田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

白石清掃工場 見学

2013-03-21 22:50:47 | 札幌(圏)探訪
 札幌では最新の設備を誇ると云われる白石清掃工場はまるで白亜の殿堂を思わせるような造りで聳えていた。オヤジの会の3月例会イベントとして、平成14年に稼働を始めた白石清掃工場を見学した。 

          
          ※ ご覧のように堂々たる建物の外観だった。

 白石清掃工場は札幌市と江別市との境界に近い豊平川沿いの白石区東米里にあった。遠くからでもその白い外観は目立つ建物だが、近づいてみるとまるで白亜の殿堂を思わせるような大きな建物だった。
 平成14年から稼働しているということだから、およそ10年が経過しているのだが、建物は内外ともにきれいに整美され、ゴミ処理施設のイメージを払拭する不断の努力がうかがえた。

 最近の工場見学はどのような工場であれ自動化されて一般人が見学するところは限定されがちであるが、白石清掃工場も例外ではなかった。
 私たちが唯一その現場を見ることができたのは、ごみ収集車が市内から集めてきたゴミを投入する[ごみピット]と呼ばれる巨大な貯蔵庫に貯留されたゴミを巨大なごみクレーンで定期的に持ち上げてかくはんするところを見るだけだった。
 [ごみピット]内はおそらく相当な悪臭が漂っているのではと想像されたが、ガラス越しからの私たちには少しもその臭いを感ずることはなく、厳重に密閉されているようであった。

          
          ※ [ごみピット]のごみは巨大なごみクレーンで持ち上げられかくはんされる。

          
          ※ ごみクレーンを操作しているところです。

 そして私たちがもうもう一ヵ所見ることができたところは、[中央制御室]だった。
 清掃工場の全てがこの部屋に設置されたモニターや監視機器で監視・制御されているとのことだ。モニターにはごみ収集車の投入口、ごみピット内のかくはんの様子、焼却炉内でゴミが燃焼する様子などが写し出されていた。

          
          ※ [中央制御室]でスタッフがモニターや機器を監視しています。

 見学前に工場内にある集会室において、工場の概要を説明するDVDが放映され、さらにスタッフから説明を受けた。
 その中から印象に残ったことを記すことにする。
 白石工場は全国の清掃工場の中でも7番目に位置する規模の大きさを誇るとのことだ。
 その最大処理能力は3基の焼却炉で1日900トンのごみを処理できるとのことだが、焼却炉のメンテナンスが必要なため常時2基を稼働させ、一日約500トン前後のごみを処理している。
 次に建設費だが、土地は別にして建設費用は実に570億ということだった。それだけの費用をかけながらも耐用年数が25年しか持たないということに驚いた。各種の公害防止設備を整え、高温で処理し続ける施設はやはり耐用年数にも限度があるのだろう。
 別の資料を見ると、施設建設費だけでなく、ごみ処理費用に札幌市では年間296億もかかっているということだ。

          
       ※ ごみクレーンの大きさをごみ収集車と比較し、その大きさを実感してもらう表示です。
        ごみ収集車も一つかみで持ち上げられてしまいそうな大きさです。

 現代のような快適な生活を維持するために、ごみ処理に相当なコストがかかっていることを実感させられた。
 ごみの減量に一人ひとりが意識しなくちゃいかんぜよ!と思わされた今回の見学だった。

映画 92 シャレード

2013-03-20 23:32:30 | 映画観賞・感想

 ヘンリーマンシーニーの主題歌にのって、当時のトップスターだったオードリーヘプバーンとゲーリーグラントが共演する「シャレード」は良き時代の映画の魅力をたっぷりと注ぎ込んだような楽しい映画だった。

               

 また恐ろしく古い時代の映画を話題にしたと思われるかもしれないが、そのとおりである。
 札幌市生涯学習センター(ちえりあ)が開催する「ちえりあ映画会」の3月の上映は1963年制作の「シャレード」だった。
 邦画の佳作を上映することが多い「ちえりあ映画会」としては珍しい選定のような気もした。

