物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

西村さんの見た武谷

2015-11-16 12:10:40 | 日記
このブログはなにしろ10年以上書いているので、同じことを何回も書くということも起こるだろう。

西村肇さんの書いた、星野芳郎さんの追悼記に一言だけ出ている武谷観をここに書き留めておこう。

「観念的で行動的---職人と違ってた星野さん」(雑誌「現代化学」より)

(前略)しかし、(星野は学生時代に:引用者補足)新聞発行の実務が忙しかった分、数学、物理の基礎学力を磨き、音楽、文学に沈潜する時間には不足していたと思われます。これは武谷さんとはまったく違う点です。最晩年、私が訪れた時、武谷さんの机の上には、細かい字で書き込みのある「群論と量子力学」(ワイル)がありました。生来計算好きの物理職人だったのでしょう。一方、音楽の方は本格派で、音楽批評は深く感動的でした。星野さんの技術論が、本質で武谷流でない理由がここにあります。(後略)

短い引用だが、興味深いと思う。西村さんは星野さんに批判的である一方、星野さんのいいところも書いている。それは星野による、板倉聖宣の評価である。西村さんも星野に示唆されて、板倉の業績を再認識したらしいことは前にもこのブログで書いた。

星野に関して興味深かったのは『「技術の体系」は学問としては、基本構造と方法に疑問が残ります』とあるところだ。私は岩波講座の『基礎工学』に載ったこの「技術の体系」の一部を読んで感銘を受けたことがあるので、上には上があるものだと思う。

西村さんの引用で興味深いところをもう一カ所引く。

「ここで思想家とは、言っていることが、正しいにしても間違っているにしても、首尾一貫している人のことです。そのためには、人と決定的に対決し、否定しうることが条件です」

思想家とはそういうものか。なるほど。

「観念的で行動的---職人と違ってた星野さん」は、他のところも興味深いが、その紹介は別の機会に譲ろう。

Verbrecher

2015-11-16 11:51:57 | 日記
-r Verbrecherとは「犯罪人」を表すドイツ語である。しかし、なかなかこのVerbrecherという語が私の頭に定着しない。-r T"ater(犯人)のほうは覚えていてすぐに出てくると思う。

普通に使う語の「犯罪」という語の -s Verbrechen とかと同様にVerbrecherとかがもっと容易に覚えられてもいいのにと思う。使い方としては多分T"aterよりもVerbrecherの方が使い方の範囲が広いと思う。

自分がドイツ語で話しているときに言い補ってもらったドイツ語はなかなか身につかないが、他人が言い補ってもらったときには、それを聞いていて、それが身につくことが起こればいいのだが、ともかくもその言葉を使っての聞いたり、話したりの数回の経験が必要である。


私の1960年代

2015-11-16 11:14:57 | 日記
昨日の朝日新聞の読書の書評欄に紹介があった「私の1960年代」(金曜日)はあの有名な山本義隆の回顧録だという。山本義隆は1960年代末の東大全共闘の代表だった人である。

若いときの彼と知り合ったのは京都のある研究所であった。彼は東京大学大学院学生であり、私は H 大学院を終えたばかりでそのときには勤め先はまだひょっとしたら決まっていなかったかもしれない。

彼は優れた物理学徒であった。私がまだ院生であったころにあった研究会での発表でその当時の素粒子のReggeポール分野の研究での問題点を鋭く指摘して、そのときに私の先輩の教務員か助手をしていた K さんが後で彼の頭の鋭いことを指摘していたことであった。

多分、彼は博士課程の2年か1年であったと思う。京都で知り合ったときの、ちょっとした彼と関連したエピソードも知っているのだが、そういうことは彼も多分語らないだろうから、私もこのことは語らないつもりである。

そのことを知っている方も10人くらいはいるだろうが、誰も語らないだろう。それにもうその中には物故された方も出てきている。

しかし、ともかくその後の彼の生き方も尊敬に値するし、その著書はなかなか読むことができないが、私がもう何もできなくなったら、彼の著書を読みたいと思って購入して持ってはいるが、残念ながら一部を読むことはあるが、全部を通読するところまでは行っていない。

それはともかく彼の60年代の回顧を読んでみたいと思っている。

鏡映反転

2015-11-16 10:48:38 | 日記
土曜の朝日新聞のbe版に「鏡映反転(miror reflection)」の話が出ていた。このブログでも話題にしたら、多幡先生だったかのコメントがあり、多幡先生の論文を読んでそのときは理解したが、自分の中で十分掘り下げられていないのだろう。その議論の要旨さえも思い出せない。

鏡映反転の問題はよく「鏡映る自分の姿は上下はそのままなのに左右だけが逆に見えるのはなぜか」というふうに提出される。

このことをを論じたエッセイでも私がその存在を知っているものだけでも数学者の矢野健太郎さん、物理学者の中谷宇吉郎、朝永振一郎さんものとかある。

多分、多幡先生の見解で決着済みだとは思うが、アメリカの物理学者ファインマンの論まであると書かれている。ファインマンは「上下も左右も逆にはなっていない。逆になっているのは前後だけだ」という。それも正しい。

  自分が鏡の向こうに回り込むことを想像するから、心理的に左右が逆になっているように見える

と説明しているという。これも正しいようだ。

私のように右と左の認識がおかしいようなものにはいつも難しい問題であるが、左右の定義をどうしているのかは興味がある。左右の定義も辞書でいろいろ独自性がある。そのことはいつかこのブログでも議論したことがあったろうか。