[写真]佐藤雄平・福島県知事、2014年2月9日(日)、郡山市内、筆者(宮崎信行)撮影。
報道によると、佐藤雄平さん(66歳)は2014年9月4日(木)午後、福島県庁で記者会見。「今年は福島の復興が形となって見えてきた。これからの復興は、新しいリーダーの下で実施していくべき」と語り、福島県知事選挙に出馬しないことを明らかにしました。
母親の弟である渡部恒三先生の公設秘書として、衆議院秘書会長をつとめ、1998年の参院選で福島県選挙区(改選定数2)で、参議院議員に初当選。民主党・新緑風会の副会長も務めました。その後、福島県知事に転じました。再選後に、東日本大災厄(東日本大震災)に遭難し、東京電力福島第一原子力発電所が爆発するという未曽有の災厄の陣頭指揮にあたりました。先週、石原伸晃環境大臣の訪問を受けて、福島県大熊町、双葉町への、放射能汚染土の中間貯蔵施設の建設を受け入れ、安倍晋三首相に対して、汚染土の県外での最終処分の方針を首相官邸内で確認しました。
上の写真のように、2月9日(日)の郡山市内での民主党定期大会に来賓あいさつで訪れた雄平さんを見て、知事選に立候補せず、今期限りで引退するだろうと感じて、旧新生党系民主党最高首脳筋にその感想を伝えておりました。
雄平さん、お疲れ様でした。
[写真]パシフィコ横浜を眺めながら語り合う若人。どんな苦境でも、「選択肢」のある人生を歩んでほしい。筆者撮影。
政府は2014年(平成26年)4月29日(火、昭和の日)、春の叙勲を発表しました。
【石井一先生に旭日大綬章】
旭日大綬章には石井一(いしい・はじめ)元国家公安委員長・自治大臣ら6名が選ばれました。
政権交代ある二大政党政治のために揺るぎなき信念。晴れの日も雨の日も、何度でも起き上がり続けてきた石井先生は、自民党木曜クラブ→自民党経世会→自民党改革フォーラム21→新生党→新進党(注・太陽党不参加で残留)→国民の声→民政党→民主党と歩んでおられます。
国会議員で党籍が完全一致するのは岡田克也さんただ一人となりました。このほか、岡田さんの秘書。そして、有権者として不肖・宮崎信行。かけがえのないピン先生。党籍完全一致者に関する「孤独」については昨夏の参院選での石井先生の落選後、私の中で、心の準備ができてきました。とはいえ、石井先生には末永くお元気でいらしていただけたらと思います。
改めてご紹介するまでもありませんが。
1977年、運輸政務次官としてインド・ダッカ事件で日本政府代表の人質をつとめました。福田首相が発した「人命は地球より重い」という意味不明の発言を腹に飲み込み、政治家らしく国のために行動しました。石井先生こそ、人命を賭す政治家のあり方を示しました。
1989年、初入閣。国土庁長官時代として、野党小会派3期生の菅直人さんから鋭い質問を受け、「こいつは鋭いな、将来伸びるだろうな」と感じたそうです。
1994年、憲政史上最高の第80代羽田内閣では自治大臣、国家公安委員長に。わずか2か月の在任中、当時はタブーであり誰も「横田めぐみさん」の名前を知らない時代に、京都府警察本部が学校法人京都朝鮮学園の土地取引の不透明さについて、在日本朝鮮人総連合会京都府本部関係27か所を一斉捜索。これに対して、「政治弾圧だ」との大抗議運動が起きると、1994年6月10日の閣議後記者会見で、「お互いにいささか感情的になっている」と現状を分析し、「謝罪することはない」と警察を擁護しながらも、「今後は慎重に捜査するように警察庁長官、警備局長、保安部長に厳重に注意した」と政治家らしい大岡裁きをみせました。なおこのとき、私は石井国家公安委員長の指揮ぶりを高く評価しましたが、政治学科の学生から「そういうことは言ってはいけない」といじめられた記憶があります。その方は、ずいぶんと政府から補助金をもらえているようですが、20年経って、私自身、自分が言動は正しいかったという自信を持っています。
1995年1月17日朝、野党新進党国会議員として、政府調査団より早く、海部俊樹団長(党首)を神戸市など被災地に迎えました。
1997年、産経新聞が「20年前に、新潟県で失跡した女子中学生(当時十三歳)が北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)に拉致(らち)されていた可能性が強まった」と1面トップで報道。その女子中学生は「横田めぐみさん」という方だとして、国民が初めて驚きました。
1998年4月、自ら志願して、菅直人初代代表の下、民主党初代国会対策委員長に就任しました。
2009年3月、西松事件が起きると、岡田克也さんと2人で会い、「小沢一郎政治塾の資金源はどこだろう」などと情報交換しました。
政権交代ある二大政党政治に、晴れた日も雨の日も揺るぎなき信念を貫き通した石井一先生。世の中には木を見て森を見ずの人間の方が多いので、外務大臣としてアメリカと渡り合うことはできませんでしたが、3000年、いや4000年後の日本国民にしっかりと評価される政治家は石井一先生。石井先生がいなければ、ひょっとすると、岡田克也はいなかったかもしれない。それくらいの功績です。
おめでとうございます!
【鹿野道彦さんに旭日大綬章】
農相を2回にわたってつとめ、国務大臣・総務庁長官もつとめた鹿野道彦さんが旭日大綬章に選ばれました。
平成23年3月の最高裁大法廷判決で「政権交代ある二大政党政治は必要だ」との判決を書いた須藤正彦・前最高裁判所裁判官(弁護士出身)も旭日大綬章に選ばれました。
おめでとうございます!
【一川保夫さんに旭日重光章】
一川保夫元防衛大臣、元民主党・新緑風会幹事長が旭日重光章を授章。
おめでとうございます!