 以前、「小さな町の小さな映画館」の感想をこのブログで述べた際、 「映画館で映画を見ることが、自宅のテレビでDVDを見るのとは明らかに違うと思っている」 と記したところ、映画を作った森田監督から直接「私もその意見に賛成です」とのコメントをいただいた。
 今回、3月15日(金)午前、ちえりあ(西区宮の沢1条1丁目)での上映にもその思いで駆けつけた。ちえりあホールには私と同じ思い? いや観賞代が無料という魅力に吸い寄せられて(私のもう一つの理由でもあるのだが)たくさんの中高年の方々が集まっていた。

 冒頭にも記したが1963年制作というと、今から50年前の映画である。
 当時、世界的に大ヒットした映画だというが、大ヒットするだけの魅力が散りばめられた映画であることが良く理解できる映画である。
 まず、キャストが素晴らしい。当時の映画会でケリーグラントとオードリーヘプバーンという二大スターが共演するというのは夢のような組み合わせだった。さらに二人の脇を固める助演陣たちもジェームズコバーンをはじめ有名どころが顔を揃えている。
 そして音楽がまた当代随一と云われたヘンリーマンシーニーが担当している。
 当時人気絶頂だったヘプバーンの衣装は当時のファッション界をリードするジパンシーが提供するといった具合である。加えて舞台はパリと、全ての魅力が詰まったような映画である。

         

 映画は欲深き人たちが次々と殺されるサスペンスなのだが、けっして暗い映画ではない。ウイットに富んだ台詞が散りばめられ、ラブロマンスの要素があり、最後の大どんでん返しありと、印象してはラブコメディ・サスペンスといった感じの映画である。
 映画はさまざまな側面をもっている媒体であるが、この映画は観客を最大限楽しませようという典型的な大娯楽作ということが云えそうである。

 ちなみに「シャレード」とは直訳すると「台詞によらない描写、ことば当て遊び」などと訳されるらしいが、ここでは「謎解きゲーム」という意訳が最も適しているように思う。
 いや~、映画って本当にいいものですねぇ~。という往年の名映画解説者 水野晴郎氏の言葉を借りて「シャレード」の感想としよう。


北のシネマ塾 91 映像でつづる北海道の20世紀

2013-03-19 23:34:11 | 映画観賞・感想

 北のシネマ塾ではいつもは北海道に関する劇映画を取り上げるのだが、今回は2000年にNHK北海道が制作した「映像でつづる北海道の20世紀」を取り上げた。ゲストスピーカーの小檜山博氏の独特の世界観を聴いた。
 

 今月のシネマ塾は3月16日(土)午後、いつものようにさっぽろ芸術と文化の館内の北の映像ミュージアムで開催された。ゲストスピーカーは作家であり、ミュージアムの館長でもある小檜山博氏が務めた。

          

 「映像でつづる北海道の20世紀」を取り上げたのは小檜山氏が番組の案内役を務めたことも理由の一つのようだが、小檜山氏の現在の問題意識とも関わりがあるようだった。
 映像は前・後編併せて1時間30分に及ぶ大作だった。現存する映像資料を総動員して北海道の歴史を辿るものだった。

 小檜山氏は冒頭、北海道の歴史を振り返り、もともとアイヌの楽園だった北海道に和人が踏み入ってから、北海道は石炭、食料と常に中央にとって都合の良い土地であった。そして今またTPP問題において北海道農業は犠牲を強いられていると…。
 小檜山氏は日本の文学上の問題として、①沖縄・琉球の問題、②被差別(小檜山氏はエタと称した)の問題、③アイヌ、北海道開拓の問題、の三つの問題が存在するという。つまりそれらの地域、人々が中央から虐げられてきた存在として文学上の問題だという意味なのだと解釈した。

          

