物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

経済学からみた受賞

2015-10-07 17:37:12 | 日記
ノーベル賞がいま発表されて話題となっているが、ノーベル賞だけでなく、受賞できた人の方が受賞候補になりながら、受賞できなかった人と比べて長生きするというデータがあるらしい。

これはノーベル賞だけでなく、日本の文学賞である。芥川賞や直木賞についても平均的な寿命が4~5年長いということである。

オイコノミックスというNHKのEテレの番組があるが、そこで経済学者の大竹英雄さんがそういわれていた。この番組は最近芥川賞を受賞された又吉さんとのコンビで知られた番組である。

月曜だったか火曜の夜の番組だった。いろいろの賞を受賞するとやはり名声があがったり、所得が増えたりして、そのため数年長生きできるということだろうか。その理由はわかっていないが、おもしろい事実である。

「受賞したか、しなかったかで格差ができることになる」と大竹先生は言っていたが、そうかもしれない。幸せな人はますます幸せになるというとなんらの賞の受賞には関係がない私などはひがみたくもなるという訳である。

まあ、これはもちろん平均的な話であるので、例外はあるとのことである。日本の作家では阿川弘之さんが高命だった。今年90数歳で亡くなられたという例外はあるのだが、と話が具体的でもあった。

この番組では直木賞を受賞された西加奈子さんと今年芥川賞を受賞した又吉さんとが他に出演していた。

なんにでも経済学の眼で見るとおもしろいことがあるということらしい。

お祭り真っ最中

2015-10-07 12:10:09 | 日記
松山地方のお祭りの真っ最中である。

私の住んでいる地区のお祭りも神輿が出ていた。その前を車で通って仕事場に来たら、ここでも子どもお祭り神輿が出ていた。

今晩がその真ん中であろうか。お祭りが前から盛んであったかどうか。子どもが小さかったころには松山市の北西ぶにある大学の宿舎のあった地区でも子ども神輿が出たりした。

私は子ども会の役員をしたことがないから、その手間がどのくらいかかるのかしらないが、子ども会の役員をしている人はとても労力のかかることであろう。もっともそういう親御さんは子どもいい思い出のためにと思って尽力されていることだろう。

私の育ってきた I 市では今はどうか知らないが、お祭りは春の5月に行われるのが通例であった。5月にはつぎ獅子で人の肩の上に他の人が登り、というようなことを数人がするのである。それがどういうことからはじまったのか私は知らない。

ノーベル賞ラッシュ

2015-10-07 11:55:36 | 日記
一昨日は大村さんの医学生理学賞受賞だったが、昨日は梶田さんの物理学賞受賞であった。

二人とも事前の予想で受賞が予想されたが、その通りの受賞となった。これからも日本人の受賞は数年は続くであろうか。だが、これはあと30年後にそうであるとは思えない。というのは、いま旧の国立大学での研究費がごく少なくなっているからである。

また、若い人が外国に留学することもままならぬことになっていると聞く。こんな状況で将来に希望がもてるだろうか。

失敗をすることができる社会はそれなりの豊かさが必要である。失敗をたくさん繰り返して成功を得るのである。だが、失敗を恐れて小さな成果を論文数を誇るときに大きな期待はできない。

ノーベル賞をたくさんとれる今だからこそ警告を発しておかなくてはならないだろう。

大村智さんのノーベル賞

2015-10-06 11:25:32 | 日記
昨夜、家に帰ったら妻が「また日本人がノーベル賞をとったよ」と言った。ちょうどNHkのテレビの7時のニュースでこのことを報道していた。

なかなかこういう賞でももらわないと普通の私たちには知られないが、優れた業績を挙げた人がいるものだ。大村さんとの名前は覚えなかったが、すでに事前の予想で北里大学の研究者でノーベル賞をとってもおかしくない方という紹介をテレビか新聞で見ていたと思う。

ただ、そのことが実現すると急に有名になるものだ。ともあれ、大村さんおめでとうございます。

週休二日

2015-10-05 12:09:59 | 日記
10月3日に内子町のドイツフェスタに行ったので、期せずして土、日の週休2日になった。

私は定年退職してから日曜は休むが、土曜日はほとんど休まない。だが、日曜日に妻がどこかにコーラスを3時間ほど聞きに出かけたので、仕事場に行こうかとも思ったが、自宅で本を読んで過ごした。土曜には自分の書いた『四元数の発見』を読み返した。

どうも時間が経つと自分の書いた本でもあまりピンと来なくなっている。書いたときは最善を尽くしたはずでも、時間が経つとここはもうちょっと書き方がぶっきらぼうだなと思うところがあった。

これは「直交補空間」という節である。急に「直交補空間」とあって、その続き具合がよくない。もっともその節を読んでいくと話がつながってくるのだが、いかにも唐突である。ここはもっと書き方が工夫されてしかるべきだったかなと思うところであった。