【勝木健司さんに旭日重光章】
民社党、新進党、民主党の参議院議員をつとめた勝木健司(かつき・けんじ)さんが元参議院財政金融委員長として綬章しました。日本労働運動の発祥であり最大の産別であるゼンセン同盟(UAゼンセン)から民社党の拘束名簿式全国比例で当選。ただ、繊維産業ではなく、ダイエー労働組合(現・イオン労働組合)の出身で、流通業から参議院議員になるさきがけとなり、現在のゼンセン特有の幅の広さにつながっています。
おめでとうございます!
【田中慶秋さんに旭日重光章】
田中慶秋元法相に旭日重光章が決まりました。横浜・戸塚の中選挙区・小選挙区で抜群の日常活動量で、苦労しながら闘い続けました。学校法人東海大学と日本柔道界を代表する存在。出身の福島県双葉郡(ふたばぐん)浪江町(なみえまち)は2010年国勢調査で2万908名が住んでおり、故郷の英雄でもあるようです。
おめでとうございます!
【土肥隆一さんに旭日重光章】
土肥隆一さんに旭日重光章。「十字架委員長」と呼ばれた河上丈太郎・元最大野党党首の地盤を引き継いで1990年初当選(岡田世代)。連続7期当選。河上さんのキリスト教民主主義の伝統を引き継いできました。元衆議院外務委員長。
おめでとうございます!
【井上哲夫さんに旭日中綬章】
平成元年統一の「連合」(日本労働組合総連合会)の支援を受けて、参議院三重選挙区で当選。再選ならなかった後、四日市市長をつとめた井上哲夫さんに旭日中綬章が決まりました。
おめでとうございます!
【新生党結党35人衆で岡田世代の井奥貞雄さんに旭日中綬章】
新生党結党35人衆(不信任案に賛成した代議士)からは、石井先生のほかに、旭日中綬章として、1990年初当選(岡田世代)の1期生だった井奥貞雄さん(その後、自民党に復党)も選ばれました。岡田さんに次いで若い1期生だったので、井奥さんの行動は勇気ある行動だったと考えます。
【自民党国会議員団】
自民党からは旭日大綬章はいないという珍しい恰好になりました。
旭日重光章に稲葉大和元文科副大臣(稲葉修元法相子息)、砂田圭佑元財務大臣政務官(砂田重政元防衛庁長官の甥で、砂田重民元文相のいとこ)。
旭日中綬章に上述の井奥さんに加えて、岡部英男・元衆議院議員(故永岡洋治元衆議院議員の補選での後継者)、釜本邦茂元労働政務次官、東力元農林水産政務次官、福永信彦・元衆議院議員(福永健司元衆議院議長の子息)が国会議員団から選ばれました。
[画像]中島衛・元新生党衆議院議員、文部科学省の「歴代大臣」のホームページからお借りしました。
新生党結党(衆院側)35人衆の一人で、宮沢解散の朝に、予告通りに国務大臣を辞任した2人のうちの1人である、中島衛(なかじま・まもる)先生がきのう、2013年11月5日(火)朝、亡くなったそうです。享年77。旭日大綬章。新生党政調会長を経て、新進党結党に参画。最初の小選挙区では、先日亡くなったライバル・宮下創平さんに苦杯をなめ、落選しました。
もともと、1992年12月、我々改革フォーラム21(自民党羽田派)から2人が入閣。これは、入閣を拒むと、離党せざるをえないからで、中島衛さんと畑栄次郎さんが、派閥推薦リストで、宮澤喜一総理(自民党総裁、宏池会会長)に提出されました。しかし、結果は、中島衛・科学技術庁長官と、38歳の船田元・経済企画庁長官となりました。これは明らかな宮澤系の分断工作でしたが、「政治改革、小選挙区による政権交代ある政治がイチバン大事だ」との考えで、受け入れることになりました。中島大臣に関しては、秘書を務めた金丸信・自民党衆院議員の意向があったとされています。
その後、宮澤内閣が通常国会で、政治改革関連法案を廃案にしたため、事前予告通り、1993年6月18日、中島大臣と船田大臣は辞職。その夜、中島議員と船田議員を含む、新生党35議員は、宮澤内閣不信任案に賛成。6月23日新生党を結成しました。
細川・羽田内閣で、平成6年政治改革4法により、悲願の小選挙区制が導入。
しかし、このとき、小選挙区の厳しさというものがありました。新潟県では、星野行男さんが、いったんブランクがあった田中角栄ファミリーから、田中真紀子さんが出馬するため、小選挙区で激突するという悲劇となり、星野さんは落選。長野5区では、宮下創平さん(自民党清和会)vs新進党・中島衛さんが激突。宮下創平さんも先日亡くなりましたが、私は志の強さだけは中島さんが勝っていたとは思いましたが、総合的な評価の中で、宮下さんが衆議院の議席を続投し、厚生大臣や税制調査会の中堅となっています。
田中角栄さんの第一秘書である、佐藤昭さん(佐藤昭子さん)とも仲が良く、雀卓を囲んだ際に、「行ったり来たりはあってかもしれないが、趣味の麻雀だ」と大臣記者会見で発言し、記者から「趣味ならば、何が行ったり来たりしたのか?」と詰問され、閉口してしまう場面もありました。政治改革はクリーンな政治ならば、たしかに日本新党や新党さきがけのイメージが強かったかもしれませんが、私たち新生党が衆議院小選挙区をつくったことで、お金で勝てない厳しい選挙制度と、政権交代ある政治による派閥順送り廃絶を勝ち取ったということをどうかご理解いただきたい。そもそも、大臣やめて当夜に議員として不信任案に賛成することを事前通告通り遂行し、それをとがめられないという政治行動をとれる政治集団がいるでしょうか。21年経って、しっかり花開いたといえます。私が、絶対にその種を守っていこうと考えます。
なお、葬儀委員長には、金丸信事務所・中島衛事務所の師弟関係にある、吉田博美・参議院自民党幹事長代理が就任し、経世会・平成研究会という、もう一つの政治の背骨を継承していくことになったそうです。
