【元日経新聞記者】宮崎信行の国会傍聴記

政治ジャーナリスト宮崎信行、50代はドンドン書いていきます。

[訃報]吉田公一・元新生党衆議院議員、享年77、肺がん、吉田先生と秘書のみなさまには感謝、感謝、感謝ばかり

2018年07月31日 02時36分59秒 | 素晴らしき新生党保存会

 吉田公一・新生党衆議院議員(元民主党衆院議員の吉田公一氏死去)が77歳で、おととい亡くなった、という報道が夕べでました。衷心よりの哀悼。そして、吉田公一・東京9区総支部長とその秘書・スタッフのみなさまに、元新生党東京11区総支部員より、心より感謝、感謝、感謝、感謝、感謝を申し上げます。注・9区と11区は小選挙区比例代表並立制移行後であって、新生党時代(中選挙区時代)とは一致しません。

 新生党・民主党衆議院議員、農林水産副大臣を歴任された、吉田公一先生は、おととい、平成30年2018年7月29日(日)午後10時40分、肺がんのため東京都内の病院でお亡くなりになりました。享年77。葬儀は8月4日午前11時から東京都練馬区春日町4の17の1の愛染院会館で。喪主は妻和子(かずこ)さん。

 私は大学生・改革フォーラム21(自民党羽田派)→新生党時代に、ご指導いただいた先生をあまり言及しませんが、これは、松下政経塾出身の古山和宏さんで、大学5年間、ぞっと板橋区内の総支部には通っていました。ご存知の通り、古山さんが当選することはありませんでした。古山さんが永田町事務所を持つことがあれば、私のキャリアパスは、やや違ったものになっていたかもしれません。

 東京9区総支部はドタバタでしたから、吉田先生率いる、東京11区総支部(板橋区の4割の区界は練馬区と接している)のスタッフのみなさんにはお世話になりました。まず、出馬歴では1期先輩の古山さんは、吉田都議のパーティに出席。私も同伴。ここで、吉田都議を支える区議のみなさんは「あれ、中村先生からのお花が来てないな」。吉田都議は、系列の中村靖衆議院議員(中村梅吉元衆議院議長の子、その後未入閣のまま引退)から離れる格好で、新生党公認で衆院選に出馬。4人区でしたが、新生党ブームの中で初当選。この選挙区では公明党さん公認の石井啓一・現国交大臣も初当選し、自民党は新人の小林こうきさんが初当選し、中村さんは入閣適齢期・都連幹事長ながら落選しました。他の選挙区では、新生党の西川太一郎都議(現・荒川区長)も初当選し、議員会館は隣同士でしたが、両先生の折り合いは良くなかったようです。

 私は、月刊都議会リポート(行革で廃刊)を読んでいましたが、吉田先生の都議時代の質疑は、リベラルそのもの。我々新生党は連立をともにした公明党さんから「極右政党」という誤ったイメージを持たれましたが、吉田先生はリベラルそのものでした。我々政治改革派に共鳴して、宮澤解散のかなり前から、小沢一郎先生の公認内定をとっていたと思います。

 東京11区のパーティーでは、吉田代議士が応援に。吉田先生は下町のミッチーともいっていいほど、渡辺美智雄さんのように演説がうまく、笑わせ上手で、親しみやすく、政策通でした。あるときは、「狂犬病の注射をしているが、実は日本で●●年も狂犬病は発生していない。これは獣医師会の利権なんです。こういうのを改革したい」と聴衆の関心を呼びながら、「実は先ほど挨拶して、今ほど退席したばかりの、先輩の北村直人先生、あの人獣医師さん」と笑わせながらも、私は「勇気のある先生だな」と感じました。このときは、私たちの連絡ミスで、北村先生ら退席後に、吉田先生到着まで、数分間の時間があると勘違いしてしまい、早めに乾杯をしてしまい、食事をとりだす数十秒前に吉田先生到着ということになりましたが、「どうぞみなさん、お召し上がりながら聞いてください」と機転を利かせてくださり事なきを得ました。

 羽田孜・小沢一郎軍団の強さの象徴、箱根での新生党合宿。夜は酒盛りですが、この場でも、なんとなく都連中心に集まりますから、吉田先生の秘書と、古山さんの秘書が小学校の同級生だということが私によって判明する、という機縁もありました。だからどうしたという機縁ですが(苦笑)。

 以前も書きましたが、私がまさに冷や汗を書いたのが新進党時代の参院選。11区は、旧公明党出身の太田昭宏代議士が自ら比例転出を表明するというおどろくべき展開で、両者とも地盤の、小選挙区9区・11区での次期衆院選の公認を取れました。そして、新進党は組織を束ねるために、参議院東京選挙区で、魚住裕一郎候補(現公明党参議院会長)1人だけを擁立。夜の選対で、西新宿の事務所に行った際は、東京1区から、25区まで順にその日の情勢を報告。1区、2区、3区・・・と順に来て、でも、11区の私は当時学生で日中は入れてなかったので何も話せませんよ。以前にも書きましたが、この会議の司会役は、9区総支部で、新生党時代から旧知の秘書さん。何も話せない11区の私に、一般的に答えられるはずの自民党都議2人の対立(田中晃三、下村博文両都議)状況について質問してくれて、別に年中話せるはずの、田中、下村両都議の対立を説明して、さまになりました。これは、もう感謝、感謝、感謝、感謝の一言です。この選対は本部長、事務局長、そして夜の選対司会役まで旧新生党がやっていて、このことが、その後の東京都連での大敗、新進党分裂の遠因になったかもしれないとも思います。

