物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

リフレ政策は破たんしたのか

2016-06-18 11:17:23 | 日記
という問題が最近クローズアプされている。これはそういう政策を言い出した一部の経済学者だけの問題ではなくなりつつある。

もともと経済学者の安定したインフレへと導く金融政策は一時的な効果しかないということは通説として知られた話らしい。ところがそれはそれで一時的な効果しかないのにそれをもっと長期的なものとして考えていたということがあるだろう。

それも4,5年は続くと考えていた円安はそれほどは続きせず2年くらいで力尽きてしまった。そのあいだに産業構造とかを変える政策を強力にとるべきであったのに、その効果も出ないというか、そういう努力が政府において政策としてされたのかどうかも定かではない。

株価も1年半くらいは2万円くらいの高値が続いたが、現在では1万5千円前後らしい。もっとも一時的に株価を高めるという効果はあったのだからそれでよしとすべきかもしれないが、それを補強する政策をもっていない。

ドイツではなんとか4.0という技術革新を促す政策がとられている。省エネ産業、ロボティクッス、人工知能、ビッグデータ、その他の方策をとるように考えられているという。

ロボティックスは私も少し調べて本として著したことがある、四元数の出番がある世界である。それも産業用のロボットや介護ロボットなど幅広い応用がある。

人工知能は人間の仕事を奪うかもしれないが、その研究に成功すれば、また人間の生活に新たな地平が開けるかもしれない。

産業としての介護、医療、教育はそこをおざなりにすると知的生産の行われる「もと」をなくしてしまうので、おざなりにはできないはずである。

教育でも小学校、中学校の先生方の仕事は少なくならない。特に教えること以外のクラブ活動を教員が顧問の教員として背負っていることはなかなか日本特有の事情かも知れないが、おかしいと思う。課外スポーツは学校の先生ではなく民間の有志の指導者のもとにされるべきだろう。

最近ようやく日曜日の一部を民間のスポーツ指導者に委ねるという考えが出てきているが、それに教員がたずさわるという基本的な構図はまったく変わっていない。

それから全国規模のテストの問題も教育界にはある。「その成績を挙げよ」と知事が政治課題として提出するとそのために教員は過去問のテストを繰り返す。そうすれば、確かにテストの成績はあがるが、実際には生徒の学力は落ちるという現象が起こるのである。こんなことは小学校や中学校の先生方の間では常識になっているが、それでも知事レベルの政治家には単に自分の県の順位が上がれば、事がすむ。

実態はその反対のことが起こっている。要するに時間をかけて学ぶべき内容を理解させたり、習熟させたりすべきなのに全国テストの対策のために根本的な学力の育成をおこなう時間をとられてしまう。

いつのまにか、リフレ政策の話のつもりがあらぬ方向に行ってしまった。現状ではこういうことしていると誰もが希望の持てない社会になってしまう。知恵のある人は日本にはもういないのか。


楽譜と数式

2016-06-17 13:27:12 | 日記
「歌声エコーズ」という月に1回行う一種の音楽喫茶的な行事の世話人をしている妻が、いつも歌う歌の楽譜をファイルしてもっている。今朝も食卓の上に楽譜と歌詞とが山のようになっていた。

その楽譜を見て、楽譜はそれを解読できる人には大切な表現法であるのだと思った。ところでよく似た状況に数式がある。

数式は一種の言語だという人もあるが、これの意味が一般の人には分かりにくい。数式を読み解ける人にはとても簡便な表現法であるけれどもそれを解することのできない人には目で見るのも嫌なものであるにちがいない。

最近では2次方程式でもそれを図形に表して、直観的にわかりやすくしたいという教育的な配慮もされている。因数分解の公式だってそれを図形に表すことができる。数式を直観的にある種のモデルにおきかえて何時でも理解をするなんてファインマンという物理学の天才もいた。

しかし、そういう人は珍しい。世の中の多くの人は数式音痴である。そんなことを昨日の朝食後に妻と話したら、音楽の場合にはそれを演奏してくれる人がいれば、自分では楽譜の意味するところがわからなくても、自分で体感することができるのが数式と違うと言われた。

