田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

市電ループ化記念沿線ウォーク

2015-12-21 22:35:06 | 札幌ウォーク & Other Walk
 札幌の市電のループ化が完成し、昨日20日から運行が開始した。それを記念したウォーキング大会があったわけではない。私が勝手にそう名付けて、今日(21日)沿線8,905mを歩いてみた。 

               

 一昨日だったかの新聞で市電のループ化がいよいよ開業されるという特集が載っていた。その時、市電一周が8,905mという距離も発表されていた。
 「これは案外短いぞ!歩いてみるのも面白いな」と思った。できるなら運行開始日の20日が望ましいのだが、生憎20日は講座やミニコンサートを予定していたので、一日遅れの今日歩いてみることにした。

 我が家から歩いて最も近い「西15丁目」停車場から〔内回り〕に歩くことにした。
 13時15分スタート。真っ直ぐ南方向に歩き始めた。
 久しぶりの市内ウォークであるが、歩道はまだ雪が解けきっておらず、かなり歩き難い。
 すっかり遠ざかってしまった「札幌ぶらり散歩」の取材も兼ねようと思ったが、見慣れた景色から面白そうな物件は何一つ目に入ってこなかった。

               
               ※ スタートした「西15丁目」停留所です。これは外回り用の停留所ですね。

 時おり通り過ぎる市電を見やりながら淡々と歩を進めた。それにしても札幌の市電は派手な色彩の市電が多い。ラッピング電車と云うそうだが、経営が厳しい市電としては少しでも収入を得るためには仕方ない措置とはいえ、賛否いろいろあるのではと想像される。

               

               

 停留所に目をやったときに見慣れないものを発見した。ある停留所で近づいて確認してみると、「運行情報モニター」という名で、全ての電車の現在地が確認でき、電車が来る時間がおおよそ把握できるシステムだった。これは利用者からは歓迎されているシステムだろう。

               
               ※ 電車を待っている男の人の右側に見慣れぬものがありました。

               
               ※ 近付いてみると「運行状況モニター」とあり、電車の現在地が表示されていました。

 けっしてウォーキング日和とは云えないどんよりと曇った空の下、街往く人はそれぞれなんらかの目的をもって目的地へ急いでいた。私のように大して目的のない人で往来を往く人を見ることはなかった。(今日はウォーキングをしているような人にも出会わなかった)

               
          ※ TV番組「ブラタモリ」でも取り上げられた札幌の市街地形成の際にできた歪みが出たところです。
      
 ループ化が完成したと云っても、新たに線路が敷設された「ススキノ」~「西4丁目」間以外はこれまでと何ら変わらないのだから、私も特別に感ずることもなく歩き続けた。
 「西15丁目」をスタートして95分後、多くの人で賑わう「ススキノ」停車場のところに着いた。そこにはオレンジのアウターを着た札幌市交通局関係者の姿が目立った。彼らは盛んに道行く人に注意を促していた。見ていると道行く人たちの中に戸惑いも見えるようだった。不測の事故を避けるためしばらくは彼らの指導が必要なのかもしれない。

               
               ※ このオレンジ色の人たちの姿が見えなくなるのは何時でしょう?

 電車がススキノの4丁目交差点を駅方向に進路を変えるところは札幌の新しい風景である。しばらく待ってそのシーンをカメラに収めた。

               
               ※ このシーンは間違いなく札幌の新しい風景です。

 そして、新たに敷設された駅前通りを電車が往く。電車が歩道の直ぐ横を走る「サイドリザベーション方式」というそうだが、これもまた新しい風景である。
 見ていると「西4丁目」停留所からは観光客と思しき人も含めて大量の人が電車に乗り込んでいた。ループ化は案外観光客にも手軽に札幌の街を把握する手段として人気が出るかもしれない。

               

               
               ※ これは新設の「狸小路」停留所です。

               
               ※ 三越百貨店をバックに2台の電車が行き交うシーンです。これも新しい風景です。

 そして私はスタートから2時間10分後の15時25分、「西15丁目」停留所のところに着いた。歩いた歩数13,535歩、それなりに体力づくりの一環とはなった。
 そして私は止せばいいのに(?)、今度は「西15丁目」停留所から電車に乗って、さらに沿線を一周した。
 電車はおよそ1時間で一周して「西15丁目」停留所に戻ってきた。新しく開通した駅前通りはやはり慎重に運転されているようにも思えたが、他は特に違いを感じなかった。
 ただ、ループ化されたことにより日常利用される市民の人たちは格段に便利になったに違いない。さらに先述したが、私が観光客だったらループ化されたことによって、格安(170円)に街の概観を知る手段として利用するに違いないと思った。

札響の第九 Ⅵ

2015-12-20 21:32:52 | ステージ & エンターテイメント
 第4楽章…。耳慣れたメロディーが何度もリフレインされる中、バリトンが堰を切った。しかし私の席からは彼の声は良く聞こえない。大合唱を今か今かと待った。やがて会場を揺るがすような200人を超す“歓喜”の歌の大合唱が始まった!

