物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

最近はブログを書くことを

2016-04-19 10:57:03 | 日記
忘れることが多い。ということはブログを書くことが私の第一義的な仕事ではなくなっているということだろうか。少数ながら私のブログを楽しみして下さっている方には申し訳ない。

『数学・物理通信』に新しい投稿があって、それを読むことに夢中になっているからかもしれない。先日もご多聞に漏れず新しい話題の投稿があったのだが、読んでいくつかの良く分からないことがあるからである。

私がインターネットでなんだか不思議だと思うことを書いてあったので、投稿をお願いしたのだが、何もメールで連絡がなかったので聞き入れてもらえなかったと思っていたら、昨日仕事場に来てみたら、投稿があった。それで読んでみたのだが、もう一つすっきりしない。

書き直してもらうことも考えているが果たしてどうなのだろうか。

武谷三男「物理学方法論論文集」

2016-04-16 12:56:30 | 日記
とかいうタイトルの中国語の本が出ていることを国会図書館の書籍の検索で知った。現物の書籍を購入することは難しそうなので国会図書館に1冊だけあるのを遠隔借り出しできないかと考えている。

これは私のつくっている「武谷三男著作目録」(第5版)に入れたいためであるが、国会図書館が貸し出すのかどうかわからない。

これは武谷さんの著作の翻訳であるから、著者の武谷家には1冊くらいこの本が寄贈されていてしかるべきであろう。だから、もしかしたら武谷家にはこれが残っているかもしれない。そうだすると、「武谷三男に学ぶ会」の M さんに尋ねてこの翻訳本を借りるか、または必要な情報をもらってもらうことをした方がいいかもしれないと思うようになった。

一度 M さんにメールをしてみようか。

数学・物理通信6巻4号の編集

2016-04-15 17:02:37 | 日記
が終わった。とはいうもののまだ何回か見直すだろうか。

これは6月に発行予定である。だが、原稿がある程度集まったので編集作業をした。6月には50号の記念号を出すつもりなので早く作業が一部でも終わっていたら都合がいいのである。

最近もいわゆる仲間内ではない方から投稿があったが、数式がイタリックで書かれていないことなどで著者に改訂をお願いしている。

最終的な文章の修正等は私がしなければならないだろうが、主なところはやはり著者がすべきことである。

latexで原稿を書いていたかないことには投稿原稿にならない。それでもごく短いものであれば私がlatexで書くこともあるが、これはもうお年の方のみへのサービスである。

年齢がかなりいかれている方なら、いまさらlatexでもないだろうが、そうでなければlatexを使うことに挑戦してほしい。
そうはいっても私だってもう後期高齢者の仲間入りを果たして数年になる。だから年を取ったというのはやはり気分の問題かもしれない。

記憶のまちがい

2016-04-14 15:04:56 | 日記
いまさっき「数学・物理通信」6巻4号の編集に取りかかっていて大きな間違いをしたことに気がついた。これは私の記憶がおかしくなったことを意味している。

いくつかの投稿が最近あったのでそれを編集しようとしていたのだが、新しい号の目次をつくろうと思った。ところがすでに発行済みの号に掲載した原稿をまだそれを掲載していないと思って取り込んで編集しようとしていたのだ。

これは投稿者の個別のファイルをつくってそこに以前のファイルも保存しているのだが、既に使ったファイルを開いてそれを新しい原稿として取り込もうとしていた。

念のためにバックナンバーの目録を見てみたら、すでに掲載済のものだった。それが一つならまあ,ままあるまちがいとして許されるだろうがそう思った原稿が2つも取り入れていた。

これはちょっとショックだった。投稿をされる方は大抵すでにいくつかの原稿を投稿しておられるので、そのどれが今回掲載するべき原稿なのか間違うことはないわけではなかろう。だが、いままでそういうまちがいは幸いに起こさなかった。