 その後、吉田先生は、選挙区で自民党公認のガッツ石松さんと、96民主党さん公認の小川敏夫さんの挟み撃ちにあいながらも、強靭な足腰で再選。さらに、自民党で満を持して登場した、菅原一秀さんにも次の選挙で勝ちました。しかし2003年の選挙では、どういうわけか、吉田vs菅原なら、若い菅原さんの方がフレッシュというイメージが選挙区内でできてしまったようで敗れました。また、諸事情があったんでしょうが、私が取材できない時期に、吉田先生は、民主党羽田グループから民主党鳩山グループに移ったようですが、これはまあ賢明だったのかもしれません。そして、2009年に比例で復活。農林水産省の政務三役として、両院議員総会で発言し、「前日、日程表に3つぐらい官僚のレクシャーが入っていると、全部切っちゃうんだよ」との政治主導をスピーチ。これには、民主党議員は大爆笑。私は、吉田先生の言う通りだと思います。民主党政権は、総理大臣まで財務省のレクチャーに洗脳されてしまい、大惨敗を喫します。

 その後、吉田先生は、政治資金管理団体を解散。このとき、全国で気づいたのは私一人でしょうが、百数十万円ほどの残金を国庫に返納していました。通例、百数十万円でも、個人に寄付したり、自著を購入したりして、ゼロ円にしてから解散するのが普通です。吉田先生は、「吉田パイプ工業社長」の肩書もあったため、お金にクリーンではないのではないかとの予断を持ち、東京だから取材しやすいと勘ぐる記者もいて、私は2~3度そういう趣旨の質問をされたことがあるような気もしますが、この百数十万円国庫返納をみても、クリーンだった。上述で、細川・羽田連立内閣の頃に公明党さんから「極右政党」という間違ったイメージを持たれましたが、新生党結党時に、河野洋平官房長官(のちに自民党総裁)から「自民党が改革しなければならないのはなにか。それは出て行ったあの人たちの体質そのものではないか」と新生党を官房長官会見で批判し、自民党内も含めて批判・賛同が出ました。私も学生の立場で、新生党はクリーンでなかったかもしれません。ただ、それは、バブル末期で、自民党竹下派にはお金がある人が集まっていて、あの時の議員・秘書会青年部で逮捕された人はいるでしょうか。学生塾の3代目の代表だった石川知裕さんだけです。学生ながら、クリーンではないかもしれないが、我ら改革派だという意識は強かった。羽田内閣では、新生党・新生党秘書会青年部・学生塾は鬼の団結を示しました。これは、少数与党だったからですが(苦笑)、あのころの、都連の3区のメンバーで、「実はあのとき、宣車で怪我して羽田内閣の2か月間は病院に居たんです」という告白を聞いて、「それ言わなきゃ分からないですよ、先輩はみんな、我々新生党の仲間だというイメージしかないから大丈夫」。まあ、私は当時大学3年生の末席ですが、今でも新生党の仲間では、そういう話をします。

 吉田先生は、私が知る1993年ごろから、ずっと、脚をひきずっておられました。

 吉田先生。吉田先生の秘書のみなさまが今どうしているのか一人も分からないのですが、本当に、感謝、感謝、感謝、感謝、感謝、感謝、感謝、感謝、感謝、感謝ばかりです。

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【動画】羽田孜さんへの黙祷 臨時党大会 「政権交代可能な二大政党制を実現された私たちの先輩」

2017年09月01日 17時41分52秒 | 素晴らしき新生党保存会

 羽田孜さんが亡くなって、4日経ちました。

 きょう1日、臨時党大会の冒頭で、羽田孜さんへの黙祷がありました。


羽田孜さんへの黙祷 民進党臨時党大会 20170901 宮崎信行撮影

 といっても、羽田さん追悼のための党大会ではなく、もともと、予定されていたものです。

 吉川沙織大会実行委員(参議院議員)が読み上げた文章では

 「さる2017年8月28日にご逝去された羽田孜元首相に黙祷を捧げたいと思います。羽田元首相は政治改革に心血を注がれ、政権交代可能な二大政党制を実現された私たちの先輩であります」。

 訃報や評伝では「ミスター政治改革」「政権交代可能な二大政党政治をめざした」と美辞麗句の嵐でした。「省エネルック」「現行憲法下最も短い64日間」も含めて、褒めちぎりといったところでした。なかには、「政治改革の時計は(羽田内閣総辞職の)あの日で止まったまま」という美文もあり、ご遺族は涙を流しました。

 ただ、21世紀になって、17年間の間に、2009年に民主党、2012年に自民党が、衆院選による単独過半数での政権交代を実現させています。17年間に2回あれば、完成ではないでしょうか。それ以上頻繁でも困ります。ある元参議院議員が「羽田先生の教えを守っていれば、3年3カ月以上政権は続いた」という趣旨のことをおっしゃったようですが、私は「もっと与党権力に居たかったという勢力を選挙で追い落とす」のが、政権交代可能な二大政党制だと確信しております。まあ、あまり様々な解釈を開陳しないほうがいいでしょう。

 とにもかくにも、政権交代可能な二大政党制は、実現しました。

 「羽田先生の思いを、後世に!」と気張らなくても、衆議院小選挙区比例代表並立制を続ければ、また政権交代することもあるでしょう。自民党から民主党までいろいろなことがありました。終わりよければすべてよし。

 時計が止まることはありません。

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 宮崎信行。


【訃報】ありがとう、さようなら羽田孜先生、老衰で大往生、享年82、「最高」の総理大臣、政権交代可能な二大政党政治を実現

2017年08月28日 13時57分00秒 | 素晴らしき新生党保存会

[写真]羽田孜衆議院議員(当時、左)、右は筆者・宮崎信行、羽田次郎公設秘書(当時)撮影、2012年11月16日、東京・永田町の現在の議員会館で。

 羽田孜さんが、けさ、亡くなりました。

 元内閣総理大臣、羽田孜(はた・つとむ)さんが、きょう、平成29年2017年8月28日(月)午前7時6分、老衰のため、東京都内のご自宅で、お亡くなりになりました。享年82歳。

