物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

自動運転車

2015-11-19 12:18:28 | 日記
自動運転車が5年後には普及するか。How a driverless car sees the roadsというタイトルのTEDの講演が昨夜あった。

googleの自動運転車を開発している技術者が昨日のNHKのEテレのTEDスーパープレゼンテーションで話していた。彼は自分の息子が車の免許を取れるようになる5年後には免許がいらない自動運転の車が町を走るようになるだろうとの希望的観測を述べていた。

要するに、いまでも自動運転の車はつくることができているが、それがあらゆる障害を乗り越えて、事故を起こさないで自動運転車として実績をつめるかということと人々が手に入れる値段で売る出せるかということであろう。

いまのところ人工知能とレザー探査機を積載の車は事故なく運転が都会でもできているらしい。そしてまわりの車も同様にまわりの環境の情報を得ることができるようになるとますます事故は防ぐことができるようになる。

自動運転自動車と自動運転支援車とは根本的に考え方が違うと言われたが、そのところはあまり説明が詳しくなくてよくわからなかった。

要するに、はじめから自動運転車をつくるということを目指しているという。もし、自動運転の車が事故を起こしたら、これは車の所有者の責任か、それとも車のメーカーの責任か、という問題もあるらしいが、これは車のメーカーの責任だと思う。だが、もし事故を防ぐことに車の所有者が貢献できるのならば、それをすべきであろうが。

古い三角法の本

2015-11-19 11:17:57 | 日記
三角関数の還元公式を理解するのに苦労している。

それでいくつかの本にあたったのだが、もう新しい取り扱いを見つけることができない。そしてそれが私の感覚にぴったりくるものは一つか二つである。

それで昔の本に違った観点で説明がされているかどうか調べて見たくなった。というのは亡父の蔵書で私が受け継いだ書籍に『三角法講義』とかいうものがあったことを思い出したからである。

庭に建てた書庫の中にあるので、取りに行くのが面倒だと思っていたのだが、今朝探し行った。明治39年発行であり、著者は上野清という人である。発行所は東京数学院というところである。表紙がとれてしまっているという時代物の書である。

三角関数の還元公式の導出についての特に新しい説明は残念ながらなかった。書庫でこの本を探したときに学生の時に場末の古本屋さんで買った、古い英語の数学の本を数冊見つけた。一つは平面幾何学の本らしいが、もう一つは背表紙のところのタイトルが私が老眼のせいもあって読めなかった。

これらの書はひもでひとくくりにしてあったので中を確かめることができなかった。日曜日にでもひもとをほどいて中身を調べてみたい。

新しい視点の発見か新しい事実の発見か

2015-11-19 10:53:31 | 日記
先日書いた西村肇さんの星野芳郎さんのobituaryで、星野さんは新しい事実を発見するよりはむしろ新しい視点の発見に力点があったと書かれていた。一方、星野さんのライヴァルとも言える、近藤完一さんは新しい事実の発見に熱心だったという。

近藤さんの場合は、それが小さな事実であろうと大きな事実であろうと同様にその発見に精を出したとあった。

ここに西村さんの星野さんと近藤さんの評のおもしろさがある。

自分のことを考えてみて、私は新しい視点の発見に向いているのか、それとも新しい事実の発見に向いているのかをちょっと考えてみたが、私の場合にはどちらもあまりだめだという感じがしている。

ガロアのノートにあった詩

2015-11-18 12:43:24 | 日記
昨夜、なにげなく書棚で見かけた、岩田義一さんの『偉大な数学者たち』(ちくま学芸文庫)に載っていたガロアのノートにあった詩を訳と原語とで書いておく。

久遠なる糸杉はわれをかこむ
色あせし秋の日よりはなお色あせて
わが身は墓場へとくだりゆく

L'eternel cypres m'environne:
Plus pale que la pale automne,
Je m'incline vers le tombeau.

岩田さんは書いている。糸杉は棺をつくるのに使われると。この詩の前に岩田さんは書いた。

ガロアは自分の生命がもうあまり長く続かないことを予感していたのではなかったろうか。

paleのaの上のアクサン・シルコンフレックスと糸杉cypresのeの上のアクサン・グラーブ、およびetenelのはじめのeのアクサン・テギュは再現できていないことをお断りする。

前にもこのブログで書いたことがあるのだが、この『偉大な数学者たち』を感激して読んだという記憶は私には残念ながらなかった。しかし、だからといってこの書がつまらない書だとは思っていない。

