物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

11月は憂鬱な季節

2015-11-24 13:47:30 | 日記
11月は憂鬱な季節である。日本ではそれほどでもないが、ヨーロッパでは11月は物故の人を悼み、お墓参りをしたりする季節である。秋の木の葉もドイツなどではすでに落ちている。またはもう真っ赤にまたは黄色に紅葉している。

空はどんよりといつも曇っていて憂鬱である。首までどっぷりと曇った雲の中に浸かっているというような気がするくらいである。それでという訳かどうかは知らないが、自殺の多い季節だと毎年ドイツ語のクラスで R 氏が繰り返している。今年はそのことを聞く機会がまだないが、ほぼ毎年このような話を聞いている。12月になればクリスマスや新しい年への期待でその重くるしい気分もなくなってくる。しかし、もう少し11月がある。

日本でも11月はあまり気候はよくはない。それでしばしば一家心中のニュースが飛び込んできたりする。しかし、気分を変えていつも楽天的にいきたい。明けない夜はないのだし、克服できない障害も待たないのだと自分に言い聞かせたい。

楽天的に生きる人は悲観的に生きる人よりも長生きをするとこのブログにコメントを下さる I 医師などもいつも言われておられる。私などは若いときはいつも悲観的であったが、いつのまにか楽観的になってきている。

これはどうしてなのかわからないが、そういうふうになって来ている。どんなに苦しくてもこの苦しみは後から振り返ればむしろ楽しいとまでは言えないにしても懐かしいものである。気の持ち方は自分の意向で変わるものである。細かなことに拘らないことが必要である。

なんでも生きていくことは必ずしも楽ではない。また、自分の意に反することが多いものである。しかし、それらをむしろ生きがいにしたり、自分のできることに専心したりしているちに人生の見方が変わってくる。人生の目的などはいくら年をとっても分かったりはしないが、人生は生きるに値するということを身に染みてわかるものである。

あれほど苦しく苦しくてたまらなかった辛いことがひっくり返って生きがいになったりする。病気に苦しむ人もいようが、どうせ生きるなら楽しく喜んで生きよう。そう思うこの頃である。

私は名誉心などはとうの昔に捨てたし、自分の自負心も捨てたと書きたいところだが、名誉心は捨てたけれども自負心はまだもっているかもしれない。

しかし、それらももはやどうでもいいとさえ思われる。自分の生きたいように生きればいい。

自宅で仕事をしようと思ったが

2015-11-24 11:14:59 | 日記
昨夜、自宅で仕事をしようと思って、いろいろ資料と持ち帰ったが、夕食後にテレビを見ているうちに、眠ってしまった。

ということで仕事はまったく進まなかった。大体夜にも仕事をしようと思うのがあまいのだろう。これは友人の K 君のニュートリノ振動のエッセイにもとづいて今週末の雑談会で話をしようと思っているから、それを整理しようと思ったのだが、まったくできなかった。

そして、このエッセイを『数学・物理通信』に掲載するつもりである。もっとも K 君本人の十分な校閲を経た上での話である。その前に話をすることが私の任務である。

あまりニュートリノ振動については知らなかったが、K 君のレポートでおよそのことを知った次第である。

昨夜はもう一つ仕事をしようと思っていた。これは12月に発行を予定している『数学・物理通信』に載せる予定の自著の数学エッセイである。本文はほとんどできているが、数式番号をあまりきちんと考えていなかった。それを整理しておこうと思ったのだが、それはまったくできなかった。