物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

さてどうするか

2018-12-19 12:29:38 | 日記

「数学・物理通信」8巻10号のことである。

熱心な投稿者がおられて、すでに二つの論文の原稿を投稿されている。それ以外の原稿をどうするかである。まだだから編集には取り掛かってはいない。私が準備している「分岐点の定義」はもうすこし書きたいことがある。それがすまないとこの原稿を掲載することはできない。

だが、それではまだ30ページには届かないかもしれない。別に30ページにならなければ、ならないことはないのだが、自分に課した不文律としてほぼ30ページに近いことが必要である。

それで、私の他の雑誌に載せたエッセイを改訂して載せることも考えている。だが、その前に「分岐点の定義」のエッセイを仕上げること、それに最近読み始めた複素関数の本で知ったCauchy-Riemannの関係式の極座標表示での表現の導出についての短いリマークを書くことも考えている。


Les chateaux de sables

2018-12-18 16:21:11 | 日記

Les chateaux de sablesは映画らしいが、私が知っているのはシャンソンとしてである。

始めの出だししか覚えていないが、

Les chateaux des sables meurent avec l'ete

Les chanson des vagues, je dois oublier.

とかいうのである。この文句が今朝どうしてだか急に思い出されてきた。


ステンドグラスをドイツ語では

2018-12-18 15:35:46 | 日記

何というか。いまNHKの「毎日ドイツ語」を聞いていたら、ステンドグラスをGlasfensterと言っていた。

ところが私は以前に、日本人のゲルマ二ストがステンドグラスのことをGlasmalereiと言っているのを聞いたことがあるが、Glasfensterと言っているのを聞いたことがなかった。

ある独和辞典にはGlasgm"aldeというのも載っている。普通に使う言葉は何なのだろうか。

ある和独辞典にはステンドグラスの項がない。これはまた別の和独辞典であるが、それをドイツから帰るときにドイツ人の友人にあげてしまった。その和独辞典にはステンドグラスはBuntesglasであった。

こういう語は実際には聞いたことがないので、使われているのかどうかは確かではない。しかし、この辞書は三省堂のコンサイス和独辞典であり、ドイツ語学者の故早川東三先生が編者の一人であった。

たかが、ステンドグラスの訳語だが、昔から問題が大ありのようである。

ちなみに、das Glasであり、中性名詞である。

Goethe Institutの先生ならば-s Glasと表記されるであろう。また、男性名詞ならば、たとえば、der Vaterであるが、-r Vaterという風に書くし、die Mutterなら-e Mutterと略記する。

(2018.12.21補足)

ステンドグラスの訳ではfarbiges Glasだとかもインターネットでは出てくる。昨夜、ドイツ人のR氏に聞いてみたが、どうもあまりはっきりしない。Glasmalereiぐらいが穏当のところだろうか。

 

 


二つのことをした

2018-12-18 14:59:08 | 日記

とはいっても大したことではない。

一つは髪を切りに行ったこと、もう一つは古い複素解析の本をE大学の図書館から借りて来たことである。

何回かこのブロググでも述べたように分岐点の定義の詳しい説明があったから借りたのである。もっとも理髪店から電車で赤十字病院前で下車して、E大学の付属図書館の書庫に入ったのはいいが、なかなか求める書物がどこにあるかがわからない。

困っていたら、図書館員さんと出会って当該の本を見つけることができた。1時間くらいは書庫でうろうろしていたことになる。

とても要領のわるいことである。


google-chrome

2018-12-18 14:46:11 | 日記

インターネットの閲覧ソフトをgoogle-chromeに変えた。マクロソフト エッジはあまり使い勝手がよくなかったからである。

マイクロソフトはMicrosoft Edgeがいいソフトだと自称しているが、そんなことはない。一度google-chromeに変えようとしたしたことがあったのだが、Microsoft EdgeはとてもいいソフトだとPRされたので本当かと思って変えるのをやめたが、東京に行ったときに子どもに変えたほうがいいとアドヴァイスをもらったので、思い切って変えた。

 


ようやく発行した

2018-12-17 16:57:17 | 日記

「数学・物理通信」8巻9号を今日ようやく発行した。

だいぶんお待たせしたかもしれない。つぎは8巻10号の発行であるが、これはまだ編集をしていない。原稿が足りないと聞いて投稿をして、協力をしてくれる人があったので、それでもなんとか年内には発行にこぎつけたいと思っている。

