物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

一般の人々への数学教育と

2023-12-11 10:15:09 | 本と雑誌
一般の人々への数学教育と私たち専門家への数学教育とは違うことを初めて感じた。

私は数学教育協議会の主張に共鳴して下部団体である、愛媛県数学教育協議会にかなり長い間所属していた。

その活動の中で微分積分などの一般化などの活動を見てきた。また水道方式とかの話も聞いたリ、読んだりした。その中にあまり難しいことは教えないという箇所があるのにちょっと違和感を感じていた。

それがどうしてかはわからなかったが、一般市民に対する数学教育と専門家に対する数学教育とは同じではないという認識にようやく至った。専門家としては進んでもっと難しいことも学ばなければならないことも多いということである。

だが、一般市民として人生を過ごされる人々にあまりに難しいことまでを教えたり、学んだりする必要がない(注)。こういうことは当然のことではあるが、専門家と一般市民との間にそのギャップがあるのだ。そのことに気がつくのがもう人生の終局に至った現在であることは遅すぎたであろう。

なぜこんな自明なことを思いつかなかったのか不明を恥じるだけであるが、実は最近物理学者の江沢洋さんが亡くなったので、『江沢洋選集』(日本評論社)を拾い読みしていたときに、彼の推薦する数学書が、寺澤寛一『自然科学者のための数学概論』、高木貞治『解析概論』(以上は岩波書店)、溝畑茂『数学解析』(朝倉書店)等であることを知ったからである。いずれの本も骨のあるいい本である。

江沢さんは専門家として物理学や工学を学ぶ者を対象にしており、一般市民を対象にして話をしていないということである。

(注)一般市民として生きる人々が大切ではないというつもりではない。大多数の人々は専門家ではなく一般市民として生きるのであろう。一般市民のための数学となれば、それは自ずから私たち専門家の学ぶ数学とは違うのは当然だろうか。

またある特定分野の専門家ではあっても数学とかその応用分野の専門家でない人々は、数学に関して言えば、ここでいう一般市民であろう。

森毅さん

2023-12-09 13:52:38 | 数学
あまり学会にも行きたくないし、集会にも参加したくない私が一度だけ数学者の森毅さんに会ったことがある。

これはもう何年のことだったわからないが、1980年代後半であっただろうか。夏に高知であった数学教育協議会の全国大会のある夜に学生さんが企画した行事だった。

題して、「森毅と乱交パーティ」、別に性的なことをここでは意味していない。それはおもしろそうと思って参加したのだが、参加者は件の学生は数人いたかどうか。他の参加者で社会人だったのは森さんをのぞいては私ぐらいだった。

しばらくして、学生さんたちが退散した後も少し森さんと話したが、それとていくら大目に見積もっても2時間未満であろうか。何を話したかは覚えていないが、その数年前に消滅した核力グループについて私は話したような気がする。核力グループの表立ってのリーダーは有名な物理学者の武谷三男である。

もちろん、表向きのリーダーがいるとすれば、陰のリーダーもいる。陰のリーダーはあまりグループ内でも意識されていないのだが、大阪市大に勤めておられた亘和太郎さんである。亘さんは、北大に勤めておられ、最後は京都大学にもどられた玉垣さんとも親しかった。それで核力グループの陰のリーダーとして最適の方であった。

またこの亘さんはかつて広島大学に勤務されていた関係で広島大学のグループとも関係があった。そういうことが彼が核力グループの陰のリーダーでありえた理由でもあるし、何より人柄が温厚で人望があった。

思わぬ方向に話がはずれたが、森毅さんはアルコールを飲まないのにだべることが好きで体力があり、いつまでたっても会を御開きにしたいと言わないとかで有名だったとどこかで読んだことがある。さすがにこのときは相当のお年になっており、そろそろおしまいにしましょうと森さんの方から提案をされたので、お話はおしまいになった。

森さんの数学者らしからぬところは、「気楽に行こうよ」と若者や学生に呼びかけるような感じのところがあり、なんでも決めつけてはしまわないで、余裕をもつというかそういうところが好きである。

一方、数学自身はなかなか厳しい学問である。私が近くで見たことのある数学者で人間的に尊敬できる人はいないでもないが、ピリピリした感じの人が多かったような気がする。これはその人の性格もあろうが、たぶんに数学が学問として本来そういう性格をもったものだろうという風に思っている。





ラプラスの悪魔とは

2023-12-08 13:14:54 | 物理学
ラプラスの悪魔とは何だったか思い出せなかったので、インターネットを検索したら、次のような記述があった。この説明だと物理学の力学を学んだことのある人にはわかりやすい。

