題名に惹かれて映画を観てみようと思い立ちました。田中さんは始業前のラジオ体操に参加しなかったことが発端となって会社を解雇され、以来30年間その不当性を訴えているということです。そのことについて考えてみました。
某日、新聞を読んでいたら興味深い記事が目に入りました。「『不当解雇』を訴え30年 記録映画きょうから上映」とありました。そして映画の題名が「田中さんはラジオ体操をしない」というちょっと気になるネーミングです。
興味をおぼえた私は11月30日(水)友人を誘って蠍座に足を運びました。
映画のあらすじを新聞記事から転写します。
沖電気工業のエンジニアだった田中哲朗さん(63)は会社の大量リストラに抗議。その頃導入された始業前のラジオ体操に参加しなかったことで仕事を干され、営業職への配転を拒否したため解雇された。だが田中さんは闘い続けた。毎朝、会社の門の前に立ち抗議の歌を歌う。解雇撤回などを求めた訴訟は敗訴続きだが、今も抗議活動をやめていない。その姿をカメラに収めたのはオーストラリア人のマリー・デフロスキー監督。
※ 会社の門の前で抗議の歌を歌う田中さんです。
映画は田中さんの日常、田中さんの家族、田中さんを取り巻く人たち、などを淡々と描写しながら、田中さんの主張・心情に迫ろうとするドキュメンタリー映画です。
私は映画を観ながら、国鉄がJRとして民間会社として発足する際に解雇され、長い間闘争を続けた旧国労組合の人たちのことを思い浮かべていました。
当事者ではないので想像するしかないのですが、おそらく問題の事象が発生した段階では田中さんが主張していることに同調する人もたくさんいたに違いありません。その同調者が徐々に去り、孤独になりながらも30年間もの間、会社の不当性を追及することにどれだけの意味があったのか、と考えると疑問になるのです。
人生は不条理に満ちています。世の不正を追及すれば抱えきれないほど問題が山積しています。その中には自らがその要因となっている場合もあるいはあるかも知れません。
あるひと時の事象だけをとらえて、人生の大半を相手を非難・誹謗することに費やしてしまうことにどれだけの意味があるのでしょうか。
※ 田中さんのドキュメンタリーの映画化を伝える新聞です。
田中さんの主張や生き方を否定しようなどとは露ほども思いませんが、同時に私は田中さんのような生き方をしたいとは露ほども思いません。