 一方で小檜山氏は、北海道の開拓時代に来道した我々の祖先は次男、三男が多かった。ということは本州の因習が持ち込まれず、封建制が育たなかったという。また、北海道の開拓にお雇い外国人が来道し自由と平等の思想を伝播したのも大きいという。
 かくて北海道には自由と平等の気風が育ち、女性は自立し、進歩的な考え方が広まっていると分析する。

 最後に「網走のばっちゃん」として網走市民の誰からも愛された中川イセさんのことをエピソードとして取り上げ、山形県人である中川さんが小檜山氏に「私は北海道人だ」と語ったという。これは中川さんが悲惨な生い立ちから、戦後初の女性市議として網走のために大活躍できたのも風習や因習にとらわれることなく、差別や封建制とも無縁の北海道だったからこそ実現できたという思いが強いのだろう。

          

 小檜山氏は云う「北海道の人の心は日本一」だと…。
 頑張らせてくれる風土、支え合う風習、そして多くの地方の血が交ざっていることなどが好循環となって、80年後には全ての分野のリーダーは北海道から産み出されるだろうと予言したい、と締め括った。

 初めは重たい話しかな?と思ったが、小檜山氏も生粋の道産子である。北海道を愛し、北海道に寄せる思いが人一倍強いことを教えられた今月の「北のシネマ塾」だった。


※ 今回の写真は私も撮ったのだがフラッシュを使えないため小檜山氏の顔が黒くなってしまった。そこで、窮余の策として「北の映像ミュージアム」のスタッフブログから拝借したことをお断りしておきます。 


石狩川流域の開拓 ~この1世紀の成果~

2013-03-18 21:16:10 | 講演・講義・フォーラム等
地味ブロを自称している拙ブログだが、本日の話題は飛び切りお堅い話で地味ブロの面目躍如といった感のある話題である。その昔、おそろしく蛇行を繰り返した石狩川がどのように変わっていったのか、石狩川の過去・現在・未来を聴いた。 

 紀伊国屋札幌本店のインナーガーデンを利用して、「石狩川フォーラム実行委員会」というところが、石狩川を素材としてさまざまな切り口から石狩川をレポートする「石狩川フォーラム」を月例で実施していると知った。
 3月15日(金)夜はその第3回ということで、タイトル名のような講座が開催されたが、友人に誘われ初めて参加した。

          

 講師は鈴木英一氏といって北海道開発局長や北大大学院の工学研究院の特任教授を務められた方だった。
実は私は昨年6月に市民カレッジで「石狩川とともに ~母なる大河改修の歴史と未来~」題する4回シリーズの鈴木氏の講座を受講していたのだった。
 したがって、この日の講義内容は4回シリーズのダイジェスト版的な内容だった。興味のある方は4回シリーズの内容を2日にわたってレポートしているので、そちらを参照いただきたい。(市民カレッジ 石狩川とともに 前編  市民カレッジ 石狩川とともに 後編

 今回の講座で鈴木氏が強調されたことは、河川の治水に対する考え方が変わってきているとした点だった。それはつまり、これまで(過去)は強制的に河川の流れを変えることにより洪水などを防止する策を取ってきたが、これから(未来)は河川の流れを変えるのではなく、増水時に一時的に雨水を貯水する遊水池を作ることによって洪水を防ぐ方向に変わっていくであろうと指摘した点である。
 遊水池は、洪水時以外は自然環境教育など、さまざまに多目的に利用されるということである。現在は千歳川流域に重点的に造成が進められていて、今後この動きが広がっていくであろうということだった。

 人命を守る、田畑を守る、といった目的が一応達成された今、治水においても自然環境をできるだけありのままの姿を保つという考え方が浸透してきたということであろう。

          
          ※ 石狩川の治水の変遷について語る鈴木英一氏です。

 鈴木氏については以前の投稿でも触れているが、北海道開発局長まで務めた方にしては役人臭がなく、自ら蓄積した知識を噛み砕いて素人にも伝えようとする熱意のようなものを感じる。今また、「NPO法人 環境技術研究センター」なるものを組織して、同じように研究を重ねてきた人たちを束ね、市民にその成果を伝えようとしている。
 今後はこうしてキャリアを積み重ねた人たちが、リタイア後にこうした形で社会貢献をする姿が増えてきそうな気がする。それって、社会にとって凄い財産になるんじゃないだろうか?