もちろん、数式の意味するところを読み解いて、それを実験として示すことができたりするけれども、音楽の場合ほど数式の演奏家にあたる方はいない。

数式の演奏家にあたる仕事をする人がもっといてもいいのだが、あまりいるとは思えない。それでも優れた学者とか研究者の方で、その分野のことがよく分かっている人の講義を聞いたりするとその講師の理解して研究をしている世界のイメージまでちょっと窺い知れるというような気がする場合がある。

もっともそういう方には出会うことが、あまり頻繁にはないのが、残念である。

「歌声エコーズ」に話題をもどすと、毎回の会合で歌の伴奏でキーボードを引いてくださる声楽家の T 先生のご尽力で楽譜が参加者に配られたり、いつも新しい曲の紹介がなされたりしている。「歌声エコーズ」が自然発生的にできてからもう数年にもなるのにますます隆盛をきわめているのは、ボランティア同然にいつもご尽力下さる、この T 先生のおかげである。指導者がよければ、会は滅びないというよい例である。

4527

2016-06-17 10:53:12 | 日記
とはイチロー選手が今までに打ったヒットの数である。この数は前人未到のものである。もちろん、これをピート・ローズの4526本のヒットと比べることはよくないことだが、それでも生きている人間がどれくらい生涯で野球のヒットを重ねることができるかという指標にはなるだろう。

イチロー選手がインタビューに語っているように、彼の記録を塗り替えるプレヤーが彼の生きているうちに出て来たら彼は大いに喜ぶであろう。

どこまでが人間業なのか、それともそうではないのか。記録は破られるためにある。

蒸し暑い

2016-06-16 18:29:06 | 日記
急に気温が上がって蒸し暑くなった。昨夜は一度ならずその暑さに目が覚めた。

途中で目が覚めた妻が扇風機を探していたが、それは箪笥の上にあった。そしてそれをつけたら少し眠りが深くなったが、逆に目障りにも感じた。

それでよく眠れなかった分だけ朝寝坊してしまった。いま編集している小川修三さんの講義ノートのSchroedinger方程式を導出するところの推論が気にかかっている。どうもここの推論は朝永の「量子力学」IIからとられているような気がしたので、それを仕事場に持ってきたが、今日はそれをほとんど読むことができなかった。

この課題は明日以降に持ち越された。

gooのブログのメインテナンス

2016-06-15 13:18:02 | 日記
昨日は0時から12時までgooのブログのメインテナンスがあるというので、12時すぎにブログを書こうと思ってサイトを開いたら、時間が14時まで延長されていた。

仕方なく他の仕事をして帰宅前にブログを見たら、メインテナンスが終わっていたので、ようやくモハメド・アリの話を書くことができた。

大体いつも何を書くか書くことを考えているのだが、その中の幾分かは書くテーマだったことを忘れてしまうことが多い。

そんなわけで常に書きたいことが書かれているとは言えない。書いたらよかったと思うテーマが落ちてしまうことがしばしばある。

それでも1年前のテーマが知らされてくるので、自分でいうのもなんだか変だが、結構な広い話題を扱っていることになる。

とはいっても音楽の話題は私の音楽に関する知識とか素養がないために書けないし、政治はあまり問題にはしたくないから、よほどのことがないかぎりテーマからはずれる。

「物理と数学:老人のつぶやき」がタイトルにしては物理の話が少ないし、数学はいつもレベルが初等的である。ということでまさに老人のつぶやきなのだが、このブログの性格上から、数式はないし、このブログにはとるところがない。

それでもできるだけ日常生活での自分自身の発見というか驚きを記すようにしたいと思っている。

老眼鏡

2016-06-15 12:58:14 | 日記
私は近視の度がきついから、老眼鏡はいらないかと思っていたが、そういう訳にはいかない。

仕事のときには近視の度のゆるい眼鏡をかけて仕事をしている。結構パソコンでの入力の仕事が多いので、そのときには必ず眼鏡をかけ替えている。

本や新聞を読むときにもそうである。もっともテレビを見るとか車の運転は普通の眼鏡である。それで、昨日は帰宅して老眼鏡をもって帰ってないことに気がついた。そうなると読書には日頃かけている近視の眼鏡は不適切である。

