの投稿者にはその辺の見当違いの不心得者はいなかった。もしいたら、投稿を断るであろう。だが、これからどうであるかはわからない。

だが、あるレベルに達していなければ、無理に発行する必要はないのであるから、その気がありさえすれば、なんということはない。それに投稿原稿はlatexであることが最低限必要である。latex原稿でないと編集ができないからである。

 


自分の原稿を読み返したら

2018-05-29 11:17:30 | 日記

「数学・物理通信」8巻5号に掲載予定の私の二つの原稿を昨日読み返したら、小さなことだがやはりミスがあった。

書いてから、しばらく見ないでいる時間をもつというのが、私のいつもすることである。そうしないとのべつ幕無しに原稿をみていると、まちがっているところもなかなか見つけられないのである。

しばらく、それは数日でも1週間でもいいが、間をあけてから読み返すと自分のミスを発見しやすい。頭に空白の期間ができたら、また新しく自分の原稿を読むことができるのである。

もちろん、時間をおいたからといって、なかなかエッセイが完成しないこともある。特に、自分の考えに進歩がないこともある。また、どこかでも学びができないこともある。それでいつまでも完成しない数学エッセイもいくつかある。それでファイルキャビネットの私のフォルダーの中で眠ったままのものもいくつかある。

先日、「数学・物理通信」8巻5号の編集後記にそのことを書いたが、あるえらい先生から恐縮されたが、別に彼への当てこすりを書いたつもりはない。むしろ自分の自戒の念を再度確認するというつもりであった。

文章をやすやすとそれも名文で書けるような人も世の中にはおられるのであろうが、凡人の私どもはそういうふうにはいかない。いつも文章を書くのは身をけずるような作業である。