第4楽章…。耳慣れたメロディーが何度もリフレインされる中、バリトンが堰を切った。しかし私の席からは彼の声は良く聞こえない。大合唱を今か今かと待った。やがて会場を揺るがすような200人を超す“歓喜”の歌の大合唱が始まった!
今年で6年目となる。私たちにとって恒例となった年末に“札響の第九”を楽しみ、そして忘年会になだれ込むというパターンを今年も踏襲した。
一昨年までは3人だったが、昨年からは一人加えて4人で楽しんでいる。

バリトンの声が良く聞こえないと記述したが、私たちが求めるチケットはいつも低価格帯のチケットである。今年はステージの真後ろのP席だったため、正面を向いて歌う彼らの歌声が直接は聴こえてこなかった。
しかし、P席は考えようによっては面白い席である。大合唱団の直ぐ後ろであり、指揮者の表情が丸見えの席なのだ。今年就任したばかりの札響の首席指揮者であるマックス・ポンマーはこれまでの指揮者には見られない表情を見せてくれた。そのことについては、後段触れることにする。

※ キタラは会場内が撮影NGなので、会場外の光景を2枚載せることにした。
これまで“札響の第九”コンサートでは、第九のみの演奏だったが、今年はその前に新実徳英作曲の「古代歌謡-荒ぶる神・鎮める神」~ソプラノ、尺八、チェレスタ、弦楽オーケストラのために~という約10分の曲が添えられた。
この曲が意外に良かった。(と云ったら失礼か?)「荒ぶる」と「鎮める」という対比する音が非常に良く表現されていたし、作曲した時期が東日本大震災の後だったということから、鎮魂の曲にも聴こえてきた。

さて、肝心の「第九」であるが、素人の私がどうこう言えることではないが、素人なりに感じたことを一つだけ記しておきたい。
それは指揮者マックス・ポンマーのことである。私の席から彼の表情は丸見えだったのだが、どうも彼の表情が演奏中ずーっと晴れやかに見えず、何かに苛立っているように見えたのだ。
これまで第九を聴いたときには、どの指揮者も気持ちよさそうに指揮をしていた印象があったのだが、今年のポンマーからはそのような印象を受けなかった。右手で指揮をしながら、左手は絶えずどこかのパートを人差し指で指示していたように見えた。
そう見えたのが私だけだったらいいのだが…。
そのことを除いては、私は今年も“札響の第九”を十分に楽しめた。
そして4人でススキノの居酒屋に向かい、年を忘れるように楽しんだのだった…。

今年で6年目となる。私たちにとって恒例となった年末に“札響の第九”を楽しみ、そして忘年会になだれ込むというパターンを今年も踏襲した。
一昨年までは3人だったが、昨年からは一人加えて4人で楽しんでいる。

バリトンの声が良く聞こえないと記述したが、私たちが求めるチケットはいつも低価格帯のチケットである。今年はステージの真後ろのP席だったため、正面を向いて歌う彼らの歌声が直接は聴こえてこなかった。
しかし、P席は考えようによっては面白い席である。大合唱団の直ぐ後ろであり、指揮者の表情が丸見えの席なのだ。今年就任したばかりの札響の首席指揮者であるマックス・ポンマーはこれまでの指揮者には見られない表情を見せてくれた。そのことについては、後段触れることにする。

※ キタラは会場内が撮影NGなので、会場外の光景を2枚載せることにした。
これまで“札響の第九”コンサートでは、第九のみの演奏だったが、今年はその前に新実徳英作曲の「古代歌謡-荒ぶる神・鎮める神」~ソプラノ、尺八、チェレスタ、弦楽オーケストラのために~という約10分の曲が添えられた。
この曲が意外に良かった。(と云ったら失礼か?)「荒ぶる」と「鎮める」という対比する音が非常に良く表現されていたし、作曲した時期が東日本大震災の後だったということから、鎮魂の曲にも聴こえてきた。

さて、肝心の「第九」であるが、素人の私がどうこう言えることではないが、素人なりに感じたことを一つだけ記しておきたい。
それは指揮者マックス・ポンマーのことである。私の席から彼の表情は丸見えだったのだが、どうも彼の表情が演奏中ずーっと晴れやかに見えず、何かに苛立っているように見えたのだ。
これまで第九を聴いたときには、どの指揮者も気持ちよさそうに指揮をしていた印象があったのだが、今年のポンマーからはそのような印象を受けなかった。右手で指揮をしながら、左手は絶えずどこかのパートを人差し指で指示していたように見えた。
そう見えたのが私だけだったらいいのだが…。
そのことを除いては、私は今年も“札響の第九”を十分に楽しめた。
そして4人でススキノの居酒屋に向かい、年を忘れるように楽しんだのだった…。