田中澄江と北の山

2013-03-17 23:11:53 | 講演・講義・フォーラム等
 シナリオライターであり、作家であった田中澄江さんが山を愛した作家であったとは初耳だった。それも北海道の山をこよなく愛したという。北海道山行の際にはいつも同行したという日本山岳会北海道支部長の滝本幸夫氏が田中澄江さんの人となりを語った。 

 田中澄江とは、また古い話を出してきたものと思われるかもしれないが、そのとおりである。
 私もそれほど詳しく知っているわけではないが、その来歴を見ると昭和20~30年代には映画の脚本家として、30~50年代にはテレビドラマの脚本家としてたくさんの作品を書き起こしている。映画では「放浪記」、NHK朝のテレビ小説では「うず潮」、「虹」などが代表的作品である。

          

 その田中澄江さんが昭和40年代後半になって北海道の山に興味を抱いたという。滝本氏が田中澄江さんとの付き合いが始まったのが昭和47年からだそうだ。
 当時、田中澄江さんは相当に有名な方だったから、山への案内にも緊張したということだが、田中さんは案に相違してざっくばらんな方で、滝本氏によると豪放磊落な方だったということだ。

 田中さんとのエピソードとして次のようなことを語ってくれた。
 田中さんが85歳のときに徳瞬別岳を案内することがあったという。前日からの大雨でとても山登りは無理と思われたが、田中さんは雨具を着込んで「行きましょ!」と言ってきかなかったそうだ。しかたなく雨の中を案内したが、途中で濁流のためにどうしても渡ることできないところを見て、ようやく引き返してくれたそうだ。それが85歳のときだというのだから驚く。

          
          ※ 田中澄江さんとの思い出を語る滝本幸夫氏です。

 そんな豪放磊落な田中さんだったが、家庭生活では長男が患った脳腫瘍、ピアニストの長女が若くして脳血栓に倒れるなど、母親として苦労が絶えない一面もあったという。
 特に長男の脳腫瘍は発見が遅れたために自分をずいぶん責めたようである。その心境を彼女は「子にわびる母の記録」として著し、それがTVドラマ「虹」の原作とも云われているそうだ。

 田中氏が北海道の山を登り始めたのは64歳のときである。以来、登った山が北海道の山だけで30峰を超えるという。その間、山に関する著作も数々書き起こし、特に高山植物に深い造詣を示し「花の百名山」は高く評価されているらしい。

 ある山行で、滝本氏が仕事のことでの不満を田中氏に漏らしたらしい。その時、田中氏は傍にあった紙片に次のようなことを書いて、滝本氏に渡したという。

  星のようにいそがず たゆまず (それぞれの)
  みずからの重荷のまわりをめぐれ

 紙片を見た滝本氏は何のことか理解できずにいたが、ある日その言葉がゲーテの言葉であることを知ったという。数々の重荷を背負いながらも、そうした悩みを微塵も見せることなく豪放磊落に生きる田中さんが、親しく交友することになった滝本氏にゲーテの言葉を借りてその心の内を語ったのであろうか?

 それにしても85歳にして、なお山に登ろうとする田中澄江さんのバイタリティーには驚いてしまう。結局、滝本氏との山行は翌年86歳のときに函館山の山麓を巡ったのが最後だったという。
 60ウン歳にして、ちょっと歩いたくらいで、あそこが痛い、体中が疲れたなどとほざいている自分が恥ずかしい。
 「まだまだ老け込む歳ではない!」と田中澄江さんから背中をぴしゃりと叩かれた思いである。頑張りましょッ。

