物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

他人から見た武谷三男4

2018-09-27 12:23:24 | 日記
という論文を「徳島科学史雑誌」に投稿するためにせっせと書いている。今日がもう9月27日で10月1日が投稿締め切りなので、もう時間がないのであるが、ようやく半分くらい書いたところである。

ただ、昨日ちょっと自分でも予想しなかった展開になる様相を呈してきた。というのは K さんというある劇作家の方が書いた、武谷批判の論文への反論を書いているのだが、太平洋戦争の終結に関してのある一つの考えに到達した。

広島と長崎への原爆投下によってすくなくとも合わせて30万の人々が投下後数か月以内に亡くなった。それを K さんは武谷が是認したととっており、それを絶対に認めるわけにはいかないという。

そんなことをもちろん、武谷は書いているわけではない。もちろん、そうとられる恐れはないわけではないが、ちょっとあまりに敷衍しすぎた解釈であろうというのが、私の論点である。

これは武谷の文章は「革命期における思惟の基準」という1946年の論文で、武谷を批判する論者がたいていこの論文の冒頭部分をもとに武谷三男を大いに批判してきた論文である。たぶん、この文章の冒頭箇所を弁護した論者など少なくとも私は見たことがない。

それをあえて武谷批判に反論をしようとしているのだから、とても困難である。

だが、これを日本の敗戦を認めるポツダム宣言の受諾の時期とあわせて考えると、すくなくとも沖縄戦は組織的には1945年6月20日に終わっていることを知った。そうするともう太平洋戦争は日本にポツダム宣言の受諾を迫った文書は同年の7月26日には外交的に政府は受け取っていたとのことであり、その前の沖縄戦は日本の大敗北になり、6月20日には実質的に終わっていた。

だが、それでもポツダム宣言の受諾をこの直後にしてもよかったのに、当時の日本政府は受諾をしなかった。そして、8月6日と8月9日の原爆投下が行われたのであった。

そのことを武谷は「実際、日本軍国主義の野蛮は、困ったことには原爆のような、彼らには全く得体の知れないウルトラ級のもので吹き飛ばなかったことは確かであった」と書いたが、それを K さんは、「軍国主義の野蛮をふきとばすためには何十万の人民が焼き殺されてもよかったのである」という。

それは話が違うのではないかというのが私の意見である。

武谷は「軍港主義の野蛮をふきとばすためには何十万の人民が焼き殺されても仕方がない」とは書いていない。あくまで日本軍国主義のことだけしか書いていない。

その当時の日本国政府に敗戦を受け入れるつもりがあれば、広島と長崎の原爆の投下は十分に避けられたはずである。いくらなんでもすでに敗戦を受け入れた国に原爆を投下することは倫理的に許されないだろうから。それも沖縄の地上戦はすでに実質的には6月20日には終わっている。散発的な戦闘とかはあったとしても、これはもう組織的な戦闘ではなかったとは昨日インターネットで知った歴史的な事実である。

国の軍部が戦争をするということに対する明確な見通しが欠けていたとかいうことは折に触れて聞いたことがあるが、その後もどう戦争を終結させるのかという見通しが当時の政府には見られない。どうにもこうにもならない事態にまでいたっていたのに。


歴史的事実としてはポツダム宣言の受諾を発表して日本政府が敗戦を受け入れたのは1945年8月14日だという。これは妻が私がこの話をしたときに、すぐにスマホで調べてくれたことである。

現在でも指摘されるが、沖縄の犠牲の上に成り立っていた。その支配層の思考形式は現在のアメリカの基地の沖縄への集中にもみられる。政府の思考構造は70年前も今日もあまり変わっていないと思われる。

こういう事実にまで K さんが思いが及んでいたとは思われない。K さんと私は同年の1939年生まれであり、戦後に教育を受けて育った世代である。