折角図書館から借りて帰ったドイツ語の文法の本は読めない。在間 進先生の「詳解ドイツ語文法」という本なのだが、しかたがなく、テレビを見ることで過ごした。大体ドイツ語文法などの本は通読することなど想定されていないと思うのだが、図書館で借りて読むということは通読する以外に方法はない。

テレビを気晴らしのために見ることもあるが、積極的にスイッチを切って本を読むことも書類を読むこともある。書類は自分の書いた文章を読みなおすことが多いのである。それでもなかなか推敲が終わらず長々と文章の完成までにかかる。

先日発行した「ドイツ語圏とその文化」のように発行した後で、読者からご注意をいただいたのはBologna協定のBolognaの綴りが間違っているという指適であった。

これはすでに共同編集者のR氏になんどか注意されて自分ではすでに修正済のつもりであったのが、最終的には修正漏れであった。ボローニャのニャはgnaと書くのだが、それがなかなか難しい。

モハメド・アリ

2016-06-14 17:07:35 | 日記
は優れた偉大なボクサーであっただけではなく、社会を改革した人として人々に末永く記憶されるだろう。

彼が活躍した時代は1960年代であって、それは私の20年代に相当する時代であった。私自身はあまりボクシングにはその当時も関心はなかったのだが、理論物理学研究所の教授だった物理学者の田地隆夫先生がアリのボクシングの試合の結果はどうなったかと気にしておられたのを思い出す。

当時、広島県の竹原市にあった研究所から大学院生のための講義に週に一度は広島市に来れるのが常であったが、その自分のセミナーがすんだときにアリのボクシングの結果を気にされていたのである。

アメリカのベトナムでの戦争が続いていたころであり、その戦争への徴兵をアリが拒否したことから、彼は刑務所に服役したり、ボクシングのチャンピオンシップをはく奪されたり、またボクシングのライセンスさえも失ったという。

それでも彼は自分の意志を曲げなかった。国全体を敵に回しての決意であった。黒人もベトナムも同じような扱いをうけているという、その思想と言明はだれにでもできるものではない。

パーキンソン病で74歳で亡くなったと聞くと、あのアリは私よりも数歳若かったんだなということを知った。

いまでこそ、アリは名誉も回復して、受けた刑罰は取り消されたという。しかし、ほとんど四面楚歌の中で一人自分の信念を貫いたその人生は誰にでもできるものではない。

彼のボクシングでの発言は「蝶のように舞い、蜂のようにさす」(Float like a butterfly, sting like a bee)
であったという。

人との出会いは教育の場

2016-06-13 11:08:05 | 日記
先日妻が感に堪えないという風に言っていた。医療生協活動を彼女はしているのだが、ある人が T シャツに絵を描くという人に出会って、何かを学んだらしいという。

その人もちょっとした絵をカマボコ板に描いたりするのだが、T シャツに2000円で絵を描くという人に出会って大いに学ぶところがあったらしい。

大体、あまり人のアドバイスを聞かない人だのに今回は何か感じるところがあったらしいという。

まさに「人との出会いは教育の場」であるという。なるほど、なるほど。なかなか人のいうことを聞くことのできない人はいるものである。特に、自分の主張があったりすれば、なかなか人の意見を虚心坦懐に聞き入れることは難しい。これは他人のことではなく、自分自身のことなのだが。

しかし、そういう人でも思いがけない人との出会いによって何らかのことを学ぶことができる。

Legendre変換

2016-06-11 11:57:17 | 日記

のことをとりあげて書いたものなど私が学生のころにはあまりなかった。私が小著『数学散歩』(国土社)で書いたときにもまだそういうものはあまりなかったが、現在ではあからさまにLegendre変換のことを説明した書籍とか、インターネットのサイトができている。時代は変わったものだ。

それでもLegendre変換についてあまりご存じでない方もおられるかもしれないので、その文献をここで上げておこう。

Legendre変換は解析力学でのラグランジュ形式からハミルトン形式に変数を変えるときに現れてくる。それがLegendre変換だということはゴールドスタイン著『古典力学』第3版 下(吉岡書店)のpp.469-471に出ている。このゴールドスタインの第3版下巻の訳は2009年であるが、それ以前に初版や第2版が出ているので、よく文献を読まれる人は知っていたのであろう。