韓国のお雑煮「トックッ」を食す

2013-03-16 23:02:47 | 講演・講義・フォーラム等
 とうとう調理講習にまで顔を出した。と言っても「調理した」とはとても言えない実態である。そこでタイトル名を「食す」としたのだ。札幌国際プラザの「韓国を知るセミナー」(調理編)に参加してみた。 

 札幌国際プラザが開催する「○○を知るセミナー」(○○にはそれぞれ国名が入る)はそれぞれの国情を知ることができ、なかなか興味深い。
 3月14日(木)の「韓国を知るセミナー」はこれまでと趣を変え、「韓国料理を調理して、そして食してみよう」というセミナーだった。
 調理ということで少し躊躇したところもあったのだが、「えい、ヤーッ」と応募した。講習にはエプロン・三角巾を持参せよ、との指示があったので妻のものを拝借して参加した。
 受講生はやはり女性が圧倒的だった。男性は40名ほどの受講者の中にわずか3名だった。

          
          ※ 調理前、説明する講師のユンソヨンさんです。

 韓国担当の国際交流員は代替わりをしたらしい。講師を務めたユンソヨンさんは初めての講義で緊張したと語っていたが、流暢な日本語を操り、とてもそのようには見えなかった。
 彼女はまず、韓国料理の特色について説明してくれた。それによると…、
①主食は米である。②唐辛子や薬味野菜を多用する。③薬食同源の考えである。④野菜中心の食生活である。⑤醗酵食品が多い。と五つにまとめた。
 特に、唐辛子に含まれるカプサイシンは脂肪燃焼効果が高いため韓国人には肥満が少ないという。
 さらに、韓国料理では彩りも重視され、コミョンといって飾り物として白色(卵白の薄焼き、長ネギ)、黄色(卵黄の薄焼き)、緑色(セリ、カボチャなど)を用いるそうだ。

          
          ※ トックッの材料です。手前の白い色のものがトッ(餅)ですね。

 さて肝心の「トックッ」である。
 「トックッ」とはうるち米を使った韓国の餅(トッ)と野菜、肉を煮たスープ。新年に食べる習慣があり、韓国版のお雑煮だそうだ。
 レシピをいただいた上に、主だったところは見本も見せてくれたので大して難しいとは思わなかった。我が班では女性陣が次から次へとてきぱきと調理を進めていく。「これは、私などは手を出すべきでない」と判断し、私は誰かが調理器具を欲しているなと察したら、その調理器具を探したり、使用を終えた用具を収納したりする係に徹した。
 
 面白いと思ったのは、韓国料理でもスープのだしを取るのに昆布と煮干しを使うところだ。ただし、煮干しは最初にゴマ油で炒めた後に鍋から出してしまうところは「なぜ?」とも思ったが…。

          
          ※ 完成したトックッです。コミョンとして卵白、卵黄、韓国海苔が使われています。

 調理は20分ほどで終了したのではないだろうか。
 早速、試食である。やや薄味であったが、なかなか美味しかった。
 講師が「美味しいですか?」と聞いてきたので「マシッソヨ(美味しいです)」と返した。実は講座のときに簡単な韓国語講座も行っていたのだ。
 わずか1時間30分の講座だったがそれなりに楽しいひと時だった。カムサハムニダ。

ブログ愛読者登場!

2013-03-15 22:14:17 | その他
 K氏は立ち上がって近況を報告した。「私の毎朝は『丸尾清一の札幌を見る!観る!視る!』を開けることから始まる」と…。いくら私がK氏の先輩とはいえ、少し持ち上げすぎじゃないかと思ったのだが…。 

 学生時代からこれといった特別な理由もなく、気が合うというだけで交友を続けていた仲間があった。もとから札幌に勤めていた者、退職を機に札幌に転入した者などが誘い合い、「たまあに集まろうや~」ということで、年に一度の会合を持つようになった。
 10名の仲間がいるのだが、9日(土)は一人だけどうしても都合がつかず9名の会合となった。学年的には5年くらいの開きがあるのだが、全員が元気にススキノの某居酒屋に集合した。