もちろん、いつも著者に一度検討をお願いするので、そこまで行けば間違っていますということは分かるのだけれども。
だが、今回まだ投稿者には公にはならなかったが、そういうことが起こる直前まで行っていたということである。どうしたらこういうまちがいを防げるのか私にはわからない。すでに掲載済の原稿を捨てればいいのかもしれないが、それをする勇気がない。

今日も元気に

2016-04-13 18:01:31 | 日記
一日が過ぎようとしている。一日ブログを書こうとは思わなかった。夕方になったのでブログを覗いてみたらまだ今日は何も書いていなかった。

今日は未知の人、二人からメールをもらった。一人は私の同窓の後輩であるが、「数学・物理通信」への投稿であった。もう一人は私の発行しているもう一つのサーキュラー「ドイツ語圏とその文化」と関係している。こちらも未知の人であるが、こちらは私のメールに応えての返事である。

ということでその返事を書くのにかなり時間を費やしてしまった。何かメールを書くとやはり十分に文章を書いたという気がするので、ブログを書くという気がなくなってしまうのであろう。

それとかなり長期間放っておいた、「ドイツ語圏とその文化」のドイツの大学事情の原稿に追加をしはじめた。これはすでにR氏から原稿を送ってもらっていたのだが、数学エッセイのためにそのままにしてあったものである。4月中の発行を目指している。




武谷三男の著作目録(第5版)

2016-04-12 15:47:42 | 日記
をつくらなくてはならないと思いながらぐずぐずしている。

これは国会図書館のサイトで検索したら、新しいものがいくつか出て来ているからである。しかし、その中のいくつかは新しく出版された本を購入したりして、1冊だけどこかの図書館で遠隔借り出しをして、その本だけ自分の目で確かめたらいいらしいことがわかった。

E 大学の図書館で借りだしてもらう手続きをすれば、その本の発行年月日とかページ数とかは分かるだろうから、その気になればそんなに面倒ではないかことに気がついた。

それでちょっと気が軽くなったところである。近々 E 大学の図書館で遠隔借り出しの手続きをしてみようか。

それに反して私が著作目録をつくっている、もう一人の学者である、数学者の遠山啓さんの方はなかなかその借りなければならない、書籍の冊数が多くて途方に暮れる。

戦争用語

2016-04-12 15:32:21 | 日記
とはいっても軍艦の名称のことである。

いまラジオを聞いていたら、ニュースで英会話で、伊藤サムさんが駆逐艦というのをdestroyerと言っていた。ところがわたしは巡洋艦だとか戦艦だととかは英語でどのように言うか知らなかった。

それで和英辞典を引いてみた。巡洋艦はcruiser,戦艦はbattleshipということがわかった。空母(航空母艦)だけは英語での言い方を知っていた。これはaircraft carrierというのである。

辞書にcruise missile巡行ミサイルという危険な兵器の名も載っていた。

日本人である私はこういう英語を知らなかったのだが、そういう語を知る機会があまりなかったことは良かったのかもしれないなどと思った次第である。

Nさんを訪ねる

2016-04-11 10:54:25 | 日記
「数学・物理通信」の共同編集者の N さんが入院しているので、昨日訪ねた。もう今日退院するというか転院するというのでなんとか間に合った。

彼は持病があり、そのために生活が困難になっている。そのための入院であったが、その入院も最近は3週間が限度であるので、たびたび転院しなくてはならない。

これは病状固定とか言って、症状が停滞すると国から病院に出る補助金が半分以下に減額されるというシステムによる。だから病院は3週間を過ぎては入院させてくれない。

それでもすでに「数学・物理通信」は現在48号まで発行したので、後2号で通巻50号になるので、6月発行予定の6巻5号を記念号とするという予定を話しておいた。

N さんは私が想像していたよりは元気そうであったのが、なによりもの収穫であった。

AIと碁

2016-04-09 11:20:56 | 日記
韓国のいま世界で最強の囲碁の棋士と思われている方がAIの碁のソフトと対戦して1章4敗と大敗したことはまだ私たちの記憶に新しい。