 葬儀・告別式は、9月8日(金)午後1時から3時まで、東京の青山葬儀所(港区青山2-33-20、電話03の3401の3653)。喪主は妻の、綏子(やすこ)さん。後日、上田市でも「お別れの会」を開催。

 ひょっとすると、読者の方のなかには、私のことだから、なにか予定稿でも書いていたのでないか、と思っておられる方もいるかもしれませんが、そういうものはまったくしていません。ただ、ある意味、私の頭の中には、常に予定稿があった、政権交代ある二大政党政治の過去、現在、未来のことを常に考えていますから、常にこの日のことは予定の中にありました。



[写真]歴代首相湯呑の羽田孜首相の似顔絵と、長野北信から届いたばかりのりんご、2017年8月28日午後1時55分、東京の筆者自宅内で、筆者・宮崎信行撮影。

 実際、こうして、キーボードを打っていて、やや手が震えていますが、淡々と、「歴史」を刻み付けているところです。

 私が羽田先生に最初にお会いしたのは、北沢俊美さんが、参院選に出馬した、平成4年1992年の夏。そのとき驚いたのは、「羽田大蔵大臣」が車列の中で自らマイクで話し続ける。それと我が国の日本の大蔵大臣が地元に入ったからといって、家から飛び出してくるわけでもない。これは最近「祈る必勝」の為書きと同様に、「大蔵大臣の~~」ではなく、「みなさん、こんにちは、はたつとむです!」と肩書きは言わない方でした。国会の外では議員バッジを「世論を知るのにこんな邪魔なものはない」と外していました。

 その後、自民党内の事情もあり、同年秋、羽田派(改革フォーラム21)旗揚げ。私も自民党学生部に在籍しながらも、「政権交代ある二大政党政治、中選挙区の弊害打破」に共鳴し、1993年6月、新生党結党となりました。

 とにかく、羽田先生という方は同じことをおっしゃり続ける方でした。竹下先生、民主の風など様々なことがあり、はじめから苦しいと分かっていても、羽田内閣が退陣した直後に、学生とも触れ合う姿。退陣の記者会見で「もう政局は止めにしよう」と語り、翌日に街頭演説した姿。いま、43歳の、すれた私には、それから、10年以上夢見た「羽田内閣再登板」がなぜできなかったのか。解散すればよかった、居座ればよかった。ちょっとだけ今涙が出てきましたが、必ずしも完璧な政治ではなかったのかもしれない。ただ、私自身、2004年ごろから、岡田克也先生に羽田先生の後継者として総理になってほしいと切に願い、そこで、少しずつ羽田直系と、ほんの一瞬、一瞬、数センチだけ、隣を歩いているときも、常に、羽田先生の政権交代ある二大政党制への邪心のまったくない、思いを、岡田さんとともに、私も共有してきました。そういう意味では、私は、25年経っても、自分で「純粋、ピュア」な政治関係者だと胸を張れますね。

 羽田孜副総理兼外務大臣が答弁してできた、平成6年政治改革4法(政党助成法、衆議院選挙区画定審議会設置法、改正公職選挙法、改正政治資金規正法)を、守り抜いていきたいと考えます。

 まあちょっとよくまとまらないのですが、羽田先生と同じ、東京生まれの信州人であることを誇りに思います。

 私は最近率直に話し過ぎて、民進党代表記者会見で、現在の連合会長のことを「連合発足以来、最低最悪の会長ですよ」と言ってしまい、物議を醸しました。羽田内閣は64日間と、現行憲法下で、最短の内閣ですが、第80代羽田内閣は、明治維新以降、最高の内閣だと断言します。

 とりあえず、現時点ではここまで書きました。

 2017年8月28日の東京は、久しぶりに30度を切っています。夕方はゲリラ豪雨という日が多いという夏でした。昼に、長野市(北信)の親戚と話したばかりですが、天候が暑いので、早いりんごが8月でも獲れています。これは、いたしかゆし、か。国会は閉会中ですから、のんびりムード。羽田内閣ができたころの、熱狂はありませんが、その後、阪神大震災・オウム事件などいろいろなことがありましたが、2009年9月には選挙による、政権交代で、民主党内閣が3年3カ月続きました。それだけですべてが良かったのかな、と感じます。天皇(明仁さん)、皇后(美智子さん)両陛下が、先週、軽井沢近くの満蒙開拓団から引き上げた人が開拓した土地を慰労しました。来年、平成30年で、「平成」が終わることになりそうです。

 とにかく、まとまらないのですが、初投稿の、28日午後1時51分の時点ではここまです。

【追記 同日午後7時半】

 羽田さんは、最近は、しばらく入院されていたそうですが、医師から帰宅して良い、と言われたそうです。

 一つの時代の終わりということで、「1993年夏の衆院選は本当に燃えた。2009年夏よりずっとあつかった」という話が聞かれました。

 代々、太りやすい体質だそうで、伊豆半島のニンジンジュースダイエットなどにも、羽田さんはよく通っていたそうです。

 同日午後4時台に、東京・有楽町で開かれた、前原誠司さんと枝野幸男さんの民進党代表選の街頭演説会冒頭に、中央代表選挙管理委員会の担当者から、羽田さんの訃報が言及がありました。

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江崎鉄磨国務大臣の政務秘書官に若山慎司さん 新生党学生塾出身

2017年08月17日 08時43分14秒 | 素晴らしき新生党保存会

[画像]2017年8月17日付官報の一部、宮崎信行がスクリーンショットの上、赤囲みを加筆。

 新生党学生塾出身の若山慎司さんが、国務大臣の政務秘書官になりました。

 平成29年2017年8月3日(木)の第3次安倍第3次改造内閣で、初入閣した江崎鉄磨衆議院議員の政策秘書だった、若山慎司さんが、江崎国務大臣政務秘書官となりました。発令は同日付。17日付官報で告示されました。