                               
 
 今年で6年目となる。私たちにとって恒例となった年末に“札響の第九”を楽しみ、そして忘年会になだれ込むというパターンを今年も踏襲した。
 一昨年までは3人だったが、昨年からは一人加えて4人で楽しんでいる。

                 

 バリトンの声が良く聞こえないと記述したが、私たちが求めるチケットはいつも低価格帯のチケットである。今年はステージの真後ろのP席だったため、正面を向いて歌う彼らの歌声が直接は聴こえてこなかった。
 しかし、P席は考えようによっては面白い席である。大合唱団の直ぐ後ろであり、指揮者の表情が丸見えの席なのだ。今年就任したばかりの札響の首席指揮者であるマックス・ポンマーはこれまでの指揮者には見られない表情を見せてくれた。そのことについては、後段触れることにする。

               
               ※ キタラは会場内が撮影NGなので、会場外の光景を2枚載せることにした。

 これまで“札響の第九”コンサートでは、第九のみの演奏だったが、今年はその前に新実徳英作曲の「古代歌謡-荒ぶる神・鎮める神」~ソプラノ、尺八、チェレスタ、弦楽オーケストラのために~という約10分の曲が添えられた。
 この曲が意外に良かった。(と云ったら失礼か?)「荒ぶる」と「鎮める」という対比する音が非常に良く表現されていたし、作曲した時期が東日本大震災の後だったということから、鎮魂の曲にも聴こえてきた。

               


 さて、肝心の「第九」であるが、素人の私がどうこう言えることではないが、素人なりに感じたことを一つだけ記しておきたい。
 それは指揮者マックス・ポンマーのことである。私の席から彼の表情は丸見えだったのだが、どうも彼の表情が演奏中ずーっと晴れやかに見えず、何かに苛立っているように見えたのだ。
 これまで第九を聴いたときには、どの指揮者も気持ちよさそうに指揮をしていた印象があったのだが、今年のポンマーからはそのような印象を受けなかった。右手で指揮をしながら、左手は絶えずどこかのパートを人差し指で指示していたように見えた。
そう見えたのが私だけだったらいいのだが…。
            
そのことを除いては、私は今年も“札響の第九”を十分に楽しめた。
そして4人でススキノの居酒屋に向かい、年を忘れるように楽しんだのだった…。

北海道にちなんだ歌曲を聴く

2015-12-19 11:25:34 | ステージ & エンターテイメント
 私の場合、そもそも「歌曲とは何ぞや?」というところから始まらなければならないのだが、昨夜(17日)「北の自然が育んだ歌曲の数々」というコンサートを聴いた。私にとって馴染みのない曲が多かったが、それなりに興味深く聴くことができた。
 
 12月17日(木)夜、北方学術情報センターポルト(北翔大学のサテライト?)で「北の自然が育んだ歌曲の数々」というコンサートに参加した。
 参加の動機は、ある公共施設に告知チラシがあり、しかも無料で、我が家から近いということもあり、参加してみることにした。
 コンサートの趣旨は、北翔大学で音楽の教鞭をとるソプラノ歌手の岡元眞理子教授が企画し、それに賛同する方々が集ったコンサートのようだった。

                  
                  ※ 会場に掲示されていたポスターです。ちょっと暗いでね。

 「北の自然が育んだ~」という意味では、野口雨情、石川啄木、三木露風の三人の詩人の詩が取り上げられた。三人に共通するのは、いずれもが一時期北海道に滞在した経験を持つ方ばかりで、詩作においてもそのことが反映されているということのようだ。
 また、作曲家としては遠田京市、尾崎弥生、二橋潤一、石丸基司といった北海道に在住し、現在も旺盛に作曲活動を行っている方々の作品が紹介された。また、彼らは4人揃ってコンサート会場にも駆け付けて、短いコメントを発せられた。

               
               ※ インタビューに答える作曲家の二橋順一氏(左)と、石丸基司氏(右)です。

 歌手は、ソプラノの石田美和、鷹木真理子、岡元眞理子、メゾソプラノの荊木成子といった道内外で現役で活躍されている方々が出演された。その他、野ばら合唱団、北翔大学混成合唱団有志、北広島少年少女合唱団も出演した。