続々・三角関数の還元公式

2015-11-18 12:17:41 | 日記
三角関数の還元公式については最近何回かこのブログで触れたので、またかと思われるであろう。

ほとんど高校の数学を教えるときにもあまり問題にはならない箇所だと思う。だが、そこについて数週間の間考えている。多くの本を読んでどこが本質なのかを知りたいと思ってきた。

はじめ、円の円弧の部分が、x軸対称とかy軸対称とかはたまた原点対称とかであることが一番大事な点だと思ってきたが、それに疑問がでて角度の方が優先的に考えられてそれがたまたま先に述べた対称性をもっているのだと論を進めようとして来たら、最後に見た遠山 啓さんの『基礎からわかる数学入門』(ソフトバンク・クリエイティブ)では逆にこの対称性の方がもとになっているということを知った。

それでせっかくまとめていたメモを書き換えている。こういうことを真剣に考えた人がいるのかどうかはわからないが、一度はだれでも考えておかなくてはならないことである。

そのことを真面目に70歳半ばになるまで考えたことがなかった。how-toでは\thetaという角の前にある n\pi /2の\pi /2のまえの n が偶数なら、cos は cos, sinはsin で変わらないが、nが奇数ならばcosは sinにsinはcosに変わり、n\pi /2+\thetaまたはn\pi /2-\thetaが座標系のある象限によって符号が決まってくる。

これだけ知っていれば、還元公式を覚える必要はまったくないのだが、そのことの理由を一度詳しく考えておこうと思った。

ということでこだわりのこの数週間である。

Br"otchenの食べ方

2015-11-18 11:44:39 | 日記
das Br"otchenはドイツの朝食で食べられる丸形のあまり大きくないパンである。この Br"otchenの食べ方であるが、ちぎっては食べない。真横からナイフで横にナイフを入れてそこにハムとかチーズとかをはさんで食べる。

こういうことを何十年もNHKのドイツ語入門の放送を聞いているが、NHKのドイツ語の入門講座で聞いたのははじめてである。このことを私もほぼ40年前のドイツ留学中に覚えた。

フンボルト財団のドイツ国内への旅行招待のときだったかその他の機会だったか、覚えていないのだが、朝食に行ったときにやはり Br"otchenが出ていて、食べ方を知らないものだから上からナイフを入れて二つに切って食べた覚えがある。そのときインド人の科学者が横からナイフを入れてそこにハムをはさんで食べているのを見て、ああ、こういうふうに食べるのか思ったので印象深い。

そのことを先日、朝食の時に妻に話したら、そのとき Br"otchenにかぶりついて食べるだろうかと尋ねられた。このことまで観察していなかったので、私は知らないが、ちぎって食べないのなら、やはりかぶりついて食べるしかないのではないかと思うが、これは確かではない。

ということで一つの疑問が解消したら、次の疑問が出て来たということである。

ちなみに Br"otchenはもっぱらドイツで使われる語で、オーストリアではdie Semmelと言われる。多分私昔勉強したドイツ語の入門書のせいで Br"otchenよりもSemmelの方を先に覚えたという記憶がある。

シリア内戦

2015-11-18 11:15:29 | 日記
ヨーロッパへの難民が増えてEU各国が困っている。先日のフランスのテロでISの拠点を空爆が強化された。

だが、今朝、朝日新聞に酒井啓子千葉大学教授が述べているようにシリア内戦をストップすることが最終的な方策であることはまちがいがない。

シリアの独裁政権が退陣しないためにそれに従来から反抗してきた、反政府勢力はいくつかのグル―プに分かれて細々と独裁政権に対抗してきたとか。

そこへ最近のISの台頭である。ISは中身がよくわらないが、残虐な行為と過激な思想が流布されている。独裁政もISもどちらもどちらではあるが、少なくともISは当面含められないかもしれないが、全体的な和解的な統一政権を誕生させることからはじめなくてはならない。

そして、その上でISの中にあまりに過激で残酷でない勢力があるのならば、それを取り込んだ政権を樹立することができなければならない。

夢のような話であり、すぐにその条件が満たされるという保証はないが、それ以外には根本的な解決はないだろう。それができるのかどいうか。叡智がこの際に大いに必要である。

もともとシリアは緑豊かな農業国だという。それが内戦で大地はすさみ、市民は難民としてしか生きる道がないのは悲惨であろう。

認知症

2015-11-17 12:19:04 | 日記
認知症の予防とか治療とかが大いに進歩しているという。

それだけではなく、認知症にかかると記憶がなくなって、人間としてゼロになったのかとも思われていたが、そういうことはなくやはり感情とかも生き生きとして残っているのだということも確かめられたらしい。