(以下、インターネットの無断引用:はじめ)
ラプラスの悪魔とは、フランスの数学者ピエール・シモン・ラプラスによっ て提唱された仮想の存在です。 彼は、もし全ての粒子の位置と運動量、そして物質やエネルギーに関する情報が完全にわかれば、未来の全てを予測することができると主張しました。
(引用終わり)

「ラプラスの悪魔」を私は「ラプラスの魔」と前のブログで書いたが、同じつもりである。また英語のWikipediaでも説明がある。

Laplace's demon (ラプラスの悪魔)

In the history of science, Laplace's demon was a notable published articulation of causal determinism on a scientific basis by Pierre-Simon Laplace in 1814. (Wikipedia)

説明はほとんど同じである。articulationという語を知らないが、人間が考えた仕組みとでもいうのであろうか(注)。

もっともそういう初期状態の情報知識をすべて得ることはできないので、これは実際には到達不可能な仮定ではある。だが、そういう理想状態を考えるというところが数学者らしい。

(注)articulationをいま辞書を引いてみたら、「(言葉による)明瞭な表現」とあった。



鶴見さんの森毅評

2023-12-08 11:16:56 | 本と雑誌
数学者の森毅さんと哲学者の鶴見俊輔さんは一時期だが、同じ時期に朝日新聞の書評委員をしていた。

二人ともあまりアルコールを飲まない人であり、書評員会の後で二人でコーヒーを飲みながら話をしたらしい。鶴見さんは京都在住の哲学者であり、森さんも京都在住ではないが、京都大学に勤めていた数学者であった。

これは私が直接鶴見さんから聞いたことのある、森毅の感想である。鶴見さんは「Laplaceの魔」という考えがどこに出ていたのかを森さんに聞いたことがあったらしい。そしたら、その問いに森さんはきちんと調べて回答をしてくれた。

だから、鶴見さんは世間では森さんがちょっとちゃらんぽらんの数学者と思われがちだが、そうではなくて、きちんとした数学者であるという風に言われたと思う。いやきちんとこういう風にはいわれなかったのだろうが、私はそういう風に解釈をした。

森さんがちょっとちゃらんぽらんの数学者と思われがちな原因は彼の著した多くのエッセイ集による印象だと思う。だが、数学者はチャポランでは数学はできないことは私にはよく理解できる。





impact factor(インパクト・ファクター)

2023-12-07 11:20:20 | 数学
インパクト・ファクターなどと急に言われたら、「なんだ、なんだ」となるだろうか。

論文の社会への寄与度を示す指数にimpact factorというのがある。これは最近聞いた話だが、日本で日本語で発表した論文が0.3くらいのインパクト・ファクターであった場合にそれを英語で発表すると3になるとか。社会に衝撃を与える程度が約10倍になるという。

これは私が小著『四元数の発見』(海鳴社)を英語に翻訳して出版したいという希望を持っているということを話したときに、それはいいことだと賛成してくれた義弟の話である。

『四元数の発見』の英訳についてはまったく進んでいない。これは第6章の部分をどう修正するかまだ私にわかっていないからである。

これはベクトル空間について私がよくわかっていないことが原因である。少しづつこれについてわかって来つつある。だがまだ十分ではない。

(2023.12.9注)
インパクト・ファクターについての説明が十分でなかったとして義弟から詳しい説明のメールをもらったのだが、この記事はそのままにしておく。

インパクト・ファクターは科学技術の雑誌の個々に対してつくもので一つ一つの論文に対してではないということらしい。詳しいことは機会があればいつかしたいが。






数学・物理通信13巻6号の編集

2023-12-06 12:52:52 | 数学
数学・物理通信13巻6号の編集ができた。むしろこれからが大変である。

というのはそれぞれの投稿論文とかエッセイを読むことをしないといけないからだ。

Sさんの投稿論文はいつものごとく数式一杯の論文である。ようやく3ページを読んだところである。まだ8ページ残っている。全部わからなければならないことはないのだが、全く述べられていることがわからないのも編集者として困るであろう。

それにけっこう厄介なのが自分の書いたエッセイである。今回は前に書いた数学エッセイの改訂版ではあるが、それだから簡単であるということはない。今回もすでに読み直して修正したいと思うところを見つけている。だが、これらも修正のご意見を頂いたら、またもう一度考えてみるつもりである。