               
               ※ シニアの方が目立った「野ばら合唱団」のみなさんです。

 おっと、そもそも「歌曲」だが、ウィキペディアによると「クラシック音楽における独唱声楽曲のジャンルの代表的なもの」だそうである。特に岡元教授たちが主眼としているのはイタリアオペラに通ずる「ベルカント唱法」による歌曲を演ずることだという。

 2時間強にわたるコンサートは相当数の曲が披露されたが、私が印象に残ったのはソプラノの石田美和の声量である。特に高音の響きは他を圧していた感があった。他の歌い手の方も力量十分であった。
 また、北海道教育大の教授だった二橋潤一氏が作曲した女性のための合唱曲「おかあさんあのね」は子どもたちの純粋な詩が印象的で、それに上手く曲がのっていたように思われた。
 さらには、釧路市在住の作曲家の石丸基司氏の作詞・作曲による「カンタータ 赤ちゃんの季節」は、ストーリー性もあって興味深く聴くことができた。

                 
          ※ 圧倒的な声量を誇った石田美和さんと彼女が指導する北広島少年少女合唱団のみなさんです。

 私たちは(少なくとも私は)歌曲というものに馴染みが薄いが、そのこともあってかせっかくのコンサートだったのに、少し聴衆が少ないように思われた。
 たくさんの研鑽を積まれた歌い手の方々の力量は多くの方を魅了してやまないと思われた。今回が2回目とうかがったが、せっかくの良質のコンサートである。次回はより多くの方々に聴いていただく手立てをとられたらと思われた。

               
               ※ 岡元眞理子教授が指導する(?)北翔大混声合唱団有志のみなさんです。

 さて、今夜は6年連続となる「札響の第九」を楽しむため、これからキタラへ出かけることにします。

スノーシュー in 迷沢山

2015-12-18 21:30:43 | スノーシュートレック & スノーハイク
 今回もまた迷沢山は私に微笑んでくれなかった…。昨夜から早朝にかけての降雪が想定外だった。膝まで沈む深雪に、私は体力も時間も早々に奪われてしまった…。 

                 
                ※ 迷沢山の上平沢林道の典型的なコースの様子です。           

 今年を振り返るための記録を整理しながら気がかりなことが一つあった。それは昨日のブログにも記したが、「札幌低山紀行」で迷沢山に挑んだとき、山頂直前まで行きながら雨のために登頂を断念してしまったことだった。迷沢山は私にとって未踏の山なのである。
 そこで、その気懸かりを解消したいと考えた。「迷沢山なら山頂直前まで林道が続くので、冬でも迷いなく登れそうだ!」と考えた私は、スノーシューのトレーニングも兼ねて登ってみよう!と決心した。雪が少ない今がチャンスだと…。

               
               ※ 上平沢林道のゲートに立つ標識です。夏は閉じていたゲートが開いていました。

 ところが今朝目覚めてみると、なんとかなりの積雪ではないか。窓から見るかぎり、それほどでもないと考え、なんとかなるだろうと予定どおり決行することにした。
 雪の中、1時間20分かけて定山渓の奥、さっぽろ湖の近くの「上平沢林道」のゲートのところに着いた。車中でラジオが「札幌の積雪は33cm」と報じていた。

               
               ※ ゲート前に停めた愛車です。ゲートは開いていても、この雪では入れません。

 9時30分、準備を整え、足跡などまったくない上平沢林道に足を踏み入れた。踏み入れて何歩も進まないうちに「これは山頂まで無理かな?」と思った。というのも、思いのほか雪が深いのだ。定山渓の山の奥では33cmどころか50cmを上回る積雪があったのではないだろうか?
 新雪のため一歩踏み出すごとに、いくらスノーシューでも深く沈み込んでしまうのだ。最初は脛くらいまで埋まるな、と思っていたのが登るにつれて膝頭付近まで埋まるようになってきた。一歩一歩踏み出すのが大変である。これまでスノーシューを楽しんできて、最も深い雪の中を進んでいる感じだった。
 10分も行動していないのに、背中に汗を感じ始めていた。冬季の場合は汗をかくことを極力避けたいと思っていたのだが、それでも「行けるところまで行ってみよう」と思い、歩を進めることにした。

               
               ※ 車の跡でしょうか?それとも人の踏んだ跡でしょうか?積雪前の痕跡が微かに…。  

 天候は薄曇りで、風はなく、辺りは深閑とした静けさが広がっていた。そんな中、立ち止まったときに「コツコツ」という音を聞いた。独りでの行動だけに、音の正体が分からないときは不気味である。辺りに目を配った。すると、近くの木のところでキツツキの仲間が樹肌を突いているのが見えてホッとした。