 江崎さんは自民党所属で、1993年新生党から初当選。若山さんも新生党学生塾に入り、幹事の要職をつとめました。筆者・宮崎信行とは大学が違いますが、インターカレッジとして、1年後輩になります。当時から学生秘書で、私の家に泊まっていただいたこともあります。

 新生党学生塾からは既に国会議員も出ていますが、大臣政務秘書官は初めてではないかと思います。若山さんの能力が高いことを認める人は私以外にも多いでしょうが、ただ、「代議士が現職で与党で大臣で」という機会の中でのことですから、運という要素は強いと感じます。

 新生党学生塾出身者も全員40歳を超えましたでしょうか。とはいえ、元々あの時代にですから、志の高さだけは指折りつき。まだまだこれから人材が輩出されることになりそうです。

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(C)2017年、宮崎信行。

[お知らせはじめ]

宮崎信行の今後の政治日程(有料版)を発行しています。

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このブログは以下のウェブサイトを活用しエントリー(記事)を作成しています。

衆議院インターネット審議中継(衆議院TV)

参議院インターネット審議中継

国会会議録検索システム(国立国会図書館ウェブサイト)

衆議院議案(衆議院ウェブサイト

今国会情報(参議院ウェブサイト)

各省庁の国会提出法案(閣法、各府省庁リンク)

予算書・決算書データベース(財務省ウェブサイト)

インターネット版官報

[お知らせおわり]

Miyazaki Nobuyuki 


前田武志、北沢俊美両先生に旭日大綬章、桐花大綬章に江田五月さん、旭日大綬章には輿石東さん、直嶋正行さん、中川秀直さんも

2016年11月03日 13時24分35秒 | 素晴らしき新生党保存会

[写真]皇居外苑のお堀端と、そこから見る国会議事堂、きょねん秋、筆者・宮崎信行撮影。

 内閣府賞勲局は、平成28年2016年11月3日、平成28年秋の叙勲を発表しました。

 江田五月さんが桐花大綬章。

 旭日大綬章は、前田武志さん、北沢俊美(北澤俊美)さん、輿石東さん、直嶋正行さん、中川秀直さん、金築誠志元最高裁判所裁判官、野間口有元三菱電機社長が選ばれました。

 国会議員経験者に限ると、旭日重光章には、北川イッセイさん、小泉昭男さん、斉藤勁さん、西川きよしさん、野呂昭彦さん、松浪健四郎さん、三井辨雄さん、横内正明さん。

 旭日中綬章は、江口克彦さん、水野誠一さんが受章しました。

 政権交代ある二大政党政治をぶれることなく志向し実現した5人、自民党入党後幹事長を務めた中川さんが1人。民進党前議員が5名を占めたことは、世代交代の象徴かもしれません。

 筆者・宮崎信行が自民党学生部を離党して結党に参画した、新生党の結党44議員(衆は全員前職)からは、前田武志先生、北沢俊美先生が叙勲。三井辨雄さんも旭日重光章となりました。早い時期が新進党(三重県連)に参画した野呂昭彦さんも受章しました。

 前田先生は当時は(前)衆議院議員でした。北沢俊美さんは、参院当選直後で、代表幹事(幹事長)だった小沢一郎先生の「参議院は後からついてくる」発言で、少なかった参議院新生党からも旭日大綬章となりました。これで、新生党からは、羽田孜代表が桐花大綬章、渡部恒三先生、奥田敬和先生、石井一先生らが旭日大綬章。今回で少なくとも6名以上、旭日大綬章以上になったようです。とっさに思い出し切れないため、漏れがあるでしょう。

 もちろん、小沢一郎先生は、74歳ですが現役ですし、岡田克也先生はバリバリ現役ですし、そもそもまだ弱冠63歳ですから、叙勲など遥かに遠い話になります。

 受章者の最近の消息ですと、江田さんは10月から新ホームページを開設。

 直嶋さんは、東京・神田に事務所を構えました。

 北澤さんは、東京はすべて引き上げ、長野の自宅に帰りましたが、政策秘書と長野事務所長は、後継者の杉尾秀哉参議院議員の同じ職に収まっています。

 固有名詞の間違いなどはご容赦いただければ幸いです。

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原口一博さん「岡田克也さんはつまらなくなんかない。何回か意見の衝突もあったが中身の詰まった優しい人だ」

2016年08月24日 06時38分52秒 | 素晴らしき新生党保存会

[画像]原口一博・民進党初代常任幹事会議長、2016年2月、衆議院インターネット審議中継からスクリーンショット。

 民進党の原口一博・初代常任幹事会議長(佐賀1区衆議院議員)は、平成28年2016年8月24日(水)、

 Twitter等で、

 「何回か意見の衝突もあったが僕も岡田さんと共に苦楽を共にしてきた。中身の詰まった優しい人だ。つまらなくなんかない。

 と発信しました。

 これは、新聞などが、「蓮舫氏「岡田代表は大好きだが、つまらない男」」と報じたことに反応したものです。

 このブログ記事は、数分早く、宮崎信行公式ホームページにも掲載しましたので、よければ、そちらも見てください。

 2016年、宮崎信行。 


このあと午後11時45分から「羽田孜先生お誕生日カウントダウン」をツイキャスで放送します

2016年08月23日 22時59分09秒 | 素晴らしき新生党保存会

 このあと、午後11時45分から、ツイキャスで、

 羽田孜先生、お誕生日カウントダウン マリオよりもバカボンパパ 吉野弘さん祝婚歌朗読

 をお送りしました。

 眠いので、早めに終わります。

 録画は→こちらです。

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 2016年、宮崎信行。 


小沢一郎氏に解体された新進党ゆかりの赤坂プリンスホテル&戸田ビルが「東京ガーデンテラス紀尾井町」に

2016年07月27日 20時26分26秒 | 素晴らしき新生党保存会

[画像]東京ガーデンテラス紀尾井町=ホームページから拝借。

【追記 2021 3/16】

重大な事実誤認。戸田ビルは現存しています。過去5年間に読者で混乱された方がいれば、お詫びします。【追記終わり】


 新進党を解党して、政権交代ある二大政党政治と子供たちの未来を奪った、小沢一郎氏による新進党解党の歴史的暴挙の新進党両院議員総会が開かれた、赤坂プリンスホテルが、同じ西武鉄道グループにより、「東京ガーデンテラス紀尾井町」として生まれ変わり、2016年7月27日、グランドオープンしました。