          
         ※ カメラは持参していなかった。幹事のS氏から送られてきた写真を使った。
         もっとぼやけたものを掲載しようと思ったのだが案外分かっちゃいますね。

 会の途中でそれぞれが近況を報告し合う場があった。
 そこでK氏が冒頭のようなことを述べたのだ。
 そしてK氏は言った。「私の妻もそのブログの熱心なファンです」と…。
 お~っと、ここまで言われたら「豚もおだてりゃ何とやら~」思わず木登りをしそうになってしまう私だった。

 K氏は数年前に私のブログに気付いてくれ、それ以来会うたびに私のブログのことを話題にしてくれる。
 K氏は、私が何にも誰にも臆することなく、どこへでも出没することをうらやましく思っているらしいのだ。それは彼がまだ第二の職場に勤めているためにいろいろと制約があることへの裏返しなのかもしれない。
 K氏が第二の職場を離れた暁に、私の生き方が少しは参考になるとしたら、これに勝る喜びはない。

 今回はさらに近くにいた二人のT氏からも「読んでますよ」と言ってくれた。
 さらに、その話を横で聞いていた別のK氏が私のブログのアクセス方法を尋ねてきた。
 私のような地味ブロはこうした私と関わりのある方々が相当数アクセスしてくれているのではと思っている。
 そうした方々に札幌の今を、私の今を届けるために、これからも拙いブログを書き綴ろうと思う。(いや、そうした方々のためにというよりは私自身のためブログを書き綴っているのだが…)

 会は和やかにいつ果てるともなく続きそうだった。
 しかし、やはり年齢には勝てない。誰からともなく「そろそろ…」という声が出て、来年の再会を約束してそれぞれが家路に就くのだった。
 

ダニエル・カールの山形弁

2013-03-14 22:42:18 | 講演・講義・フォーラム等
 アメリカ人と流暢な山形弁。この絶妙な組み合わせがダニエル・カール氏を一躍人気者にした。「東北観光フォーラム in 北海道」のメインキャラクターとして来札した機会に彼の山形弁を楽しんだ。 

               

 日本語を流暢に話してテレビ界で人気者になっている外国人の例はけっこう多いが、方言、しかも難しいとされる東北弁(山形弁)を駆使して人気者になったのはダニエル・カール氏をおいて他にはいないのではないだろうか?
 青い目をして(その昔、西洋人を表す言葉だった)山形弁を流暢に操るダニエル氏の登場は衝撃的だった。あれは今から20年も前だったろうか?
 以来、いろいろな場で活躍しているようだが、彼はタレント活動だけやっているのではない。翻訳家、実業家としても活躍していて、彼が社長を務める会社が株式会社「DOMOSU」というのも面白い。

               

 そのダニエル氏が、東北観光推進機構が主催する「東北観光フォーラム in 北海道」(3月9日、北海道経済センター)という東北観光のPRイベントにいわば客寄せパンダ役として招かれたのであろう。事実、私も人気のダニエル氏の山形弁を直接聞いてみたいという動機から参加したのだった。

 そのダニエル氏だが、さすがに東北には強い!
 東北との付き合いがすでに32年にもなるという彼から東北の良さが次から次へと出てくる、出てくる。
 例えば東北の麺料理を紹介すると、青森の津軽そば、岩手のじゃじゃ麺に冷麺、秋田の稲庭うどん、宮城の温麺、山形の板そば、福島の喜多方ラーメンと立て板に水のごとしである。
 ただ紹介するだけでなく、サービス精神旺盛で山形弁が楽しく、なんだか東北に行ってみたい衝動に駆られるほどだった。

 フォーラム自体はダニエル氏のトークショーばかりでなく、北海道人が観た東北、東北観光推進機構の職員のPR、学生が旅した東北などなど盛り沢山の内容だった。
 その中でも、最後に登場した「奥州・仙台おもてなし隊 伊達武将隊」による演武披露がなかなか見応えがあった。
 以前、熊本県の同様のものを観た記憶があるが、各県・各地でいろいろ工夫を凝らして自分たちのところに客を呼ぼうと努力されているようである。

     

 そうそう、最後に東北各地の名産が当たる抽選会があった。くじ運の悪い私は当然のように当たらなかったのだが、一緒に行ったH氏が盛岡産のお米で作った「純米 ひっつみ」という郷土料理がインスタントになったものが当たった。
 H氏は私が入場券を手配したからと私に譲ると言い出した。遠慮したのだが「是非に」というので有り難くいただいた。
 そうだ明日の昼食は「ひっつみ汁」にしよう!