中島先生は民主党長野県連顧問でした。同県連では、羽田孜第80代首相(前3区総支部長)が最高顧問。そして、旧中選挙区2区で、父の代から羽田ファミリーとライバルだった社会党・政権構想研究会の堀米征雄さんがもう一人の顧問をしています。同県連は、1区、3区で現職が小選挙区勝ち抜けており、2区、4区も前職が1次集約1次公認で総支部長に返り咲き。一方、5区だけは、民主党を離党した前職が生活の党も離党して政界引退して、総支部長不在となっています。
[写真]松尾官平・第22代参議院議長、参議院ホームページから。
新生党結党に参画した9人の参議院議員の1人で、第22代参議院副議長だった松尾官平(まつお・かんぺい)先生が、2013年7月30日亡くなりました。昭和2年(1926年)生まれの86歳。こころよりご冥福をお祈りいたします。
[写真]新生党結党記者会見に参加する、松尾官平参議院議員(後列左端)、1993年6月23日。
松尾さんが参議院副議長を務めた時期は、1995年夏から1998年夏の3年間。参議院第2会派で新進党と公明の統一会派「平成会」の出身。
日本にとって激動の時期で、阪神大震災・地下鉄サリン事件が起き、村山内閣の対応が批判されたのに、なぜか投票率44%という現在まで最も冷めた第17回参院選の直後に議員在職わずか15年ながら副議長に選出されました。この選挙で、新進党は比例得票第1党になっており、大いに躍進が期待されました。とはいえ、議席数は、「自民党・自由国民会議」が111議席、平成会が68議席だったので、今とあまり変わらない状況です。
その後、橋本内閣に衣替えし、住専国会や山一・拓銀ショックを経験。ついには、新進党が解党され、翌年夏、副議長とともに議員を引退しました。勲一等瑞宝章。
自民党時代に中曽根内閣で沖縄開発政務次官、労働政務次官。参議院では、環境特別委員長もつとめました。
松尾官平さんは、青森県出身。盛岡高等農林学校農科卒、中央大学経済学部。家業の造り酒屋を従事し、県会議員を5期。このころの自民党県議出身の国会議員に造り酒屋が多かった理由は、戦前は酒税が国庫の最大の歳入だった時期があることと、現在でも酒税が毎月末申告、毎月納税ということで国政と身近な関係にあるからでしょう。松尾さんは、三戸町の教育委員、商工会長を経て、青森県の商工会連合会会長、養蚕農業協同組合連合会会長をつとめました。さらに、青森県出稼者団体連合会の会長をつとめておられ、「青森の父」のような存在だったのではないでしょうか。実際に、現役時代の松尾先生のリーフレットには、祖父、子、孫の三代の写真が載っていて、伝統的家族観にもとづく、頼れるイメージを感じました。
参議院副議長室のとなりに、議長応接室があります。国会中継の代表質問で、参・本会議場の向かって左側から総理ら閣僚が入ってくるシーンが年1、2回流れます。あれは議長応接室に控えており、国会内の大臣室とは、イチバン遠いところにあります。このため、総理ら全閣僚が議長応接室に入る代表質問のさいは、普段とは違う雑踏が生まれます。一方、副議長は通常は、一般の議員席に座りますから、副議長室から出てきて、テレビで見るときの手前側の出口から議場に入場します。
ある日の朝、橋本首相の番記者として、議長応接室に入った首相の近くにいると、参議院の衛視さんが大声で「そこ開けてください!」と私を怒鳴りながら歩いてきました。国会参観など参議院の衛視さんはたいていやさしいのですが、雑踏には衆と比べて慣れていない面もあり、思わず声を張り上げたようです。そして、その衛視さんはどうやら副議長を先導する役で少し緊張していたようで、曲がり角の向こうからあらわれた松尾副議長は、クルマを運転するまねをしながら、「そこにいると、カーブが曲がりにくいんだよ」とやさしく声をかけてくださいました。これは私をたしなめながらも、大声を出した衛視さんもたしなめたのでしょう。「造り酒屋、県出稼者団体連合会会長、大家族アピール、そしてやさしく叱る」。こういった先生は、今は全然いなくなってしまいました。古き良き自民党の薫りを受けつぐ新生党結党メンバーの松尾先生。これが私の「マイ・ファースト・青森」。その後青森出身の親戚が複数増えましたが、青森に悪い印象ないですね。リンゴの花を聞きながら、新幹線で青森へ!と思ったら大震災になってしまいました。
新生党結党参院議員9人のうち今も議席を有するのは北澤俊美さんただ一人になりました。衆院メンバーの前田武志さんも現職参院議員ですが、石井一先生は7月21日、落選してしまいました。
議会制度百年史の参議院議員要覧409ページには、松尾先生の著書として3冊載っています。
『県議6年』ーーこれは合計5期つとめた県議の2期目に書いた物でしょう。6年というのは、同じ造り酒屋出身の竹下先生が県議6年で国政に転出したことも念頭にあったのかもしれません。
『ヨーロッパフォトツアー』ーー洋行が少なかった時期に、青森の父が(おそらく)お得意の写真を交えて、地元の人にも欧州の薫りをとどけた著書だろうと思います。
そしてもう一冊。「セニョール官平南米を行く」ーーなんだこれ?「セニョール・カンペー」ということで漫才師のようですが、雪深い青森で尊敬される政治家は、底抜けの明るさも条件なんでしょう。今の知事さんをみてもそう思います。
偶然、昨日付のエントリーに松尾先生の名前を書いていましたが、そのときにはすでにお亡くなりになっていたことになります。
ご子息(喪主)のツイッター・フェイスブックによると、松尾先生は都内で亡くなりましたが、首相官邸から国会議事堂を通り、既に青森にお帰りになっているそうです。