AIと略称される人工知能のソフトがまだなかなか人間の棋士には勝てないと思われていたのが、意外に早く圧勝したので話題になった。

今朝の朝日新聞にAIの研究者の話が載っていて興味深かったが、碁のゲームのようなものは完全情報問題といわれるものだという。そして不完全情報問題への挑戦がほんとうにAIの挑戦の場所だという。

たとえば車の自動運転の場合が不完全情報問題の典型的な例だという。または多分学問の研究分野も不完全情報問題だといえるのではないか。

インタビューで語っていたのは北野宏昭さんというソニーコンピュータサイエンス研究所社長だが、彼は「医療・生命科学の分野がいま生みだされる情報量が多いから、この分野で膨大な情報をAIがある程度理解して抽出し、仮説をつくって検証すれば、いままで見えなかったものが見えてくる。つまり、よい治療法が見つかる可能性は高い」と言っている。

どこに人間の関与が入るのか入らないのかがわからないが、おもしろいのではないかと思っている。その場合にどこかで仮説として取り出すのは人間ではあるが、それもAIの中で判断させるのかどうか。

興味津々のところがある。これに関して思っていることもあるが、ちょっと私の個人の秘密に属するので、ここで言及することは控えておく。

どうしてAIが人間の棋士に勝てるようになったのかについては北野さんはこう語っている。

二つの方法を組み合わせたことが急速に強くなった秘密だと思います。まず、『深層学習』という機械学習です。人間の脳の神経回路をまねた仕組みである『ニューラルネットワーク』を多層的にしたもので非常に高い精度のパターン認識ができます。これで盤面を理解し、打ち手のパターン分類を行います。その上で、勝利する確率の高い手筋を候補として残す『強化学習』を使うことで、打ち手を決定するのです。

ますますAIから目を離せなくなったということだろうか。

Il plueure dans mon coeur  私の心に涙が降る

2016-04-08 11:52:35 | 日記
Il plueure dans mon coeur  私の心に涙が降る

Comme il pleut sur la ville; 街に雨が降るように

Quelle est cette langueur  このわびしさはなんだろう ?

Qui p'enetere mon coeur ? 心のうちにしみとおる



O bruit doux de la pluie ふりしきる雨の静かな音

Par terre et sur les toits ! 地面にも屋根屋根にも

Pour un coeur qui s'ennuie ものさびしい心にとって

O le chant de la pluie ! おお 雨の歌!


Il pleure sans raison わけもなく涙が降る

Dans ce coeur qui s'ecoeure. やる気をなくしたこの心に

Quoi ! nulle trahison ? なに、裏切りなんてないって?

Ce deuil est sans raison. この哀しみにわけはない


C' est bien la pire peine  最悪の心のいたみ

De ne savoir pourquoi    なぜかわけが分からぬ

Sans amour et sans haine   愛も憎しみもなく

Mon coeur a tant de peine ! 私の心はこんなに痛む!


いわずとしれた、ポール・ヴェルレーヌの詩である。
訳は岩波文庫の「フランス名詩選」を参考にして私がつけた。

どうしたものか

2016-04-08 11:16:44 | 日記
ブログを書こうとしたら、普通に出てくるはずの個所が欠けた画面しか出てこない。

ということでどぎまぎしたが、しばらくしたら元に復旧してやれやれである。なんだか意地悪をされたみたいで気持ちが悪い。

インターネットはときどきOSが変更になってどうしたらいいのか戸惑うことが多い。どうも自分たちの会社の方針にしたがわせて囲い込みをしたと考えているのではないかと邪推したくなる。

こんなことはインターネットの発展には有害無益であろう。だが、そんなことを文句を言うところがない。

『ふたりの微積分』

2016-04-07 14:55:17 | 日記

『ふたりの微積分』(岩波書店)という本は2012年10月に発行された本である。「積分記号下のパラメータでの微分による積分」について書いてあるからということで購入したのだが、購入した時にチラッと読んだだけであまり読んだことがなかった。