しかし、これは年内に発行ができれば、いいところであり、ひょっとすると年を越すかもしれない。だが、一応8巻10号までは今年の予定である。

(2018. 12. 27付記)8巻10号はまだ発行になってはいないが、8巻9号まででは通巻で74号まで発行したことになっている。いまのところ8巻10号の発行は年を越しそうである。

まだ編集に取り掛かっていないのでわからないが、ページ数がどうくらいになるかが発行できるかどうかの判定の基準となる。私の用意した原稿は5ページであるが、Sさんの二つの論文が何ページになるのかまだ調べていない。

 


アクセスが400を超えた

2018-12-17 12:16:44 | 日記

日曜にはアクセスがぐっと減って100を切るのが普通であるのに、昨日の日曜には珍しくアクセスが400を超えた。めったにないことである。

「不思議なエッセイ」というタイトルの記事を書いたのが、関心を呼んだのだろうか。いやこれは私自身が不思議に感じたエッセイであり、私の功績ではない。

そのブログにも書いたのだが、これは斎藤亜矢さんという方のシリーズのエッセイである。最終回のエッセイが不思議に感じられたのだが、それ以前からもそうであったという印象はなかった。それとももう一度前のエッセイを読み直して見る必要があるのだろうか。

最終回は「主観と客観」というタイトルであった。ひょっとすると岩波の雑誌「図書」への1年半にわたる連載は岩波新書への準備であったのかもしれないが、連載で誰かに本の原稿を書かせるというのはいい考えであろう。


古い本も役立つ

2018-12-17 11:27:40 | 日記

中身は秘密だから、詳しくは話せないが、私の亡くなった長兄が使っていた、大学時代の数学のテクストである。彼が不慮の事故で亡くなってだいぶん経ってから彼の蔵書の一部が私の蔵書になった。

その中の1冊である。『代数学と幾何学』(養賢堂)である。この本を見たら、私の予想していた一次連立方程式の解法が述べられていた。

もっともなかなか解法は見事なものであり、印象的である。これは私の予想した解法ではなかったが、これを急いでコピーしてある人に送ってやらねばと思った。

ちょっと自分でも手を動かして計算をしてみたいという気がするが、いまはほかのことで忙しくすぐには自分ではとりかかれない。


不思議なエッセイ

2018-12-16 14:25:04 | 日記

を読んだ。これは岩波のPR誌「図書」(2018.12)の斎藤亜矢さんの文章である。これは1年半にわたる掲載シリーズの最終回である。

まずはそれほどは不思議ではないところから引用しておこう。

(引用はじめ)からだをとおして考えたことを文章にしていると、創造のプロセスについて考えたことが、書くプロセスにも当てはまることが多かった。書くことも、芸術と同じ「表現」なのだと、そこではじめて気がついた。

ふりかえってみると、背骨を折ったり、失明したり、ちょっと大変だったときほど、このサイエンス的思考に救われてきたことにも気がついた(中略)。でも、サイエンスが視点を変えてくれるきっかけであり、恐さや不安の原因を「わかる」ための、神話であったのだと思う。(中略)

書家の石川九楊さんの公開講座にいったのも、ちょうどそのさなかだった。(中略)講義のなかで九楊さんは、新しいものを生みだすには、頭のなかにある構想を表現しようとしたらだめだとおっしゃった。

構想は過去のものだから、自分を超えられない。書いている現場で、たまたま「?」なものが立ちあがる。その多くは失敗でだめなものだけれど、そのなかに捨てがたいものが出てくるときがある。それこそが、作者本人も知らない、いまだこの世に「見得ない」ものだという。(引用終わり)

もっと引用したいが、この最終回にいたってはじめてこの人、斎藤亜矢さんの独自性がおぼろげながらわかってきた。斎藤さんの専攻分野は「芸術認知科学」だという。この文章を読んで不思議な感覚に襲われたのは私だけなのであろうか。

 


今日は日曜だが

2018-12-16 13:01:41 | 日記

仕事場に来た。これは妻がまだ東京にいて、家には一人なので、退屈だから仕事場に来たのである。

普通は日曜日は昼寝したり、ぼんやりしたりして過ごしている。祝日も日曜以外は休まない。勤勉なようだがそうではなくて、ラジオ体操や外国語の初級のNHKラジオの放送を聞くためである。