セニョールカンペイ、アディオス(さようなら)。
【追記 2013年8月1日(木)午後8時半】
国立国会図書館で「セニヨール官平南米を行く」を読んできました。青森県議時代の、アメリカと南米大陸視察旅行の報告で、絵と文が上品にまとまったパンフレット風でした。その最後の一文に心打たれるものがありましたので、引用して追悼させていただきます。
クスコからマチュピチュへの列車の中でメキシコから来た女子大生のパーティーと知り合った。
陽気な彼女らは盛んに合唱し、我々にも歌えと言う。
津軽海峡冬景色の独唱でこたえたが、アンデスの山中で歌った気分は乙なものだった。
【追記おわり】
@kokkai_live 遅くなりましたがBlog記事を大変有難くそして懐かしく読ませて頂きました。先般忌み明けの法事も済みまして、少しばかり安堵しております。今後ともご活躍を楽しみにしております。ありがとうございました。松尾和彦
— 松尾和彦 (@matuhiko1963) 2013, 9月 28
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ありがとうございます。
6月23日、我々新生党は結党20周年を迎えました。
新生党を代表して、天皇陛下から羽田孜・党首(第80代首相)が桐花大綬章、藤井裕久元大蔵大臣が旭日大綬章をいただきました。私たち新生党結党に参画したすべての者にとって、「衆議院小選挙区制にもとづく政権交代ある二大政党政治」という所期の目的を具現化したことを一人一人のたった一度の人生の勲章として、一人一人の残りの人生の誇りと自信にしていく所存です。佐藤守良先生も新進党時代に勲一等旭日大綬章をいただいています。
新生党結党時の衆議院議員(正確には解散後なので前衆議院議員)と参議院議員は次の面々。
衆議院議員(五十音順)
愛野興一郎先生、愛知和男先生、粟屋敏信先生、井奥貞雄先生、石井一先生、井上喜一先生、魚住汎英先生、岡島正之先生、岡田克也先生、奥田敬和先生、小沢一郎先生、小沢辰男先生、金子徳之介先生、北村直人先生、木村守男先生、熊谷弘先生、古賀正浩先生、佐藤守良先生、左藤恵先生、杉山憲夫先生、高橋一郎先生、中島衛先生、中西啓介先生、仲村正治先生、二階俊博先生、畑英次郎先生、羽田孜先生、藤井裕久先生、船田元先生、星野行男先生、前田武志先生、増田敏男先生、松浦昭先生、松田岩夫先生、村井仁先生、渡部恒三先生。
参議院議員(五十音順)
泉信也先生、河本英典先生、北澤俊美先生、釘宮磐先生、田村秀昭先生、永野茂門先生、平野貞夫先生、松尾官平先生。
元々は自民党佐藤派(周山会)と自民党田中派(木曜クラブ)が合併したのが、自民党竹下派(経世会)だったので、田中角栄先生の持論である小選挙区制による二大政党政治は、私たち木曜クラブ系が実現することになりました。1992年に、経世会分裂で、改革フォーラム21(自民党羽田派)を結成。このときの結成資金は、経世会の金庫にあった33億円で、佐藤系の小渕恵三事務総長が議員数割りできちんと割ったので、その恩が仇となり、小沢一郎氏を自自連立、自自公連立による自民党援助に走らせ、政権交代ある政治を遅らせることになりました。
様々な別れがありました。
民主党に結集した勢力も、私たち国民の声系のほか、太陽党系、自由党系と3系列になってしまいました。
私たち国民の声系は、参議院で石井一先生、衆議院で岡田克也先生のたった2人だけになってしまいました。
しかし、この夏の第23回参議院議員通常選挙で、石井ピンさんに名前の通り、全国1位で当選してもらう。そうやって次の20年につなげていきましょう。
いずれにしろ、20年経って、私たちの「「小選挙区制度による政権交代ある二大政党政治」は国民の間に浸透し、その正しさを歴史が証明しました。すべての結党メンバーは胸を張りましょう。
ありがとうございます。
私は、日本人として生まれてきて、まだ39歳ですが、とりあえず、子々孫々に誇れるたった一度の人生の存在意義勲章をつくれたと自負しております。その源である、新生党にかかわったすべての皆様に感謝します。新生党結党の志があれば、どんな難事でも必ず乗り越えられます。
「国会傍聴取材支援基金」を設けております。日本唯一の国会傍聴記にご協力ください。
「国会傍聴取材支援基金」の創設とご協力のお願い
ご協力ください。よろしくお願いします。
[お知らせ1 おわり]
[お知らせ2 はじめ]
会員制ブログで今後の政治日程とポイントを解説しています。
今後の政治日程 by 下町の太陽
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[お知らせ2 おわり]
[写真]栄誉礼を受ける北澤俊美防衛大臣、2011年1月18日、海上自衛隊大村基地、防衛省・自衛隊ホームページから。
民主党長野県連代表を兼ねる防衛大臣の北澤俊美さんは2011年8月20日、飯田市での県連大会で、代表選挙に関して、「今名前の挙がっている人たちが、本当に総理大臣の重責を担うことができるのか、いささかの不安がある。第3の候補が、お互いの話し合いの中で擁立されてくるのではないかと思う」と述べ、候補予定者たちの“宰相の器”に疑問符を付け、実力者の話し合いによる第3の候補に期待を示しました。
[写真]東京電力福島第一原子力発電所の爆発直後の3月14日、幕僚を励ます北澤俊美防衛大臣、時事通信配信の代表撮影画像。
[写真]国連事務総長パン・ギムンさんの訪問を受けた北澤俊美防衛大臣、2011年8月、防衛省・自衛隊ホームページから。