もっとも一晩ともう少しの時間で読み終えたので、昨日は退屈だったので、二階の書棚から以前に購入していた物理学者のパイスの書いた本をとりだしてきた。これは購入してから一度も本を広げて読んだことがなかったから。

最近、江沢洋 著・訳の『ボーア革命』(日本評論社)を購入したので、それを購入時にチラッと見てボーアに関心が少し出て来たためである。

当時はボーアの原子論は矛盾だらけの理論と思われていたらしいが、やはり量子力学へのステップへと踏みだす大きな一歩だったということがわかる。

ということでボーアについて述べた本を読んでみたいという気がしたのである。

ボーアにしても、電子の波動性を唱えた、ド・ブロイにしても大きな一歩を踏みだす人には従来の考え方からするとちょっとどうかと思われるような発想があるものだ。

『ボーア革命』にはSchr"odingerが電子の波動性を唱えたde Broglieの論文を紹介したら、Debyeが「波動を論じるならば波動方程式がなくては」とそのコロキュームで言ったとか書かれていた。

このことはどこかで読んだことはあったが、再度そのことを読んで印象を新しくした。

内子町ドイツフェスタ

2015-10-05 11:47:07 | 日記
10月3日(土)に妻と二人で第三回内子町ドイツフェスタに行った。昨年に続いて2回目であった。少し早目に行ったので行ったときにはあまり人がまだ来ていななかったが、13時前に私たちが帰るころには結構大勢の人がいた。

やはりなんでも毎年続けることが大切だということである。昨年と比べて2倍くらいの人が来ていたのではなかろうか。もっとも私たちは私がビールを2杯飲んでカレーを食べたのとおつまみにソラマメを購入したこと妻もカレーと同じものを食べた。妻は運転するのでノンアルコールのビールを飲んだ。

内子町在住のドイツ人と日本人のカップルがしているテントでこれらのビールを買ったのだった。このお店はzum schw"arzem Keilerとあったのだが、Keilerというのを知らなかったので、「Keilerって何ですか」と聞いたら「いのししだ」とのことであった。これは全部日本語で聞いた。

この人は内子は2年くらいだが、日本には7~8年住んでいるということで日本語が上手だった。「もう結構日本が長いですが、 Rudolfほどではないですね」と言ったら、なにも言われなかったが、それは誰だとも聞かれなかったから、Rudolfを知っていると思った。

哲学はいつも後追い?

2015-10-02 10:40:33 | 日記
哲学は日常に起こったことを説明するとか深めるためにあると朝日新聞の「折々のことば」の今日の欄に鷲田清一さんが書いている。

「そんなことしか哲学は扱わないの」という感じがしたが、それは私の哲学びいきによるものか。

事後にいくら深く掘り下げてくれるよりも、事前になにかちょっとしたことでも警告したり、アドバイスをくれた方がいい。

原発事故のあとで、その警告を葬った人々のことを調べて岩波新書に書いてくれた方がいる。もちろんそのことも大切だが、事前に原発事故の可能性をまがりなりも警告してくれればもっとよかったろう。

ことが起こってしまった後で想定外だったといいうのはいいわけではあろうが、科学者としてまたは技術者としてはちょっとどうかと思う。

哲学はいつも起こったことを解釈するだけなら、そんな哲学はいらない。学問は前に起こったことからつぎに起こることへの対処法の処方箋が書けるようでありたい。

Je t'aime か Je t'aime beaucoupか

2015-10-01 10:27:49 | 日記
今日の朝日新聞の鷲田清一さんの「折々のことば」は Je t'aime beaucoup.だった。もちろん、Je t'aime のほうが Je t'aime beaucoupよりも「愛が深い」という説明をつけ加えることを鷲田さんは忘れていない。

その理由を説明するのが今回のコラムの眼目であったのだろう。あるフランスの哲学者の説明によると「ある人への愛は、量とか程度、比較などを超えたところではじめて生まれるからだ」という。

そうはいってもなかなか理解ができないものだが。

小田実と開高健の『英語カタカナ辞典』だったかに名うての女たらしは I love you とだけいってなにも副詞をつけないとあった。それを読んだのはもう20年以上も昔のことだ。そのときは「ふうん」と思ったものだが、その後NHKのフランス語講座で副詞をつけると愛する程度が相対的になると聞いた。それで小田実のいう「名うての女たらしはうんうん」は誤解(?)であり、言語としてそうなのだと知った。

このことは前にもこのブログに書いたことがあるとおもうが、それがいつのことだったかは検索するのが面倒だからしていない。

ちなみにbeaucoupはボークーと発音する。妻なんかはボーク―を「ぼく」と勘違いしていた。、これは「たくさん」だとか「とても」とかを意味する言葉である。