          

ウォーク in 銭函海岸 後編

2013-03-13 23:32:29 | 札幌ウォーク & Other Walk

 広がっていた砂浜は徐々に狭くなり、やがて海辺の近くまで海岸段丘が迫ってきているところがあった。時間の経過とともに波も荒くなってきた。新川河口からの折り返してからは雪も降り始め、夕暮れとの競争だった。 

   
   ※ 歩いたところのマップを再掲した。手書きで札幌市・小樽市・石狩市の境界をあらわしてみた。

 前編でも述べたが、砂浜はきれいで流木なども目につかなかった。これはもともと湾内ということで漂着物が少ないのか?それとも関係者が定期的に清掃しているためなのか?
 ともかくゴミが目立たない砂浜を見ることは気持の良いものだ。

          
          ※ 歩いていた中で唯一流木を見かけたのでカメラに収めた。

 時間の経過とともに波が荒くなってきた。風が出てきたせいかもしれない。
 そして気がつくと、遠くに見えていた海岸段丘が海辺の近くまで迫ってきていた。
 新川を挟んでドリームビーチに近づいてくるにしたがい段丘が目立ってきたということは、同じ理由で海岸線が削られているためだろうか?
 海岸段丘が波によって削られた跡のようなところを見ると痛々しく感じてしまう。

          
          ※ 風が強くなり、白い波も目立ったてきた。

          
          ※ いつの間にか海岸段丘が海辺まで迫ってきていた。

          
          ※ 波が削ったためだろうか、海岸段丘の崖が崩れているところがあった。

 途中に何ヵ所か鉄製のパイプが組み立てられているところがあった。海岸段丘が削られるのを阻止するためのものだろうか?あまり効果は発揮していないように見えたが、あるいは別の目的に設置されたものなのだろうか?

          
          ※ この鉄製の柵はいったい何のためなのだろうか?

 折り返し点の新川河口が遠かった。身体が疲れているせいもあったのだろうが、行けども行けどもという感じだった。
 出発してから1時間15分くらい経ったころだったろうか? 前方に海鳥たちが見えた。新川河口である。当たり前のことだが、先ほどドリームビーチを歩いたときに川の向かいから見たのと同じ光景が広がっていた。フーッ、まだ半分である。
 夕暮れが迫っている。そそくさと写真を撮って、直ぐに折り返した。

          
       ※ 新川河口の向こう岸にはドリームビーチ側から見たように海鳥たちが憩っていた。

  
          
          ※ 新川が石狩湾(日本海)に注ぐ河口です。

 帰り道は周りの様子が同じこともあり、ひたすら砂浜を歩き続けた。途中から風だけでなく雪も混じってきた。雪を避けるため風防を被るとさらに一人だけの世界になる。
 途中で一匹のキタキツネに出会ったが、人間と認めるとそそくさと崖の中に消えた。海岸段丘は彼らにとってはかっこうの棲家なのかもしれない。

          
          ※ カメラにも写るくらい雪が激しく降ってきました。

 帰りの5Km弱を歩き続けるには体力が限界にきていた。途中とうとう足を止め、紅茶を補給し、チョコレートを口に入れ小休止を取らざるを得なかった。
 雪が降り続き夕暮れが迫ってくる中、重くなった足を必死に前に進めた。