[写真]38度線の板門店で北朝鮮兵士(窓の向こう側)にビデオを撮られ監視される北澤俊美防衛大臣、右は韓国軍将校。朝日新聞さんより。
[写真]外国賓客とともに儀仗を受ける北澤俊美防衛大臣、2011年1月、東京・市ヶ谷、防衛省・自衛隊ホームページ。
北澤氏“候補者絞り込みを” NHKニュース
北澤防衛大臣は長野県飯田市で講演し、民主党の代表選挙について、党内で一定の支持がある候補者どうしで争うべきで、立候補を目指している議員が、話し合いなどを通じて候補者を絞り込むべきだという考えを示しました。
この中で北澤防衛大臣は、民主党の代表選挙について「勢力を分散して小さな争いを運動会のようにやってもまったく意味がない。お互いに話し合って、どういう人を立候補させようかといったことがあってしかるべきで、候補者を極力絞って論戦ができるような代表選挙になってほしい」と述べ、話し合いなどを通じて候補者を絞り込むべきだという考えを示しました。一方北澤大臣は、「今名前の挙がっている人たちが、本当に総理大臣の重責を担うことができるのか、いささかの不安がある。第三の候補が、お互いの話し合いの中で擁立されてくるのではないかと思う」と述べました。
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帰宅してメールボックスをチェックしていたら、民主党参議院議員(全国比例=奈良県連所属)の前田武志さんから「産経新聞の記事について」というメルマガが届いていました。で、このメルマガは是非、民主党の政治家のみなさんにみならっていただきたいと僕は思い、全文転載させていただきたく思いました。
前田武志さんは宮澤解散の1993年6月18日で宮澤内閣不信任案に賛成して自民党を離党した「新生党35人衆」の一人です。ただし、1人だけ不信任案には棄権した人がいますが。参院を含めると新生党結党メンバーは44人でした。私が心から尊敬する「自民党という巨大な船からイカダに乗って船を出たシンドバッド」の一人です。まあ、35人全員を尊敬しているわけではありませんが。
先日、その一人である、藤井裕久さんの講演を聴きました。社会保障と税制の改革、ひらたくいえば、広く薄く、もっとひらたくいえば消費税アップということですが、まずは政治家が歳費削減と定数減で身を切らなければ、絶対にできないと言っていました。今は参・予算委員長になっている前田さんのこのすばやい謝罪と経過説明には、民主党に欠けている要素が詰まっており、閣僚も含めて、見習っていただきたいと思います。民信なくんば立たず(信用・信頼がなければ、政治家は何をやってもダメだ)です。
私は第22回参院選の全国比例では、私なりの考えで全国比例で一人だけ前田候補をご紹介しました。同じ改選組で“35人衆”の田名部匡省・元農相が引退することもあり、前田さんしかいない、という気がありました。ただ実はもう一人、他にご縁のある新人も検討していました。それと同じネットワークの仲間である現職参議院議員と国会議事堂前の道でバッタリ会った際にたずねたら、「とりあえず、一度行って選挙のやり方だけ教えといたよ」、「選挙期間中は((当該候補者とは別の)自分の支援組織を中心に回るよ」と言っていて、あれ、これはあまり良い候補者(タマ)じゃないのかな、と。親友の記者から聞いた、その新人が長年携わった事業に関する周辺情報などを総合して、このブログ上では紹介しませんでした。選挙後、その新人は公職選挙法違反で逮捕されたようです、起訴されたかどうかまえは知りません。このように、私がジャーナリストと名乗りながら、「参考情報」「オススメ」を書くことについて、ツイッターで批判的な書き込みは散見しております。「自称ジャーナリスト」とか「ジャマ(邪魔)ナリスト」などと揶揄されています。が、自分は志と、そしてもちろん法律運用の範囲内で、自分なりのささやかな「ミシュランガイド」をご提供していこうという試みをこのブログでやっています。このブログは無報酬・交通費持ち出しでやっていますから、逆に言うと、そういうことを書かないと、モチベーションが続かないという面も否めません。
さて。前田武志さんは、第22回参院選で、「民主党公認」「現職」で出たすべての候補者の中でただ一人、前回よりも票数を増やしたんだそうです。やはり奈良県連および支援団体(天理教)の力は強大でした。
政権交代ある政治の完成をめざして、こういったベテランの知恵を見習ってほしいと思います。
[まず、当該産経新聞の記事から引用はじめ]
民主の前田議員5支援団体が無届け 政治資金規正法に抵触か - MSN産経ニュース
民主党の前田武志参院議員(比例代表)を支援する5つの政治団体が「国会議員関係政治団体」の要件を満たしているにもかかわらず、届け出をしていなかったことが20日、産経新聞の調べでわかった。政治資金規正法は平成19年12月の改正で、総務省か都道府県の選挙管理委員会への届け出を義務づけており、同法に抵触する可能性がある。
前田氏の地元事務所や政治資金収支報告書によると、問題の政治団体は、前田氏が代表の「民主党参議院比例区第48総支部」(奈良県橿原市)と所在地が同一の「奈良武交会」のほか、「五條市前田武志後援会」(同県五條市)や「斑鳩町前田武志後援会」(同県斑鳩町)など。
5団体は、いずれも設立時に前田氏の被推薦書が出され、寄付金控除の適用も受けており、20年10月1日の段階で国会議員関係政治団体の要件を満たしていた。県選管は同年9月、事前に前田氏側へ届け出を促す文書を送付していたが、現在も届け出は行われていない。