[写真]新進党を解党した、小沢一郎氏、2014年、筆者・宮崎信行撮影。

 ホテル、商業ビル、飲食施設、居住棟からなる、再開発ビル。そして、新生党本部があった、戸田ビルも、合流しました。戸田ビルの向かいの中華料理「維新號」はそのまま残りました。

 国会議事堂から見ると、参議院議員会館の裏から、自民党本部前を通り、青山通りを左折し、赤坂見附から、弁慶橋に向かったところの手前にあります。向かって右が東京ガーデンテラス紀尾井町で、向かって左がホテルニューオータニのテレビではあまり映らない新館になります。右手奥には、参議院の第2宿舎、清水谷宿舎があります。紀尾井町は、大久保利通暗殺の地でもあります。

 みなさんご存じでしょうが、新生党本部は、1階が羽田孜事務所、2階が会議室(両院議員総会室)、3階及び4階が党本部、5階が小沢一路事務所でした。その後、赤坂プリンスホテル新館では、新進党解党大会(号泣)と第2次民主党結党大会が開かれました。 

 新進党を解党した1997年からは、日本は失われた20年と呼ばれ、新進党解党による、国民の可処分所得喪失効果は30%です。

 政権交代ある二大政党政治のために、新進党解党の暴挙は、家庭内で、18歳以下に伝えていく必要があります。

 西武鉄道グループには先見の明があります。良くも悪くも。

 政権交代ある二大政党政治で、持続可能な日本をつくりましょう。

 今からでも遅くはありません。

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愛野興一郎先生の夢のバトン原口一博民主党副代表が衆予算委に登場 きょうの国会

2016年02月22日 18時01分39秒 | 素晴らしき新生党保存会

【平成28年2016年2月22日(月)衆議院予算委員会】

 平成28年度予算案審議13日目、一般的質疑は5回目。

 8分科会の設置と主査選任の一任が議決されました。

 民主党の原口一博副代表が質問。「ラムズフェルドとアーミテージが叙勲したが、安倍内閣ではFMS有償軍事援助が増えている」と指摘しました。防衛省局長は「平成27年度は4705億円で、V-22オスプレイ6機、戦闘機F-35A6機などをFMS(米政府からの輸入調達)で整備している」としましたが、原口さんから「これは28年度予算案の審議だ」と釘をさされました。

 原口さんはFMSのうち、米政府から部品が未納で使えない兵器が多いと指摘。行政事業レビューでも一者応札が多いと問題点を浮き彫りにしました。

【同日 参議院】

 ありませんでした。

 ◇

 民主党の原口一博副代表が世襲議員だと知っていましたか?

 国権の最高機関、衆議院の議事録にちゃんと載っています。

 「きょうは、私は、(略)親子二人でひとつ質問を分担ししたいと思っておるわけであります(略)」

  平成9年1997年2月25日(火)の第140回通常国会の衆議院予算委員会。

 原口一博さんと「親子2人で質問」すると語るこの人物。

 政権交代ある二大政党政治を実現した「新生党」結党35人衆の一人、愛野興一郎先生です。

 佐賀新聞、1994年12月9日付1面。

[佐賀新聞過去記事から引用はじめ]

 原口一博元県議、新進党に入党へ 期衆院選への出馬が注目されている元県議の原口一博氏(35)は八日、東京・永田町の衆議院議員会館に県選出の愛野興一郎代議士(新生党)を訪ね、十日結成される新進党に入党する意思を伝えた。

 原口氏は小選挙区制の導入に伴い、佐賀一区からの立候補を望んでいるといわれ、同じく新進党から一区出馬の構えの日本新党県支部長横尾俊彦氏(38)との候補者調整問題が浮上することは必至の情勢だ。

 愛野代議士によると、原口氏は同氏に新進党入党の意思を伝え、「十日の結成大会にも出席させてもらう」と語った。前回の総選挙で自民党籍のまま、無所属で出馬した原口氏は最近、新生党関係者との急接近が伝えられていたが、新進党への入党意思を伝えたのはこれが初めて。ただ、自民党佐賀市支部には正式な離党届は出ていない。

小選挙区制の佐賀一区からは自民党の坂井隆憲代議士(47)が党公認を狙って活発に動いているのに加え、社会党の緒方克陽代議士(56)の動向も注目され、新進党が候補者を擁立すれば、前回の総選挙同様の混戦が予想される」

[引用おわり]

 それから3年、小選挙区と比例代表でともに議席を得た、愛野先生と原口さんは予算委員会で質問しました。

[国会議事録データベースから引用はじめ]

第140回国会 予算委員会 第18号

平成九年二月二十五日(火曜日)

(略) 

愛野委員 きょうは、私は、この原口君と関連で、親子二人でひとつ質問を分担してしたいと思っておるわけであります。最後に、せっかくお呼びしたわけでありますから、もう時間がなく、若き原口君にバトンタッチしようと思っておるわけですが、通産大臣にお伺いします。

(略) 

○深谷委員長 この際、原口一博君から関連質疑の申し出があります。愛野君の持ち時間の範囲内でこれを許します。原口一博君。

[国会議事録データベースから引用おわり]

 愛野先生といえば、改革フォーラム21(羽田孜代表)結成時に、勝手知らぬ参議院議員宿舎をローラー作戦し、呼び鈴と間違って非常ベルを押してしまったエピソードはあまりにも有名。