認知症、恐れるに足らずとまではまだ言えないにしても、その対処法は大分進んできた。また初期の段階のMCIと言われる段階で気がつけば、回復可能な方法がある。

そのうちに薬である程度認知症が回復するという時代にまでなるかもしれない。もっともなんでも長生きするのがいいのかはそういうこととは別に考えなくてはならないことである。

パリでのテロ

2015-11-17 11:18:42 | 日記
テロは人間の顔をしていない。

本当はテロをする人も一人の人間のはずだから、人間の顔が見えてもいいはずだが、なかなかそうはいかない。

ISがどういう理由でシリアやイラクで起こってきたのか知らない。だが、そこに至るいきさつはあるはずだが、なかなかそれをルポすることのできる人はいない。

人々は単にテロの結果とかを知るだけである。そうするとテロは人間の顔をしていない。そこには深い虚無感が漂っているとしてもそれを知ることも一般の人にはできない。

また、テロの被害にあう人にはもっとたまらない。どういう人がどういう理由でそのようなテロに走ったかなどというような事情を知る機会もなく、ただ単に人生の幕を引くことになるのだ。

だから、テロが人々から非難されるのは当然であろう。ひょっとしたら、テロに走った人のその生涯のいきさつを知ってテロを防ぐことや社会をよくすることに協力できかもしれない人も犠牲者の中にはいたかもしれない。だが、たとえそういう人の人生もまったく突然に強制的にテロの犠牲として幕を下ろさされるのだから。

自爆テロをした人のことを聞くたびに、太平洋戦争末期に神風特攻隊に志願をさせられた若い日本人のことを思い出す。彼らもそうであったかもしれないが、自分の死をかけてテロに走るとき、自分の人生が有意義であったとテロリストは感じることができたであろうか。

そして、そのことを自爆テロを強制したと思われる権力者のことを思わずにはいられない。

西村さんの見た武谷

2015-11-16 12:10:40 | 日記
このブログはなにしろ10年以上書いているので、同じことを何回も書くということも起こるだろう。

西村肇さんの書いた、星野芳郎さんの追悼記に一言だけ出ている武谷観をここに書き留めておこう。

「観念的で行動的---職人と違ってた星野さん」(雑誌「現代化学」より)

(前略)しかし、(星野は学生時代に:引用者補足)新聞発行の実務が忙しかった分、数学、物理の基礎学力を磨き、音楽、文学に沈潜する時間には不足していたと思われます。これは武谷さんとはまったく違う点です。最晩年、私が訪れた時、武谷さんの机の上には、細かい字で書き込みのある「群論と量子力学」(ワイル)がありました。生来計算好きの物理職人だったのでしょう。一方、音楽の方は本格派で、音楽批評は深く感動的でした。星野さんの技術論が、本質で武谷流でない理由がここにあります。(後略)

短い引用だが、興味深いと思う。西村さんは星野さんに批判的である一方、星野さんのいいところも書いている。それは星野による、板倉聖宣の評価である。西村さんも星野に示唆されて、板倉の業績を再認識したらしいことは前にもこのブログで書いた。

星野に関して興味深かったのは『「技術の体系」は学問としては、基本構造と方法に疑問が残ります』とあるところだ。私は岩波講座の『基礎工学』に載ったこの「技術の体系」の一部を読んで感銘を受けたことがあるので、上には上があるものだと思う。

西村さんの引用で興味深いところをもう一カ所引く。

「ここで思想家とは、言っていることが、正しいにしても間違っているにしても、首尾一貫している人のことです。そのためには、人と決定的に対決し、否定しうることが条件です」

思想家とはそういうものか。なるほど。

「観念的で行動的---職人と違ってた星野さん」は、他のところも興味深いが、その紹介は別の機会に譲ろう。

Verbrecher

2015-11-16 11:51:57 | 日記
-r Verbrecherとは「犯罪人」を表すドイツ語である。しかし、なかなかこのVerbrecherという語が私の頭に定着しない。-r T"ater(犯人)のほうは覚えていてすぐに出てくると思う。

普通に使う語の「犯罪」という語の -s Verbrechen とかと同様にVerbrecherとかがもっと容易に覚えられてもいいのにと思う。使い方としては多分T"aterよりもVerbrecherの方が使い方の範囲が広いと思う。

自分がドイツ語で話しているときに言い補ってもらったドイツ語はなかなか身につかないが、他人が言い補ってもらったときには、それを聞いていて、それが身につくことが起こればいいのだが、ともかくもその言葉を使っての聞いたり、話したりの数回の経験が必要である。