国会議員関係政治団体の要件を満たしていた場合、新たに同関係団体として届け出るか、寄付金控除の適用を外す必要があった。また5団体は現在、ほとんど活動していないが、解散の手続きも行われていない。
前田事務所の担当者は「正規の事務処理を忘れていた。速やかに修正を行いたい」と話している。前田氏は衆院議員を4期務めた後、参院に転出して2期目。10月から予算委員長。
[引用おわり]
[次に前田武志参院議員のメールマガジンから全文引用はじめ]
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前田武志のメッセージ
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送信日 : 2010/12/21 (Tue)
題 名 : 産経新聞の記事について
本日、産経新聞において支援団体の届出に関する記事 が掲載されました。
本件について、下記の通りご報告申し上げます。
【新聞紙面にて指摘のあった5団体】
奈良武交会
五條市前田武志後援会
斑鳩町前田武志後援会
十津川村前田会
桜井市前田会
【問題が発生した経緯】
平成19年に政治資金規正法が改正されました。
この改正に伴い、平成20年12月31日までに奈良県選挙管理委員会(以下、県選管)へ、上記5団体の変更届け、もしくは解散手続きが必要となりました。
平成20年9月には、上記に関する事前通告を県選管より受けましたが、その後、事務処理を失念し、今回の指摘を受けることとなりました。
【今後の対応について】
このようなご指摘を受けたことは前田武志事務所としても大変不名誉なことであり、上記5団体についての変更届けの提出、もしくは解散手続きの実施について、速やかに手続きを行いたいと思います。
また、今後このような問題が生じぬよう事務体制を見直して参ります。
なお、前田武志よりマスコミ各社に以下の通り、コメントを発表させていただきました。
* * *
今回の問題について経緯等を確認したところ、5団体の活動休止に伴う事務処理上のミスが原因であることが分かりました。
ご指摘のあった5団体は私の支援者が自ら主体となって立上げ、誠心誠意お支えくださった皆さまの集まりだけに、後援会の皆さまにご迷惑とご心配をお掛け致しましたことについて、心よりお詫び申し上げます。
併せて、国民の負託を受ける国会議員として、このようなことが二度と起きないよう努めて参ります。
* * *
参議院議員である前田武志を最も近くで支えなければならない秘書、及び事務所が前田武志の足を引っ張ることとなってしまったことに心より反省し、事務体制を改めて見直してまいりたいと思います。
この度はご心配をおかけし、大変申し訳ございませんでした。
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まえたけ どっと こむ
http://www.maetake.com
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[前田武志参院議員のメールマガジンからの全文引用おわり]
日本放送協会(NHK)は、午後9時44分、長野選挙区(定数2)の2人目の当選者として、防衛大臣の北澤俊美(北沢としみ)さんに当確を出しました。
前回の統一地方選で、北沢長野県連代表(当時)が、リクルートし、かつて自分が選挙区とした長野県議会・長野市選挙区で手取り足取り当選させた高島陽子氏が、小沢一郎幹事長(当時)の誘いにのって、北沢さんを裏切り、出馬しましたが、落選が確実となりました。
「一度裏切る人間は二度裏切る」(岡田外相)と言われますが、飼い犬に噛まれかけましたが、羽田孜・北澤俊美コンビの「政権交代ある二大政党デモクラシー」を一貫して支え続けた長野県民の「良識」が「剛腕」に勝った構図です。
北沢さんは1992年の初当選以来3回連続トップ当選でしたが、今回は2位になる可能性が出てきています。
とはいえ、ホッとしました。苦戦の理由については、開票終了後によく精査します。繰り返しますが、「一度裏切る人間は二度裏切る」。
任期は2016年(平成28年)7月まで。78歳までですから、防衛大臣続投に加えて、民主党参議院議員会長、あるいは、参議院議長の可能性が出てきました。
長野県民のみなさま、ありがとうございました。
おめでとうございます。
【参院外交防衛委員会 2010年5月13日】
国会審議では、「お国自慢」は控えめな方がいいのですが、北澤俊美(北沢としみ)防衛大臣が一風変わったお国自慢をしました。
北澤防衛相は、7月11日ないしは25日投票が予想される、第22回参院選に長野選挙区に民主党公認で立候補する予定です。
テレビでおなじみ自民党の山本一太さんが「5月8日、大臣が長野市におられるときに、そこの会合でこう言っています」として記事を紹介しました。
これは、沖縄に偏っているヘリコプターの訓練を日本全国(の自衛隊基地)に散らし、沖縄のみなさんに『(負担が)半分減った、4割方減った』と実感してもらえる案を防衛省としてつくっています、という趣旨の発言です。
一太さんは、これを「普天間移設断念」という言質にしたかったのでしょう。真意を問い質しました。
これについて、防衛相は「これは私の昔からの後援会のみなさんがたの農村部での会合での発言です。で、長野県っていうのはちょっと変わってましてね」と異例の答弁。大臣が自らの選挙区を「ちょっと変わっている」と発言し、委員会室がざわめきます。
長野県はいったい、何が変わっているのでしょうか?