つぎに古そうなのはムーア著『物理化学』(東京化学同人)上のpp.99-100であろう。私が熱力学ポテンシャルの変数の変換はこのLegendre変換によっていることを知ったのはこの書においてである。それまではLegendre変換は解析力学のみで使われると思っていた。もちろん、場の理論で変数変換に使われるということはしばしば講義で聞いたことだったが。

Legendre変換は高橋秀俊、藤村靖著『高橋秀俊の物理学講義』(丸善)にもpp.19-28に出ている。これは私などが物理学会に入る前の物理学会誌に連載された記事だが、本として出たのは意外に新しく、1990年である。

つぎに古いのは私の著書『数学散歩』(国土社)のpp.119-124であろう。だが、この書は2005年の出版だが、もう出版社で品切れになって久しいので、むしろこれから抜粋してつくられた書『物理数学散歩』(国土社)のpp.48-53を見られた方がいいと思う。

最近の書では園田英徳著『幾何学的に理解する物理数学』(サイエンス社)のpp.84-92によりつっこんだ議論を見ることができる(付記)。

また、インターネットのサイトでは「FNの物理学」に藤田さんの詳しくて突っ込んだ議論をみることができる。このURLはいま手元にないが、「FNの物理学」で検索をすれば、このサイトに簡単に到達できるであろう。他にもwikipediaでも今ではLegendre変換の説明を見ることができるかもしれない。このことはしかしいま確かではない。

(2017.6.12付記)ちなみにこの書の第8章は微分形式がテーマである。


最近の閲覧者数

2016-06-10 10:40:24 | 日記
は200を越すことが普通になった。どうしてなのだろうか。私のブログは私自身の思いは別としてあまり興味深いブログだとは思われない。

それだのに閲覧者が100から80くらいのところを上下していたのが、最近200を越すのが普通になってきた。gooの全体のランクでもすごい時には3000番台に入ることもときどき出てくるようになった。もちろんさすがに3000番台はなかなか難しいが、それでも好調なときにはそういうこともたまには起こるということである。

普通には8000番台かそこいらなので、少なくとも読者が増えているのであろうか。読者からの応答はあまりないので、どういう人がこのブログを読まれているのかはすることができない。

数学のテーマが減っていて、外国語ネタが多くなっているので、文系の人が多いのかもしれない。

電池切れ

2016-06-09 17:54:34 | 日記
ここ数日ブログを書こうとしてキーボードからの入力ができなくなっていた。それでこれは来たメールの蓄積がメモリを食っているのだと思って、いらないと思われるメールを一生懸命に削除していたが、やはり入力ができないという状態が続いた。それでこれはおかしいと思ってマニュアルを読んだ結果、どうもキーボードの電池切れではないかと思い至り、コンビニに単三の電池を買いに出かけた。それを前の電池と入れ替えたところキーボードでの入力ができるようになった。

やれやれ。パソコンにいかに依存した生活をしているかを思い知らされたこの数日であった。昨日はパソコンがつかえなかったので、しかたなく在間進著「詳解ドイツ語文法」(大修館)を読んだ。大体ドイツ語文法など退屈で読もうなどと思ったことはなかったが、生まれて始めて読んでいる。

第1章 文 のところの50ページほどは読み終えたから、つぎには最終章の複合文・副文 のところを読もうと思っている。あまり名詞の語形変化とか動詞の活用には関心がない。第1章を読んだところでは知らない単語も出ては来るが、それでもどの文章にも日本語訳が必ずついているので、勉強になる。

複合文・副文のところも役に立つであろう。

私たちが大学でドイツ語の文法を学んだころはどういう風に言葉を並べるかはほとんど教えてくれなくて、ひたすら冠詞の変化や名詞の変化とか動詞の活用のみを教わったような気がする。だからかどうかは知らないが、少なくとも私は大学でドイツ語をわかるようにはならなかった。

ドイツ語が少しでもわかるようになったのはラジオとかテレビとかの講座やドイツ語の入門書のおかげである。などどいうとおまえは何を大学で学んでいたんだと言われそうであるが、大体そういうものであろうか。少なくとも私の兄弟姉妹にはドイツ語を解する人は一人もいない。もっともドイツ語の片言なら私の妻だって話す。もっとも彼女には文法的な知識があるわけではない。