発行は早くても2週間後だろうか。

血圧が上がると

2023-12-05 12:33:37 | 本と雑誌
血圧が上がると私の腹部大動脈溜が破裂して死亡する可能性があると行きつけの診療所で言われた。

ほぼ1か月前の診療のときくらいから気候が寒くなっているので、血圧が上がり気味である。それで血圧が130を大幅に超えると腹部大動脈瘤が破裂する可能性があると警告されている。

暖かいときには血圧は110を切るくらいで何の問題もないのだが(もちろん血圧降下剤は飲んでいての話だが)、寒くなってくるといけない。

昨日も診療所で測ったときに148と言われた。それで飲む血圧降下剤を強いものに変えられた。夏の間は軽いものに変えられていたのに。それに強い薬には副作用もあるという。急に強い薬にするのは問題ではないのか。徐々に強い薬にするなら、わかるけれども。

私の体が実験台にされているような気がした。それで薬に副作用があるから年末までに再度来院したほうがいいとかとも言われた。そんなに副作用が強そうな薬を飲せておいて副作用があるかもしれないから再度年末までに来なさいとは利益優先ではないのかという感じがしないでもない。

医師も診療所をもっていると受付の人も会計の人もまた、看護師の方も雇わなければならないし、また自分の生活のための収入も必要であろうし、その辺は私の都合だけでは話が収まらないのはわかっているつもりだ。

だが、どうも自分たちの収入を確保するために過剰医療をする傾向にあるのは否定できないと思っている。これは法律に違反するようなところまで悪質ではもちろんないのだが。

それにそれはお前の体のことを考えた結果であり、医療で考慮される範囲だといわれればそれはそうだろうが。

『小学生にピタゴラス』

2023-12-04 12:03:19 | 数学
ピタゴラスの定理について以前に書いたエッセイを修正しているが、その関係でピタゴラスの定理について書いた本を数冊参照している。

その1冊はそのずばりのタイトルの『ピタゴラスの定理』(東海大学出版会)であり、もう1冊は標題の『小学生にピタゴラス』(みすず書房)である。

はじめに参照したのはもちろん『ピタゴラスの定理』であるが、これはずいぶん昔に書かれた本らしいが、とても行き届いた書きようであるらしい。

いま一つの見ている本は『小学生にピタゴラス』である。ところがこの中の文章にわからないところがいくつか出てきている。わからないところが1か所でないところが問題である。

編集者が前もって読んで「先生、これでは意味がわかりません」とか言わなかったのだろうか。私は物わかりのわるいことを自認しているので、私が分らなかったとしてもそれ自体はこの本の欠点ではないのかもしれない。

だが、「先生、ここは言葉(説明)を補った方がいいのではないですか」とか言わなかったのだろうか。『小学生にピタゴラス』の著者は物理学者だった玉木英彦さんである。若いときには戦前の理化学研究所で研究をしていたことのある、優秀な研究者であることは周知である。

物理学者の武谷三男も理化学研究所で若いときに彼に出会った。それ以前からすでに知り合いであったかもしれないが。

最初のわからないことの一つは小学生にもわかるというピタゴラスの定理を示すという模型の説明がわからないのである。

模型自身のつくり方も詳しく書かれているのに。それで他の本も探して読んでみなくてはならないと考えている。 



東京から帰って数日になるので

2023-12-02 13:44:52 | 数学
東京から帰って数日になるのでようやく平常に復帰している。

昨日から12月になったので、数学・物理通信の13巻6号を発行する月となった。すでに投稿があり、私も以前に掲載したエッセイの改訂版を投稿するつもりである。

それに用意された原稿のページ数にもよるが新しい原稿も投稿するかもしれない。これはいま書き始めているテーマで文字タイルを使った因数分解がテーマである。

はじめは「因数分解の水道方式」というテーマで書こうと思ったのだが、これについてはすでにそういうタイトルのエッセイが私の知人によって発表されている。


Le miel

2023-12-01 12:34:56 | 本と雑誌
28日に日野市に滞在したときに、Le miel(はちみつ)というの名のレストランに義弟につれて行ってもらった。フランス料理を出すお店である。

シェフは別にフランスで修業した人ではなかったらしいが、フランス人の料理人と働いたことがあるとかで、お店の前の案内がデジュネとかディネーとか出ていた。

デジュネは昼食だし、ディネーは夕食である。奥様がフランス語ができる方かこのフランス語を毎日書いているとのことだった。

たまたま私はLe mielというフランス語を知っていたので「はちみつ」という意味でしたかねと尋ねたら、そうだという答えであった。

繊細な味の夕食を頂いた。前日の夕食はドイツで修業したシェフのドイツ料理とワインを頂いた後だったのでその対比がおもしろかった。

この夕食ときはあまりアルコールは飲まず控えめにした。