「長野県というのは、私が概括的なことを申し上げますとね、後に一杯会(飲み会)が控えていても、かなり多くの質問が出るんですね。で、『もっと分かりやすく話してくれないか』と。というような(雰囲気の)中で、『沖縄の負担が軽減されるということの意味はどういうことなのか?』と問われたんで、それはまず第一義的に、普天間の返還である。それに加えて、沖縄に(日本の米軍)基地の74%が偏在している、ということからすれば、総理の思いは、さらにこれを軽減して、全国で分かち合いたい。沖縄に、外来機がやって来て訓練しているということは、全国の国民に認識されていない。そのなかで、仮に言えば、沖縄の中で『飛行機の数が30%減ったな、いや40%減ったんじゃないか』という軽減策は国民に分かりやすい。そういう一つの事例として、申し上げたところです」と答弁しました。
つまり、国政を預かる議員として、地元有権者にかみ砕いて説明したのであり、それを基にした新聞記事を使って、質問しないでほしい、との趣旨の答弁です。
山本一太さんは「防衛大臣、何言ってんだかちょっと分かりません。お話をされたところが農村部だろうと、都市部だろうと(関係ありません)。私の後援会でもいっぱい質問が出ます」と言い返しました。
民主党王国・長野県と、その隣県である自民党王国・群馬県。ちょっと不毛なお国合戦です。
これに対して、北沢防衛相は、「田舎だの、都市だのと言葉尻をとらえておっしゃいましたけど、私が言った場所がそういうところだと分かりやすく言っただけで、そういうことで、まるで私が都会と差別しているような話をしないでください。そこで、総理が『全国民で分かち合いたい』と言っているわけですから、防衛省としていろいろな案を作るのは当たり前です」と述べました。
ちなみに新生党結党メンバーの1割と、新党さきがけ結党メンバーの2割は長野県選出議員なんですよ。長野県が、政権交代ある二大政党制のリード役になったことは間違いありません。
りんごと二大政党・長野県。
仮に余命が1日なら、きょう、りんごの木を植えたい。子孫のために。そういう考え方が農業県であり、山国である長野県には根付いています。そのため、議論好きで政治意識が高いとされています。
ちなみに、私の祖母は政談演説会では常に最前列に座ることで有名人だったそうです。このエピソードは家族も知らなかったそうですが、地元選出で閣僚を務める政治家が証言しているそうです。大正生まれの祖母は「自民党の小坂憲次さんの政策・実績ではなく、衆議院の議席を小坂家が世襲しているということ自体が問題であり、小坂家の世襲を断ち切るべきだ」という考え方を持っており、それは慧眼だったと思います。その夢が実現したのは、2009年で、他界してから7年後と遅れてしまいました。
この5月8日の発言の後に、東京新聞投書欄に「沖縄の基地が全国ベースになってきた」という言葉遊びが載りました。
基地(ベース)というハコ物ベースで議論するのでなく、部隊や人数の運用ベースで議論する。さらに言えば、日米同盟のあり方、専守防衛のあり方にまで議論を格上げする。いわば「北澤イニシアチブ」と呼んでもいい、ひとつの議論の材料だと思います。政府としての具体案はなかなかできてきませんが、沖縄の心の痛みを全国ベースで分かち合おうとする世論が、ようやく、やっとですが、出来つつあります。
2009年9月16日。
政権交代完成。
第1次鳩山内閣発足。
友人がどんどん国会議員初登院。
そして、僕にとって、もう一つ、記念すべき日となりました。政治少年から政治青年と歩んだこの17年。ついに「初当選を手伝った議員が入閣」です。
北沢俊美、参院長野全県区選出、当選3回、勤続17年。第45回衆院選では、長野県連代表としては、長野県全5区で全勝の上、自民党を全員完全落選させるパーフェクトを達成。「民主党王国・長野」の復活です。10年の歴史を超えた民主党でも、“王国の復活”というのはこれが初めてでしょうか。
満を持して、当然の入閣です。
http://www.youtube.com/watch?v=16-_BlsKX5k
鳩山総理の秘書官から「総理からのご指示でお電話しました。官邸にお出かけください」との電話を受け取る瞬間を見ました。モーニングを携えた公設秘書を従えながら、参院議員会館から官邸に向かう北沢さん、「よう宮崎君も来たか」と言うので、「1992年の初当選から17年、うれしいです。おめでとうございます」と言うと、いつも通りの笑顔で応じてくれました。
これに先立ち、地元TV各社などの取材に対して、首班指名について、「これまで自分の書いた名前が首相に直結したことがなかった」として、与党になったことを実感したことを披露。
その上で、民主党王国・長野のみなさんに
「自分の場合は、自民党を離党してから足かけ17年になる。
初めて自分の書いた名前が首班指名で首相になった。
長野県民のみなさんには、二大政党制、政権交代可能な政治をやろうと、羽田先生と手を組んで訴えてきたことに、大きな力で支えてくださったことに感謝すると同時に、
全国のさきがけとして、先駆的にバックアップしてくださったことに感謝したい」と述べました。
私も東京生まれですが、長野の百姓の血と長野の米と野菜で体ができています。私自身も、この17年間、一日の揺るぎもなく政権交代・二大政党制をめざしてきた者にとっては万感の思いがあり、帰りの地下鉄で感極まるものがありました。
[写真]「鳩山首班」に投票する羽田孜さん(左から2人目)、右端は小沢一郎幹事長、羽田さんの左隣は中井洽さん、議長席は横路孝弘・衆議院議長=衆議院TVからキャプチャー。
外交と防衛は密接不可分。政権交代後のブログの方向性に思いあぐねているのですが、岡田外相と北沢防衛相がコンビを組むということで、一つの選択肢が出てきました。やっぱり俺ツイてる!!!