 結果、我々改革フォーラム21・新生党は参議院議員はわずか8名(北澤俊美さんら=今期で勇退)でのスタートとなったのですが、愛野先生の政権交代ある二大政党政治への熱情が形となり、次の通常国会後に、政権交代を実現しました。

 愛野先生は、1997年末、「政権交代可能な二大政党制を目指す」とし、原口さんも「愛野氏と行動を共にしたい」と語りました(1997年12月28日付佐賀新聞1面)。

 原口さんは一人ではありません。

[佐賀新聞過去記事から引用はじめ] 

愛野、原口氏は鹿野氏に同調

1997.12.28 佐賀新聞 総合(1面) (全387字) 

 新進党の愛野興一郎代議士(比例九州)は二十七日夜、「鹿野道彦氏らの新党結成に参加する」と明らかにした。愛野氏は小沢氏の党運営を「トップダウン方式で独善的」と批判、「”保保連合”志向の小沢氏とはたもとを分かち、自社さの連立政権に代わる政治勢力の結集を目指したい」と新党参加の理由を説明した。また、両院議員総会を欠席した原口一博代議士(佐賀1区)は同夜、電話で愛野氏に対し「愛野氏と行動を共にしたい」と”鹿野新党”への参加意向を表明したという。

 愛野氏は二十七日の鹿野派幹部会の席上、鹿野新党参加を最終決断した。愛野氏は「三年前の新進党結党は政権交代可能な二大政党制を目指した。しかし、いつのまにか自民党との”保保連合”志向に変わってしまった」といい、今回の新党結成で新進党の立党の精神に立ち返って、太陽、民主、フロムファイブなどとの野党結集を目指していく考えを示した。(高井)

[佐賀新聞過去記事から引用おわり]

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[お知らせ終わり]


◎北澤俊美参議院議員が2016年7月25日の任期満了をもって引退 3・11国難を軽減

2016年01月15日 18時44分43秒 | 素晴らしき新生党保存会

[写真]北澤俊美参議院議員=民主党ウェブサイトから。

 民主党の北澤俊美(北沢俊美)=きたざわ・としみ=参議院議員が、平成28年2016年7月25日(火)の任期満了をもって引退することが、15日分かりました。

 参議院長野県選挙区で連続当選4回。

 在職年数は24年1カ月となりますが、参議院は永年在職議員(25年)と同待遇とする見通し。また、内閣は今秋や来春にも、旭日大綬章を贈ると思われます。

 羽田孜大蔵大臣(当時)の後押しで、第16回参議院議員通常選挙で初当選。羽田孜内閣では、農林水産政務次官として、前任者のガット・ウルグアイランドをめぐる与党らしくない振る舞いの後始末に奔走。その後、15年の野党暮らしの中、政権交代ある二大政党政治をめざし、羽田孜最高顧問率いる民主党で副代表や参議院幹事長、参議院国会対策委員長を歴任。

 第1次与党期で、防衛大臣として入閣しました。

 在任中に東日本大震災および東京電力福島第一原子力発電所爆発事故が起きたものの、最年長閣僚および防衛大臣として、国難をできる限り軽減しました。

 
[画像]震災翌日の2011年3月12日朝の閣僚会議にのぞむ、北澤俊美防衛大臣(右手前から2人目)=政府インターネットTVからスクリーンショット。

 お疲れ様でした(*^_^*)

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[お知らせおわり] 


新生党結党メンバー、高橋一郎先生逝去

2015年09月28日 23時59分59秒 | 素晴らしき新生党保存会

 報道によりますと、筏に乗って船を出た「新生党」結党メンバーの1人、高橋一郎先生が、さる先週金曜日平成27年2015年9月25日(金)午前10時18分、心不全のため東京都内の病院でお亡くなりになっていたそうです。89歳。1995年の参院選の東京都選挙区では、選対本部長として、魚住裕一郎候補(現・公明党参議院会長)の100万票断然トップ当選を勝ち取りました。

 自民党復党後に、副大臣をつとめました。

 ご冥福をお祈りいたします。


高橋一郎・元自民党衆院議員死去


おめでとうございます 北澤俊美さんが母校・長野県立屋代高校の初代名誉会員に 元日大総長とともに

2015年08月16日 05時38分20秒 | 素晴らしき新生党保存会

[写真]北澤俊美さん、平成20年2008年、長野市内、筆者(宮崎信行)撮影。

 おめでとうございます。

 政権交代ある二大政党政治を、参議院から支え、実現した、北澤俊美(北沢俊美)参議院議員が、母校である、長野県立屋代(やしろ)高校同窓会の名誉会員となったことが分かりました。

 同校同窓会機関誌「鳩」が報じました。

 元学校法人日本大学総長(平成8年1996年から平成17年2005年まで)であり、陛下に執刀した天野医師を育てた医学博士、瀬在幸安さんも選ばれました。

 会則第8条は「通常会員の中で、わが国を代表して国際的にも活躍する者および本会の発展に著しい功績があった者を名誉会員として推挙することができる」として、2名が初めて名誉会員となりました。

 北澤さんの名誉会員推挙理由は「わが国の国防と平和に貢献され、東日本大震災の救助活動では、自衛隊史上最大の10万人動員を指示し、未曽有の災害の指揮をとった」としました。当選4回在職23年で、現在は民主党副代表として羽田孜先生の弟弟子で新生党では先輩にあたる、衆議院議員・岡田克也代表(ネクスト総理)を全身全霊をもって支えています。