ちょっと他の仕事があったので、探していたときに目に留まった。どんなことが書いてあるのかなと開けて拾い読みをした。

著者はスティーヴン・ストロガッツという応用数学者である。現在彼はコーネル大学の応用数学の教授である。

もっとも本の中にはちょっと辛いことも書いてある。

彼はそのときMITの準教授であったが、まだ業績が十分でないからテヌア(tenure)を与えられないとMITの委員会から手紙をもらったとある。その手紙にはもっと論文でヒットを飛ばして業績を挙げたら、再考してもいいとかあったとか。もっとも訳書には言葉としてテヌアという語は使われていない。

その後で彼はイサカのコーネル大学から正教授の認定をするから来ないかと誘いがかかり、現在はコーネル大学に勤めている。

MITが特にテヌアの資格をあたえるのに厳しい大学なのかどうかは知らない。その昔、MITの有名教授だったノバート・ウィナーは彼が勤め始めたころはMITは二流の大学であったと彼の自伝に書いてあったと思う。

それからもう100年近くもたったのだから、評価が違っているのは当然と言えるが、少なくともストロガッツたちに厳しかったことは事実であろう。

さて、冒頭に挙げた本だが、微積分の話題に限られているが、これは原題の"The Calculus of Friendship"を反映しているであろう。

高校で数学をストロガッツが教わったジョフリー先生との手紙のやり取りを題材にしてストロガッツが書いている。けっこうおもしろそうな数学的なテーマについて書かれているが、それだけではなく、ちょっと人間的な話もある。

大学在学中のころ兄から医者になったらいいのではないかと説得されかけたこと、だが、彼の母が数学と物理学好きならその道に進むと言ったらいいじゃないかと言ってくれたために、数学と物理との境界にあたるようなカオスとか非線形力学を専門とするようになったらしい。

ここのところが、おもしろいと感じた。物理学者のファインマンの本で有名になった「積分記号下でのパラメータ微分による積分」の話も出てくる。そして、ファインマンが高校時代に微積分を独学で学んだというウッズ(Woods)の微積分学の本のことも出てくる。

そして「積分記号下でのパラメータ微分による積分」がこのウッズの本の何ページから何ページに出ているかも参考文献のところに出てくる。

この本を購入したとき、インターネットでどれくらいの値段でこのウッズの本が買えるか調べたことがあるが、古本での値段が1万円くらいしたので購入することはあきらめたと,このブログで書いた覚えがある。


もし私がもっと若かったなら購入したかもしれないけれどとそのときにも書いた。

(注)その後、E大学の図書館でWoodsの本を借り出して、コピーをとってそのコピーをもっている。図書館でもあまり人が入らない書庫の箇所においてあり、図書館の人に頼んで借り出したのを覚えている。

(2023.10.7付記)Woodsの本の「・・・による積分」の箇所をちゃんと読んでみたいと思ってはいるが、まだ読んでいない。

というのも私も3回にわたってそういうタイトルの数学エッセイを書いたことがある。関心のある方は「数学・物理通信」でインターネット検索してみてほしい。かなり多くの例をそこに挙げてある。


戦争の形態

2016-04-06 10:59:22 | 日記
がテロで変わったと最近の朝日新聞のGlobeにあった。その個所を私は読まなかったが、妻が今朝の朝食のときに難しい時代になったねという。その所はどう書いてあったのと聞いたら、町の中でテロがあるから、警察が軍隊みたいになっているのだという。

自由で有名なフランスでさえ安全のために自由が制限されることを市民がよしとする風潮ができているという。これがフランスでさえそうなのだから、自由の伝統のあまりない日本ならばいかに安全という掛け声で自由が制限されるようになることだろうか。