私の1960年代

2015-11-16 11:14:57 | 日記
昨日の朝日新聞の読書の書評欄に紹介があった「私の1960年代」(金曜日)はあの有名な山本義隆の回顧録だという。山本義隆は1960年代末の東大全共闘の代表だった人である。

若いときの彼と知り合ったのは京都のある研究所であった。彼は東京大学大学院学生であり、私は H 大学院を終えたばかりでそのときには勤め先はまだひょっとしたら決まっていなかったかもしれない。

彼は優れた物理学徒であった。私がまだ院生であったころにあった研究会での発表でその当時の素粒子のReggeポール分野の研究での問題点を鋭く指摘して、そのときに私の先輩の教務員か助手をしていた K さんが後で彼の頭の鋭いことを指摘していたことであった。

多分、彼は博士課程の2年か1年であったと思う。京都で知り合ったときの、ちょっとした彼と関連したエピソードも知っているのだが、そういうことは彼も多分語らないだろうから、私もこのことは語らないつもりである。

そのことを知っている方も10人くらいはいるだろうが、誰も語らないだろう。それにもうその中には物故された方も出てきている。

しかし、ともかくその後の彼の生き方も尊敬に値するし、その著書はなかなか読むことができないが、私がもう何もできなくなったら、彼の著書を読みたいと思って購入して持ってはいるが、残念ながら一部を読むことはあるが、全部を通読するところまでは行っていない。

それはともかく彼の60年代の回顧を読んでみたいと思っている。

鏡映反転

2015-11-16 10:48:38 | 日記
土曜の朝日新聞のbe版に「鏡映反転(miror reflection)」の話が出ていた。このブログでも話題にしたら、多幡先生だったかのコメントがあり、多幡先生の論文を読んでそのときは理解したが、自分の中で十分掘り下げられていないのだろう。その議論の要旨さえも思い出せない。

鏡映反転の問題はよく「鏡映る自分の姿は上下はそのままなのに左右だけが逆に見えるのはなぜか」というふうに提出される。

このことをを論じたエッセイでも私がその存在を知っているものだけでも数学者の矢野健太郎さん、物理学者の中谷宇吉郎、朝永振一郎さんものとかある。

多分、多幡先生の見解で決着済みだとは思うが、アメリカの物理学者ファインマンの論まであると書かれている。ファインマンは「上下も左右も逆にはなっていない。逆になっているのは前後だけだ」という。それも正しい。

  自分が鏡の向こうに回り込むことを想像するから、心理的に左右が逆になっているように見える

と説明しているという。これも正しいようだ。

私のように右と左の認識がおかしいようなものにはいつも難しい問題であるが、左右の定義をどうしているのかは興味がある。左右の定義も辞書でいろいろ独自性がある。そのことはいつかこのブログでも議論したことがあったろうか。

mineとmiene

2015-11-14 13:59:09 | 日記
英語ならmineとはマインと発音して「わたしのもの」という意味だろう。だが、ドイツ語ではdie Mineはミーネと発音して「地雷」を意味する。またもう一つのMieneも同じようにミーネであろうが、こちらは「鉛筆の芯」を意味する。

とここまで書いて念のために辞書を調べたら、今書いたことは大間違い。

Mineは「地雷」も「鉛筆の芯」も意味することがわかった。ではMieneの意味はといえば、「顔つき」とか「気配」とかを意味する。こちらも知らなかったわけではないが、忘れてしまっていた。

またMineはder Werkberg(ヴェルクべルク:鉱山)も意味するという。紛らわしい言葉だ。mineは英語でも鉱山を意味するのはおなじみのところであろう。

ブログを書くことはこういう辞書を引いて言葉を確かめる機会になるから悪いことではない。そうでもなければ、大体私は辞書など引いたりししない。

10年以上も前に伺ったことがあるが、大学の先輩の奥様は歳をとってから英語を読むことに目覚めて大学の英文科の修士課程、博士課程へと進まれた方だが、辞書を引くことなど煩わしいと感じたことがないとのことであった。私なんかとはもともとできが違うという感じである。

ハイドンとモーツアルトの曲を聞き分けられるか

2015-11-14 12:29:32 | 日記
これは音楽好きにはなんてこともないだろうが、私のような者にはなかなか難しい。

いま村上春樹の小品の英訳がラジオから流れているが、その放送で二つほど曲が流れてこれはハイドンの曲かモーツアルトの曲かと聞かれていた。それは村上春樹の小説の中にそういうことが書かれていたからである。

確かに、ハイドンの曲も結構モーツアルトの曲との類似性があった。これがバッハとモーツアルトとなら、聞き分けられるだろうが、ハイドンとモーツアルトとは聞き分けは難しい。