 瀬在元日大総長は1回生、北澤さんは8回生。北澤さんの在校中の学校名は「屋代東高校」で、その後、単独のまま名称のみ「屋代高校」に改称しました。 

 なお、私の父(健在)は、5回生です。

 「風よ静かにかの岸へ」

 風よ静かに彼の岸へ
 こひしき人を吹き送れ
 海を越え行く旅人の
 群にぞ君はまじりたる

 八重の汐路をかき分けて
 行くは僅に舟一葉
 底白波の上ならば
 君安かれと祈るかな

 海とはいへどもひねもすは
 皐月の野辺と眺め見よ
 波とはいへど夜もすがら
 緑の草と思ひ寝よ

 もし海怒り狂ひなば
 われ是岸に仆れ伏し
 いといと深き歎息に
 其嵐をぞなだむべき

 楽しき初憶ふ毎
 哀しき終堪へがたし
 ふたゝびみたびめぐり逢ふ
 天つ恵みはありやなしや

 あゝ緑葉の嘆をぞ
 今は海にも思ひ知る
 破れて胸は紅き血の
 流るゝがごと滴るがごと

ーー 藤村(島崎藤村)「落梅集」より。

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羽田孜先生「安倍総理から日本を守ろう」岡田克也代表「どちらの道を選択するか」

2015年08月15日 08時53分21秒 | 素晴らしき新生党保存会

[写真]羽田孜さん(右)と岡田克也さん(左)=岡田かつや後援会発行の討議資料「岡田かつやの歩み」からスキャニング。

 平成27年2015年8月15日(土)、終戦から70年を迎えました。地球の裏側で武器を輸送し、弾薬を補給する、公明党と自民党による戦争立法「集団的自衛権」をめぐるギリギリの攻防が続いています。

 政権交代ある二大政党政治を日本に導入した歴史的偉人、羽田孜先生(現・民主党顧問)と岡田克也さん(現・ネクスト首相・民主党代表)がこれに先立ち談話を発信しました。

 羽田孜さんは「歴代首相に安倍首相への提言を要請するマスコミOBの会」の求めに応じて、談話を寄せ、この内容は、中国中央電視台(CCTV)の英語版や、上海日報の英語版などでも報じられました。この中で「海外派兵を認める集団的自衛権は絶対に認められない。安倍総理から日本を守ろう」と語りました。

 岡田克也さんは民主党代表として「民主党が目指す日本は、武力行使に抑制的である国です」として、将来的な集団的自衛権には含みを持たせながらも、「ぜひ私たちの危機感と覚悟を共有していただき、どちらの道を選択するのか、国民の皆さんにもお考えいただきたいと思います」としました。

 羽田談話、岡田談話とも、コピペでなく、私の指がキーボードをたたいて、ご紹介いたします。羽田談話は、朝日新聞デジタルから打ち出させていただきました。

 ●羽田孜さんのメッセージ

 「戦争をしない」これこそ、憲法の最高理念。平和憲法の精神が今日の平和と繁栄の基礎を築いた。特に、9条は唯一の被爆国である日本の「世界へ向けての平和宣言」であり、二度と過ちを繰り返さないという国際社会への約束でもある。海外派兵を認める集団的自衛権は、絶対に認められない。安倍総理から日本を守ろう。羽田孜」

 ●岡田克也さんの民主党代表としての談話

 70回目の終戦の日にあたって(談話) 民主党代表 岡田克也

 70回目の終戦の日にあたり、国内外すべての犠牲者に心から哀悼の念を捧げます。

 戦前の植民地支配と侵略、300万余の国民の命を奪った無謀な戦争、その重い教訓と深い反省に基づき、戦前の日本は、憲法の平和主義のもと、平和で豊かな民主主義国家をつくり上げました。同時に、経済協力、人道支援、PKOなど、国際社会の平和と安定にも大きく貢献してきました。戦後70年の日本の歩みは、国際的にも歴史的にも誇るべきものであったと考えます。

 しかし、安倍政権は、その戦後70年の日本の歩みを支えた「国のあり方」を大きく変えようとしています。

 その1つは、憲法解釈の変更による集団的自衛権の行使容認です。憲法の根幹である平和主義を大きく変容しかねない安全保障関連法案を、国民の大半が政府の説明が不十分と指摘するなかで推し進めていることに強い憤りを感じています。民主党は、国民の皆さんのご心配や怒りの声を背に、政府案を廃案に追い込むために全力を挙げる決意です。

 もう1つは、歴史認識、アジア諸国との和解の問題です。安倍総理の戦後70年談話には、日本が植民地支配、侵略を行ったという明確な認識は記されていません。さらに談話発表の記者会見において安倍総理は、日本の行為が侵略にあたるかは後世の歴史家が判断するものと述べています。これは、歴代内閣が積み重ねてきたアジア諸国との信頼関係を揺るがしかねないものです。まだ談話では、子や孫の世代に謝罪を続ける宿命を背負わせてはならないと記していますが、安倍総理は自身の言動こそが、これまでもアジア諸国に不信と不安をもたらしてきたことをあらためて反省すべきです。

 民主党は、植民地支配と侵略の事実を認め、痛切な反省と心からのおわびを表明した村山談話・小泉談話の歴史認識を評価し、継承しています。和解のために先人たちが重ねてこられた努力を無にすることなく、歴史の事実を直視し、自らの過ちを率直に省みる謙虚な姿勢で、アジアの国々との信頼関係に基づく外交を前に進めていくべきです。

 戦後70年を迎えたいま、日本は大きな岐路に直面しています。安倍自民党政権が目指しているのは、その憲法改正草案に明記しているように、集団的自衛権は制約なく行使し、普通に海外で武力行使できる国です。これに対し、民主党が目指す日本は、先の大戦の教訓と反省、憲法の平和主義の理念に基づき、武力行使に抑制的である国です。これからも日本は、憲法の根幹である平和主義を基軸とした外交・安全保障政策を展開するとともに、アジアの国々との和解を進めることが重要であると考えます。ぜひ私たちの危機感と覚悟を共有していただき、どちらの道を選択するのか、国民の皆さんにもお考えいただきたいと思います。

 以上。

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おめでとう前田武志先生 衆議院14年、参議院11年の25年で栄えある永年在職表彰

2015年05月15日 10時27分25秒 | 素晴らしき新生党保存会

[画像]永年在職表彰の祝辞を述べる、前田武志先生、参議院インターネット審議中継からスクリーンショット。

おめでとうございます!