 辺りがやや暮れかけたころ、雪降る中に愛車が目に入った。ようやく出発点に辿り着くことができた。
 時計を見ると午後5時を指していた。

          
          ※ 夕暮れが迫る中、愛車が待っていました。

 「なぜ砂浜を歩くのか」…。
 いや~、誰もいない砂浜を歩くって何とも云えない気分ですなぁ~。
 ほら、歌の歌詞にも出てくるじゃないですか! 誰もいない海って特別なんですよ!
 「誰もいない海♪…」(南沙織の歌だったかなぁ…)
 「今はもう秋(冬)誰もいない海♪…」(こちらはトアエモアでしたね?)
 何!? 古いって? 古くて結構!!
 おいら暴走(歩)老人なんだから…。


ウォーク in 銭函海岸 前編

2013-03-12 23:54:43 | 北海道低山紀行 & Other

 ドリームビーチウォークを終え、場所を移動し石狩湾新港の横、工場や倉庫群が広がる海岸線を歩いた。場所としてはドリームビーチと新川を挟んで対置している海岸なのだが趣はずいぶん違っていた…。 

     
     ※ マップ上の赤線の部分が私の歩いたコースです。

 私は石狩湾新港の直ぐ西側からウォークを開始すべく「東洋水産」の大きな工場の横手の角のところに車を停めた。
 そこはてっきり石狩市域だと思っていたが、どうやら小樽市域のようだった。帰宅して地図で確認すると、そもそも両市の境界線は石狩湾新港の真ん中にあるようなのだ。
 それで一つの謎が解けた。歩いた地域が銭函4丁目・5丁目と記されていたのがどうも不思議だったのだ。(銭函という集落は小樽市に属している)

          
          ※ 夏期間はこの先も車を通してくれるのかも知れないが…。          

 冬期間のため海岸まで車で行くことはできず、防風林の手前に車を置いてウォークを開始した。時計を見ると2時45分を回っており、往復9Km強の砂浜ウォークで5時までにウォークを終えることができるかどうかぎりぎりのところだった。

          
          ※ 防風林の間から薄っすらと石狩湾(日本海)が見えてきました。。

 500mくらい雪の道を歩くと広い海岸線に出た。
 そこはちょうど石狩湾新港の西端のところで、石のブロックが積み重なっていた。
 砂浜の第一印象は「広くて、きれい」という印象だった。砂浜が広~く広がり、海も遠浅のようである。こちらの方が海水浴には絶好と思ったりもしたのだが…。
 しかしそこは公には海水浴は認められていないのだろう。だからといっては皮肉だが、それらしいゴミをほとんど目にすることがなかったからだ。

          
          ※ 右側に見えるのが石狩湾新港の最も外側の石積みのようです。

          
          ※ 広い広い砂浜が広がっていました。 

          
          ※ ドームビーチのような石ころも見えません。

 そんなあまり人が立ち入らないと思われる海岸に気になる看板が立っていた。
 見ると「救命胴衣を着用しましょう」、「酒飲操縦はやめましょう」とあった。船に乗る人向けの忠告看板である。しかし、見るからに遠浅の海岸でプレジャーボートや漁船などは近寄ることもできないように思うのだが…。
 よく費用対効果ということが話題になるが、この看板などは典型的な費用対効果が期待できない代物ではないだろうか?

          
          ※ う~ん。この看板を誰が見るんだろう?

 あまり人が立ち入らないからだろうか?車が海岸線を走った跡が鮮明に残っていた。その跡はほんの数時間前といった感じだった。
 広い砂浜が徐々に狭まってきた。遠くに見えていた海岸段丘がだんだん海岸線に迫ってきた。

          
          ※ 写真のような鮮明なタイヤ跡が残っていました。

          
          ※ ウォークを進むにつれて左側の海岸段丘が迫ってきました。

 
 誰もいない海岸線を淡々と進む中、砂浜に転がっていた落し物を使い、こんな悪戯もしてみた。先はまだまだ遠い…。(後編に続く)
   
          
          ※ 砂浜に落ちていたサルのぬいぐるみを木の枝に乗っけて…。