田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

市民カレッジ「さっぽろ『食』の事始め」 Ⅲ

2010-02-26 18:59:38 | 札幌学 & ほっかいどう学
 10月10日は「缶詰の日」と制定されているそうである。その由来は明治10年10月10日に日本初の缶詰工場が石狩市で操業を始めた日に因んでいるとのこと。こうした意外な事実を知ることができるのも市民カレッジの魅力の一つである。

 市民カレッジ今シリーズ4講目は2月23日(火)に行われた。(2月16日の第3講の「札幌発玉ねぎ物語」は札響公演のため欠席してしまった)
 講師は、「いしかり砂丘の風資料館」の学芸員をしている石橋孝夫氏が務められた。
 講座は第1部「サケの文化史」、第2部「缶詰の文化史」と2部構成であった。

 石狩のサケは、石狩川に遡上するサケを捕獲していたことを示す遺跡が発掘され、実に縄文時代からさまざまな仕掛けを施しサケを捕獲し、貴重な食料としていたことが遺跡の発掘によって実証されている。(遺跡の名称は「石狩紅葉山49号遺跡」という名である)
 石狩川で捕獲されるサケの量は、江戸時代で180万匹、明治初期においても100万匹以上が水揚げされたと記録には残っている。

 明治初期の北海道開拓使は、こうしたサケを始めとした北海道の産品を外国へ売り出す手段として、当時製造技術が実用化しつつあった缶詰の製造に目を付けた。
 さまざまな試行錯誤や紆余曲折の末、上記したように明治10年に北海道開拓使は石狩に「開拓使石狩缶詰所」を開設した。
 しかし缶詰の製造技術がしっかりと確立していなかったこともあって、思い描いていたほど生産は上がらなかったようである。それでも、記録によると明治11年には12,000缶のサケ缶、3,200缶の牡蠣缶、9,3001缶の鹿肉缶が生産されたとある。さらに明治14年には72,000缶のサケ缶と7,000缶の酢漬けサケ缶が生産されたという。
 缶詰の値段は当時の米一升の値段の3~5倍したというから庶民には手の出ない高級品だったようだ。

 結局、「石狩缶詰所」は当初の目論見を達せないまま操業から10年後の明治20年北海道開拓使は官営事業を中止し、翌年施設を民間(高橋儀兵衛)に無償貸与した。
 事業を引き継いだ高橋儀兵衛は、操業したり中止したりと繰り返すが、それも明治40年には完全に缶詰製造を中止している。

 欧米の進んだ技術を農業分野を中心に導入を進めた北海道開拓使であったが、こと缶詰の製造に関しては成功とは言いかねる結果であった。
 しかし、今回の「さっぽろ『食』の事始め」を受講し、いずれにおいても北海道開拓使が採用した御雇い外国人が深く関与していたことを知った。
 第1講の「米づくり」に関しては北海道に米づくりは不適であるとの反対の立場をとった者として、第2講の「リンゴ栽培」については苗木を移入する役割を担ったし、欠席した第3講の「玉ねぎ」についても資料を読むかぎりアメリカから御雇い外国人が種子を持ち込んだとある。詳述はできなかったが、缶詰の製造技術の導入についてはあのクラーク博士も関わっていたようである。  

 このように北海道の開拓に彼ら御雇い外国人が果たした役割は大きく、彼らの活躍が北海道の発展の礎を築いたことを改めて知ることができた講座であった。