 新生党結党メンバーで、民主党で企業団体委員会の礎を築いた、前田武志(まえだ・たけし)先生を、参議院(山崎正昭議長)は、平成27年2015年5月15日(土)、永年在職表彰(衆議院14年、参議院11年=25年)しました。

 
[画像]参議院議長の祝辞を聞く、前田武志先生。

 お祝いは、自民党参議院議員会長の溝手顕正さんが述べ、

 「昭和61年衆議院初当選後4回連続当選、その後、平成16年に参議院に転じ当選2回」「心から祝意を表します」と演説しました。

 前田先生は演説で、

 「昭和61年に初当選し、米ソ冷戦が崩壊する歴史の流れのなか、政治改革が大きな議題となり、そのうねりに身を投じました。平成5年6月、政治の師匠である田村元先生の諌めを押し切り、羽田孜先生と身を同じくしました」と語りました。

 「昭和12年、男親は戦争に行くのは当たり前だという時代に、都市の景観が変わる大阪大空襲を目の当たりにし、妻は神戸大空襲で身内から犠牲者がでるなか、生き延び、きょう栄えあるこの場に立たせていただきました」


[画像]前田武志先生の奥様(前列左)

 「私は南ベトナム政府大使館の一等書記官として、日本政府に法人救出のすべがないため、民間機での早めの脱出を呼びかけ、妻は4人の子供とともに先に脱出し、私は民間機の最後の便で、香港に脱出しました。国家という装置が崩壊していく歴史の転換点を見たことが、政治に身を投じることを決意しました」と語りました。

そして、国土交通大臣就任直後に、故郷・奈良県十津川村で、豪雨・土砂ダム災害が起きためぐりあわせをかたり、引き続き、参議院議員として全力をつくす構えを見せました。

 おめでとうございます。


金子恵美さんが福島1区で圏内に浮上 新生党・金子徳之介先生の志をつなぎ、小選挙区で初勝利へ!

2014年12月11日 15時56分49秒 | 素晴らしき新生党保存会

 金子恵美(かねこ・えみ)さんが、衆議院福島県第1選挙区で、当選圏内に浮上しました。

 安倍晋三首相(自民党総裁)が第一声を上げた、第47回衆院選の福島1区ですが、金子ファミリーとしては、衆議院小選挙区初当選となる、

 民主党公認の金子恵美候補が、当選圏内に浮上しました。

 金子さんは昨年の夏まで、福島全県区の参議院議員を1期6年務めながらも、いまだ若き49歳。

  金子さんのお父さんは、金子徳之介先生で、1990年2月、自民党経世会公認で衆議院初当選のいわゆる「岡田世代」。岡田さんよりも21歳年上ですので、ご健在だったら現在は82歳になっておられました。岡田さんとともに、1993年通常国会の後半戦で、自民党政府外議員の半数近くが賛同した、政治改革を実現する若手議員の会(渡瀬憲明・石破茂共同世話人)が署名に名を連ねました。そして、運命の1993年6月18日、内閣不信任案に賛成し、宮澤解散。新生党結党に参画し、羽田内閣で通産政務次官に。新進党結党に参画しました。しかし、健康上の理由で、初の衆議院小選挙区には出馬せず、政界を引退しました。政治改革を実現しながら、小選挙区制において、議席をとれなかった、「岡田克也になれなかった男たち」の一人。それが金子徳之介先生です。

 ただ、あの有名な1993年6月15日の、岡田克也さんらによる、自民党臨時総務会開催抗議運動で、岡田さんを助太刀している1期生のうち、他派閥ながら同じ選挙区の人(現在も民主党国会議員)が居たこともあり、新しい小選挙区割りをめぐる情勢は複雑なものになりました。

 その後、福島1区は民主党が議席を取れませんでした。玄葉光一郎県連代表や、渡辺恒三先生らの音頭取りで、金子恵美・保原町議が2007年参院選で擁立され、大勝利を収めました。ところが、参議院福島は4増4減の対象となり、2013年参院選は改選定数が1に減り、現職女性大臣に敗れました。なんとも金子ファミリーは選挙区割りに翻弄されてきたのです。

 金子恵美さんをお勧めします。東日本大震災後は必死の形相で働いておられ、与党ながら原子力賠償への政府の姿勢を批判し、自主避難者や、被災地の子供の肥満などを正面から国会で問いました。参議院議員6年間の前半分は、お父さんと同僚政務次官で、新生党、新進党結党でも政治行動を同じくした北澤俊美さんと議員会館を隣にして指導を受けていました。とてもていねいな物腰で、接する方です。アメリカの大学院でも勉強しています。机上の学問だけでなく、福祉の専門家です。

 金子ファミリーの衆議院小選挙区挑戦は今回が初めてですから、世襲議員ではありません。自民党の候補者は復興政務官としてがんばっておられ、体力もありますし、テクニックもありますが、国会での説明能力に低いです。

 衆議院小選挙区二大政党制では私が手にした、「政権を自分の手で選択する権利」をしっかりと行使するためには、「岡田克也になれなかった男たち」の志を継ぐ者をしっかりと持ち上げることしかありません。





[画像]金子徳之助さん(上)、岡田克也さん(下)、ともに、国会議員要覧平成3年2月版、国政情報センターから。

 ガンバレ!金子、負けるな!金子!


  
[画像]金子恵美さんのウェブサイトから、第47回衆院選の金子恵美さんの活動。 

 第47回衆議院議員総選挙の福島県第1区選挙区には、民主党公認の金子恵美さん、自民党公認の亀岡偉民さん、日本共産党公認の渡部保子さんの3人が立候補しています。