田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

市民カレッジ「さっぽろ『食』の事はじめ」 №2

2010-02-12 21:09:43 | 札幌学 & ほっかいどう学
「平岸リンゴ」今むかし

 明治の一時期、北海道がリンゴの生産額全国一だった時期があるという。その主産地が札幌の平岸地区だったと・・・。現在の平岸の様子からは想像もつかない。まさに「平岸リンゴ」今昔物語である

        
        ※ 直接講義とは関わりないが、講師の斎藤氏からプレゼン
         トされた「陸奥」という品種である。これは無袋(袋を被せず)
         で育てたので黄色い色をしているそうです。

 市民カレッジ今シリーズ2講目は2月9日(火)に行われた。
 講師は、弘前大学名誉教授で長い間リンゴの研究を続けてこられた斎藤健一氏が務められた。
 斎藤氏は実家が平岸でリンゴ農家を営まれていたという希有なリンゴ研究家である。

 平岸のリンゴはやはり西欧から来道した開拓史によって明治8~10年頃に苗木を導入したことが始まりである。
 苗木を配付されてもリンゴの苗木など初めてのため半信半疑であったという。
 ところが定植後数年経ち、美味しい味・食感・芳香などに驚き、本格的にリンゴ栽培に着手するようになった。
 特に平岸地区は大消費地札幌に隣接していたことで徐々にリンゴ園経営者が増えいったという。
 明治の末期から大正、昭和にかけて平岸のリンゴ栽培面積は伸び続け、昭和22年の作付け分布図を見ると、豊平川沿いがリンゴ園で埋まっているのが分かる。(この様子を「ベッタリリンゴ園」とか「リンゴの樹海」と称したようである)札幌の他の地域(本村、山鼻、白石、中島)が明治末期を境に衰退していったのとは対照的である。

 開拓史によってもたらされたリンゴ園の経営は全道的に広まり、札幌以外では特に空知地方が一大産地だったようである。
 そうしたこともあって明治37~40年にかけて北海道のリンゴ生産額は青森などを上回り全国一に輝いていたと記録にある。その後は青森県にその座を奪われたが・・・。

 他のところとは違い、大正、昭和になっても平岸のリンゴ経営面積は伸び続けたが、やがて平岸にも転換期が訪れた。
 昭和20年代後半になって、樹勢低下、品種更新の遅延、気象災害の続発、大規模病院や住宅団地の開設など地域の住宅化が進み、リンゴ園を経営する農家が徐々に減り始めた。
 それでも昭和46年の分布図ではまだ僅かに残っていたリンゴ園だったが、昭和50年頃には消滅してしまった。

 今、リンゴ園が盛んであった平岸の辺りを歩いてみても住宅が密集していて、その痕跡を見出すのも難しい。
 環状通の中央分離帯にあるリンゴ並木、その一端に建てられた「リンゴ並木の碑」、そして平岸郷土資料館の中などにその名残を見ることができる。

 以上、「平岸リンゴ」今昔物語である。

        
         ※ これも直接講義とは関係ない写真だが、講師の斎藤
          氏がたくさんのリンゴの品種を持ち込んでその多様な品
          種を紹介してくれた。もちろん平岸産ではない。