早川東三先生の「ドイツ語入門」を音読するということを妻には勧めたので、それでもって彼女は見よう見まねでドイツ語の片言を話すようになった。もっとも今でも覚えている言葉は「休憩」を意味する「パウゼ」くらいである。

ワインバーグの科学観

2016-06-08 11:44:12 | 日記
スティーブン・ワインバーグへのインタビューが朝日新聞に載っていた。素粒子物理学者ならば、彼の名前を知らない人はない。

もう数十年前にもなるが、1978年に日本の東京であった素粒子の国際会議で私も彼の講演を聞いたことがある。その彼が『科学の発見』という科学啓蒙書を書いたらしい。

彼は科学の名に値するのはニュートンだけだという。アインシュタインでさえももちろん彼は偉大だが、ニュートンの発見した科学を追加補足しているに過ぎないという風に考える。

これはちょっと挑戦的な考えであり、アリストテレスは科学の祖ということはできないという。それで彼をむしろ詩人と考えた方がいいとまでいう。

自然を観察してそこから法則をつかみとり、数式に表すが、原因を追究して結果を導くことが科学の本質であるという考えらしい。それは間違ってはいないが、その前段階をも重視すべきであろう。

話はまったく別だが、ここ数日すぐに文字入力ができなくなるのでメモリが足りなくなったと思って、過去のメールを消去して見たが、うまくいかないので、さてはキーボードの電池が切れたのかとようやく分かっていまコンビニに単三の電池を買って来た。それでようやく文字入力ができるようになった。原因がわからなかったので、イライラした数日であった。

いつもマンネリだと思うが、

2016-06-07 11:28:28 | 日記
それでも一年前の記事は自分でもびっくりするような目新しいことが書いてある。昨日も一年前に記事にテトリスということを書いてある。

こんなことはもちろん覚えていなかった。別に新しいことが即いいことだなどと言うつもりはないが、それでもどこかに新しい点があったと方がいいと思っている。

だが、いつでも新しい点を述べることはそんなにやさしいことではない。

数学・物理通信6巻6号を

2016-06-06 11:53:13 | 日記
ようやく発行した。四月から五月にかけていつにもなく、編集に苦労した号であったが、発行して見るとなかなか内容は多彩であると思う。

これで6月の予定の発行は終わった 。一つの投稿原稿が9月の発行分に先送りとなった。これはページ数が多かったので6巻4~6号には収録できなかった。

先週の土曜日は放心状態であったが、昨日の日曜は自宅で休んだので、今日はちょっと元気を回復している。だから、6巻6号を発行できた。

ほとんど経済的な負担なしにこのようなサーキュラーを発行していることはもちろん他にはあまり例がないことだろう。もっとも同じような志をもてば、誰にでもできることであるのだが、そういう意味での自分の労を惜しまないという気持ちがないとこういう事業はできない。頭をどう使うかがこれからも必要である。




放心状態

2016-06-04 12:03:48 | 日記
「数学・物理通信」6巻4号、6巻5号を立て続けに発行して、それに続いて6巻6号の編集もできあがった。

一応の編集はすでに5月に終わってはいたが、さらに4月に投稿されたのに編集者の私が忘れてしまっていた原稿があったのを著者からご注意をいただいた。

それでそれを追加するという編集作業を昨日行い、かつ今日自分の書いた短いコメントをチェックした。なかなかちょっとした短い文章を書く場合でもミスは起こる。

それも終えたので、放心状態である。6巻6号は来週の月曜か火曜には発行の予定である。数日は原稿を寝かせておくことはなんでもないようだが、結構難しい。特に私のようにせっかちな性格だとできたら早く発行してしまいたいと思う。

それを自分でなだめ、なだめて数日はわざと原稿をそのままおいておくというのは結構つらいことである。ただ置いておけばいいのだが、それでも苦しい。

5月終りの「ドイツ語圏とその文化」1-5を発行して、「数学・物理通信」6-4, 6-5の発行、来週には6-6の発行である。

それがすめば、今度はまた別の仕事が待っている。