◇
北沢俊美(北澤俊美)さんは、1992年の第16回参院選で長野全県区からは初当選し、連続当選3回。1994年の羽田内閣で農水政務次官、第2次民主党の初代執行部で参院国対委員長、「民主党・新緑風会」幹事長を務めました。ねじれ国会では参院外交防衛委員長として、守屋・秋山喚問、インド洋給油特措法の一時失効を実現しました。当時の自民党政府からどれだけ罵られても、ぶれないで、しっかり「つるす」。小沢一郎代表(当時)と直接連絡をとりながらやるのですが、この採決しない、「つるす」というのは、大変な精神力・ねばりだと感じました。このとき委員だった参院一年生が16日、「何でもやります」と名刺を秘書さんに渡していました。早くも副大臣・政務官のアピールのようです。
◇
1992年夏、第16回参院選。政治学科の初めての学期を終えた私はまだ新幹線開通する前の「旧・長野駅」に降り立ちました。
一週間、選挙の実地勉強をしようということで、初当選をめざす前長野県議の北沢俊美候補の選挙事務所で、労務員としていろいろな勉強をしました。
まずはお茶くみ。それから、応援弁士に渡す上野行のキップを買いに長野駅へおつかい。新聞各紙の買い出しにも行きました。さらに一人で選挙ハガキの枚数をたぶん数千枚(?)数えました。
少し慣れたら、街宣車に乗って、ウグイス・ボーイ(カラス)をやらせてもらいました。このときに同乗したのは、若林正俊前衆院議員(当時の肩書き、以下同)、小坂憲次、田中秀征、井出正一各衆院議員、そして羽田孜蔵相。みんな一つの党だったんですよ。とくに井出議員と、長野県南部の川上村のレタス畑を遊説した時の爽快さは一生忘れ得ぬ光景。
さらに北沢候補者付として、今も政策秘書を務める松原さんと3人で高速道路を走って、松本市内へ。演説会場の手前で、応援弁士の村井仁衆院議員と合流し、4人でカツ丼をいただきました。北沢候補が僕を紹介してくれると、東大卒・建設官僚出身の村井議員から「早稲田からもドンドンお役人になってくださいね」と温かいお言葉(^^;)をいただきましたが、現時点で国会議員である人が「お役人になってください」とおっしゃったのは違和感があります。
さて、経世会→改革フォーラム21(羽田派)→新生党とめまぐるしく政治は動き、羽田内閣では農林水産政務次官になりました。
私と石川知裕君(北海道11区)も、全国学生交流会(自民党学生部)→新生党学生塾(学生部)結成→新進党学生部合流とめまぐるしく、政治改革・政権交代・二大政党の志に向かって歩みました。
しかし、「羽田孜vs小沢一郎」という私にとっては、体を引き裂かれるような党首選の後、羽田孜さん、北沢俊美さんは「太陽党」を結成。新聞記者になった私は新進党を自然に離党。小沢先生の書生・秘書になった石川君はまあ自由党だったんでしょうが、公募新人として政治活動をスタートしたのは、「民主党北海道11総支部長」です、念のため。
太陽党は国民の声(細川護煕・岡田克也・鹿野道彦)と合併したうえで、1998年4月、第2次民主党に合流しました。そして、みんな同じ党に戻りました。
【北沢新防衛相の人となり】
さて、防衛省の副大臣、大臣政務官、官僚、幕僚のみなさまにアドバイス。気さくなアイディアマン、北沢俊美の発言の8割は思い付きだと言われています。いろいろしゃべってブレーンストーミングするタイプの人です。だから、省議や打ち合わせでの大臣の発言や指示は、再確認してから、政策立案過程に移すことをオススメします。
5月の党常任幹事会で、机の上にある資料を見た北沢副代表はさっそくアイディアがひらめき、発言しました。代表選に関して、「衆院側で現職115人にしか投票を認めないということになると、全国民の(小選挙区換算で)300分の115の意見しか反映することができない。元職・新人の総支部長も投票できるようにしたらいい」と発言。ところが、この思い付きに、すでに老獪に策を仕込んでいた小沢代表(当時)は「北沢俊美先生のご発言とは思えない」と怒って、議論は流されてしまいました。私は良いアイディアだと思うのですが、代表のご機嫌が悪かったようです。
衆院側の30歳代の女性秘書から「宮崎さん、あんな怖いセンセイとよく話せますね」と言われるのですが、それはベテランの党副代表という肩書きがそうさせているのでしょう。ちなみに北沢さんの公設秘書3人の布陣は10年間変わっていませんから、けっして怖いということはありません。思い付きと重要発言の選別に慣れれば、大丈夫でしょう。
ところで、北沢さんの肩書きの中に「学校法人理事長」というのがあります。これは「四徳学園」といって、長野市の今井といって、オリンピック選挙村跡地のニュータウンに、創業した理学療法士の養成学校の理事長をやっています。その流れで、養成学校を卒業した理学療法士の進路という意味合いもあり、近隣に福祉施設も経営しています。かなり大きな借金をかかえているようですが、実は参院議員よりもこっちの方が楽しいようで、今まではけっこう理事長室にも行っていたそうです。自民党の大臣規範は兼職が厳しかったのですが、民主党政権ではどうなるのでしょうか? 農業が趣味で、長野の自宅で苗の手入れをするだけでなく、きれいな花をカメラで撮影するという強面らしからぬ優しさ、感性も持ち合わせています。
前田道路社員から、父急逝のため長野県議を世襲しましたが、政党は父親時代の社会党→民社党から自民党に移籍しました。そして、1992年、参院議員。羽田内閣・農水政務次官、民政党参院議員会長、第2次民主党初代参院国対委員長、民主党・新緑風会幹事長、民主党副代表、参院外交防衛委員長を経て、現在は民主党副代表・長野県連代表。
さて、母親と同い年の政治家に言うのもなんですが、この人、記者会見・国会答弁で失言する可能性があります。おそらく総理、官房長官からも釘を刺されていると思います。できれば言葉尻をとらえるような質問や追及をしないよう、記者や野党のみなさんにお願いしたいと思います。
小沢一郎幹事長は、第22回参院選長野選挙区(定数2)に民主党公認を初めて2人立てる考えがあるのかも知れません。仮にそうなっても、来夏の参院選のテーマは「鳩山政権の実績の審判」に移っていることは間違いないでしょう。
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北澤俊美さんが「政界のブログ王」というビックリ大誤報2009年06月06日