田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

市民カレッジ「さっぽろ『食』の事はじめ」 №1

2010-02-06 21:56:38 | 札幌学 & ほっかいどう学
札幌米づくりの夜明け

 札幌(北海道)に米づくりが広がろうとしていた明治期に札幌農学校(現北大)と駒場農学校(現東大)の間で意見の対立があったとは・・・。歴史の面白さを垣間見た思いがした。
 
 久しぶりの市民カレッジである。
 冬だからだろうか? それともテーマが地味だからだろうか? 受講者が少なかったのが気になったが、講義そのものは興味深く聴くことができた。

            

 講義は稲作研究家の石村櫻氏(拓殖大北海道短大名誉教授)が務められた。
 氏によると、札幌(北海道)における稲作は本州からの移住者によって明治以前から試みられていたようである。
 しかし、冷涼な気候により多くは失敗を繰り返し長続きはしなかった。
 それでも農民は米への思いを断ち切れなかったのだろう。さまざまな人たちが試行錯誤を繰り返しながら米作りへの意欲が絶えることはなかった。
 歴史に残る形で最初に稲作を成功させたのは島松に水田を開墾した中山久蔵だと云われている。
 彼自身が残した日誌によると明治6年に10aあたり340kgの玄米を収穫したとある。(石村氏によるとこの数字には疑問があるとのことだが…)

 一方、北海道開拓を進める「官」の立場はどうだったかというと…。
 明治2年、北海道開拓史は多数の御雇い外国人を招き入れ、欧米式農法を北海道に導入しようとした。
 その御雇い外国人は、北海道の冷涼な気候は稲作には向かない断じ、小麦などの耕作を勧めた。つまり札幌農学校出身者が多数を占める北海道開拓史としては稲作には否定的だったのである。
 しかし、記録によると「官」の施設である「札幌官園」において密かに(?)稲作の試験が行われていたのである。明治9年には600坪、明治16年には16,000坪で水稲の耕作試験が行われた記録がある。

 こうした背景もあり、北海道においては多品種・施肥・有畜・機械等の導入と換種法(ローテーション)の欧米式農法が広まっていったのである。
 転換期は明治26年に北海道庁財務部長として駒場農学校出身の酒匂常明(さこう)が着任に始まる。
 酒匂は同年すぐに札幌市白石村と亀田郡亀田村に稲作試験場を設置し、北海道における稲作研究に着手したのである。(翌年には札幌市真駒内にも稲作試験場を設置したとある)
 こうした「官」の後押しと、篤農家の地道な努力によって札幌(北海道)における米作りは本格化してゆくのである。

 それにしても、札幌(北海道)の農業の推進に関わって、札幌農学校と駒場農学校の間に意見の対立があったということは興味深い事実である。

        
        ※ 講師の石村氏からいただいた北海道の代表的な稲の
         品種「ホシノユメ」のもみです。        

 この後、「さっぽろ『食』の事始め」シリーズは、リンゴ、玉ねぎ、サケと続きます。その都度レポートしていきたいと思います。