世の勤勉な学者の中には日曜の仕事をする人もあると聞く。たとえば、辞書編纂に携わっている学者などである。私はそこまで勤勉ではない。

1週間に1度は休みを取って、1週間の気分転換を図り、かつ英気を養うことにしている。だから、今日のようなことは例外中の例外である。

それと何か月も髪を切っていないので、いつもの店に出かけてみたら、たまたま休業であった。


「数学・物理通信」8巻9号発行

2018-12-15 17:01:00 | 数学

ようやく、「数学・物理通信」8巻9号発行の準備ができた。いつものように数日おいてから発行しようと思っている。たぶん、来週はじめに発行することとなるだろう。

今年はもう一号8巻10号の発行をもって終わりとしたい。もし、8巻10号まで出すと今年末で75号を発行することになる。100号までにはまだ25号もあるから、いくらがんばってみても、来年100号を達成することはない。再来年にでもなるだろうか。またはそれよりも先のことになると考えるのが妥当なところである。

なお、9巻1号は来年の3月を予定している。


ラブラブで

2018-12-15 13:34:15 | 日記

私の妻が医療生協支部の会報だったかで、つぎの川柳を挙げていた。

     ラブラブで、いえいえ夫は杖代わり

木曜日にドイツ語のクラスで上の川柳の試訳を披露しようとしたが、完全にはできなかった。それでちょっと言いかけたらRudolfさんが手助けしてくれたので、その訳をここで披露させていただく。

Arm um Arm gehe ich mit meinem Mann wegen der Liebe, nein, als Stock.

(アルム ウム アルム ゲーエ イッヒ ミット マイネム マン ヴェーゲン デア リーベ、ナイン、アルス ストック)

(腕組んで夫と歩く、愛しているから、いいえ、杖代わりとして)

かっこの中は私のドイツ語訳の直訳である。ちなみにこのドイツ語訳をつくるのに辞書は全く使っていない。

もっとも愛していないなら、腕を組んでは歩かないだろうから、この女性は照れてはいるが、やはり夫を愛しているのだろう。そこまでの含意を感じられる、この川柳である。

いま念のために独和辞典を引いてみたら、

an js. Arm gehen ある人と腕を組んで歩く

Arm in Arm gehen 腕を組んで歩く

jn. unter den Arm fassen ある人と腕を組む 

とあった。

私は「腕を組んで」をArm um Armと訳したのだが、これがよかったのかどうかわからない。ちなみにこの部分をRudolfさんには修正をされなかったが、彼が私のドイツ語訳をきちんとみたかどうかははっきりしない。

 

 

 


開架図書の利点

2018-12-13 08:49:11 | 数学

東京の孫の家の近くにある国立大学があり、そこの図書館の開架図書で見つけた複素関数の本の中に関数の分岐点のほかではあまり書かれてない観点からの分岐点の定義があった。

それで松山に帰って私が以前に勤めていたE大学のOPACを検索したら、この書は書庫にあることがわかった。私は・・教授であるから、図書館の書庫に入ってその本を探すこともできるが、やはり開架図書にあるほうが便利であろう。

少なくとも私は今回、開架図書としてその本を手に取って読んでその有益さがわかった。もっとも本というものは本当に多数あり、すべての本を開架図書とすることなどできることではない。

そうではあるが、やはり開架図書の利点を思い知ったわけである。もし A. A. ハウザー、Jr (柴垣和三雄 訳)『複素変数』I (森北出版、1981)を手に取ることがなければ、この書を知る機会は私には永久になかったかもしれない。

類似の観点を述べた書をすでに知っていたのだが、それは普通の意味の数学書ではなかった。


ようやくマウスが

2018-12-12 21:27:07 | 日記

使える状態になった。これでようやく一人前ならぬ半人前になった。

それとコピー&ペーストをショートカットキーを使うことができるようになった。これがわからなかったためにいつも間違えたりしたときに二度手間をしていた。

さて、少し仕事がはかどるであろうか。


久しぶりに松山に戻った

2018-12-12 19:46:45 | 日記

10日ぶりに松山に帰った。なんだか懐かしいような感じがするから不思議だ。

とはいっても私の仕事場はここ松山である。まだしかし、パソコンが前のようではない。これはマウスがまだうまく使えないからである。

しかたなく、タッチパネルを用いているが、なんだかミスをすることが多い。そのうちにマウスを使えるような状況にしなくてはならない。

それでぎこちなくこのブログを書いている。明日は今年の最終のドイツ語のクラスがある。その前にE大学図書館で2冊ほど本を借りて来なくてはならない。これは東京のある大学の図書館で見つけた複素関数の分岐点の詳しい説明の書かれた本である。