現代の戦争の最新の要素は何かと聞かれた歴史家の羽仁五郎はゲリラとレジスタンスだと答えたとか聞く。大抵の軍事評論家とか政治家とかが大陸弾道弾ミサイルだとか原水爆だとか答えていたころにである。

軍隊はもちろん防衛に役立つかもしれないが、それは限定的効果しかない。本当に自分の国が他国の支配されたときにはやはり役立つのはゲリラとレジスタンスしかないだろう。軍隊は二義的な意義しかない。しかし、そんなことをいう日本人はほとんどいない。

テロに関して言えば、自爆テロをする人たちもやはり人間であり、その内面を思うことが大切である。それが自発的なものであるにせよ、強制されたものであるにしろ、自分の身を犠牲にして自分の主張がその中に含まれているかもしれないが、それは自分の主張かもしれないが、他のテロの犠牲者の主張はどうなるというところに思いを馳せられるようになってほしい。

もちろんその大多数の主張に抗して自分の主張をしたいということかもしれないが、それでは意見の交換の場はなくなる。それでいいのかということと自爆テロをそそのかした指導者の責任問題もある。

日本では太平洋戦争末期に神風特攻隊というようなものがあった。残念ながらそれが戦線状況を挽回することはなかったという歴史がある。そしてその特攻を強いた上官は戦後も生き残ったとかとも聞く。中にはその責任を取って割腹自殺をした上官もいるかもしれないが。

科学技術の観点からは最低の考え方だと特攻については批判されていると思うが、その批判は国民の中で戦後も一般的にならなかったと思う。それでもやはり科学技術的な観点からみてもやはりおかしいし、さらにもっと根本的に基本的人権という点からもやはりおかしい。

見事な融合

2016-04-05 12:58:20 | 日記
というのをフランス語でun beau mariage (直訳:美しい結婚?)としてあるのを見てなるほどと思った。

これはもともとの日本語は

つまり、クラシック音楽とポピュラー音楽との見事な融合ということなんだ。そうですね。

とあるのを

C' est-a-dire que c'est un beau mariage entre musique classique et populaire. C'est ca ?

(発音:セッタ ディール ク セタン ボー マリアジュ アーントル ミュジィク クラシック エ ポプレール. セ サ ? 表記がカタカナであるから本当の発音を再現できないことをお断りする)

こういう発想で「見事な融合」をun beau mariageというのか。私たちは言われてみるとなるほどそうかそう言うのかと思うが、自分ではなかなかこういう言葉遣いはできない。それがフランス語に対して外国人である、私たちの発想の限界であろう。

感心した言葉遣いである。

もう一つ気がついたことはun beau mariageとあるので、un mariageでmariageが男性名詞であることである。eで終わるからmariageは女性名詞かと思っていたが。eで終わるフランス語で女性名詞でないことで有名な単語はlivre(本)である。

独検(再論)

2016-04-04 11:25:10 | 日記
とはドイツ語資格検定試験とかいう語の略称である。昨年の4月3日に独検を受けると宣言しておいた。

そして昨年の6月に松山大学で3級と2級の試験を受けた。3級は通るだろうと思っていたが、2級は合格するにしてもしないにしてもぎりぎりくらいの能力ではないかと思っていた。

それが8月に結果が知らされて、2級にも合格したことがわかった。もっとも3級は94点ぐらいで文句なかったが、2級はさすがに難しく74点くらいで特によくできたということでもなかった。

これからみるとつぎの準一級を受けたら、たぶん54点くらいの成績が予想されて見事不合格となろう。それで秋の試験は受けなかった。準一級の資格試験の受験は今年以降の挑戦の目標となったが、はてどうだろうか。夏の検定試験では準一級以上の試験はないので秋の検定試験を受けることになるのだが、なかなか挑戦は難しい。

だが、やはり準一級くらいをクリアすることができなければ、ドイツ語を学んだとは言えないだろう。