               
               ※ 林道横の沢には水の流れがありました。

 変化のない、だらだらとした上りが延々と続く。雪が深くて連続行動は効かない。十数歩進むごとに立ち止まって呼吸を整え、再び行動開始、ということを繰り返した。
 1時間が経過してもそれほど進んだ感じがしなかった。できるだけ汗をかかないように、と行動していたので疲れそのものはあまり感じなかった。しかし、それでも徐々に疲れは溜まって、進む速度は落ちていた。
 疲れは溜まりはじめていたが、この時点で林道と送電線が交差する第一のポイントまでは行ってみようと思った。
 ガイドブックによると、迷沢山の上平沢コースは変化に乏しく、目印になるのは林道と送電線が2度交差する点があるのみ、ということだった。その送電線と交差するところでコースがおおよそ3分割されているという。私はコースの1/3の地点まで目ざすことにしたのだ。

               
               ※ 引き返す直前あたりの雪の深さを撮りました。

 それから深雪を進むこと45分、ようやく送電線やそれを支える鉄塔が見えてきた。その真下に着いたのは11時15分。私はこの日、これ以上前へ進むことを断念した。
 ガイドブックでは、この迷沢山の山頂までの標準タイムが1時間50分と出ているのに、私は1時間45分を要して、まだ1/3しか進んでいなかった。ということは、単純計算で残りの登りだけでまだ3時間30分も要することになる。これでは山頂到達は到底無理である。
 無理して決行しても、身体は疲労し、何かあったときに対処できる自信はない。安全を考えるとベストの判断だと考えた。

               
               ※ 引き返し点となった送電線と鉄塔です。

               
               ※ 本日の最高到達地点(?)の様子です。

 登頂はできなかったが、目的であるスノーシューのトレーニングはそれなりにできたのでヨシとしたいと思う。
 ちなみに、1/3の地点まで深雪をラッセルして1時間45分を要したが、踏み跡がついた下山時間はわずか35分だった。深雪の程度を察していただける、と思う。
 迷沢山の冬季はこれ以降、さらに雪が降り積もると考えられるので、私の冬季の登頂は考えられない。来年夏まで持ち越しとすることしよう…。



               
          ※ サービスショット。迷沢山に向かう前、近代美術館の庭の樹氷が見事だったのでカメラに収めました。

一足早く一年を振り返る

2015-12-17 23:17:08 | その他
 今年の1月2日に拙ブログ上で「一年の計」を立ててみた。少し早いが、それがどうだったのか、振り返ってみた。 

 拙ブログでは、2008年以来、年末に数回に分けて「私的に○○年を振り返る」と題して、自らの一年をざーっと振り返るシリーズを投稿してきた。
 これをまとめるのがけっこう大変な作業で、ここ数日その整理をしてきたのだが今年の分がなんとかまとまったところである。
 そのまとめの作業しているとき、「そういえば、今年は年初めに一年の計を立て投稿したなぁ」と思い出していた。
 投稿ネタに尽きた今日、今年も半月を切った今、その時立てた「一年の計」を振り返ってみようと思った。

               
               ※ とある講座の様子です。講座の関係はなかなか写真を写せない。

 まず講演・講座関係で、私は「道民カレッジ」の〈教養コース〉の博士号を取得し、道民カレッジに一区切りつけようかな、と述べている。
 結果、残念ながら博士号の取得には至っていない。道民カレッジの単位を今年初めの段階で487単位取得していたが、それが本日の時点で707単位まで取得したのだが、道民カレッジの称号取得の仕組みから、私は〈教養コース〉の単位があと7単位ほど不足していて博士号の取得には至っていないという現況である。しかし、間もなくかな?と思っている。

               
               ※ 「無意根山」の山頂標識は実際の山頂とは少しズレて立っていた。
              
 次に「低山紀行」だが、「夏山ガイド」に載っている札幌圏の山で残っていたのが、迷沢山、奥手稲岳、余市岳、札幌岳、無意根山の五つだった。
 結果は、余市岳、札幌岳、無意根山、迷沢山(山頂に達せず)の四つはクリアしたが、奥手稲岳はガイドブックによると、素人には難しそうな山なので、無理することはないと諦めた。代わりにイチャンコッペ山など、札幌圏以外にも足を伸ばすことにした。

               
               ※ 「北根室ランチウェイ」の象徴(?)モアン山を望んだところです。

 ウォーク編であるが、「一年の計」では、「一日一万歩ウォーク」を着実に実践したいと宣言している。
 昨年10月以来、着実に実践していたのだが、膝はおろか股関節まで痛めてしまい、7月末に継続を断念してしまった。現在はできるだけ歩くように努めているという現状である。ただ、イベントとしては「北根室ランチウェイ」とか、「増毛山道体験トレッキング」など印象に残るウォークを実践できた。また「ふらっと南幌バーサイドウォーク」(44キロ)も歩く経験ができた。
 さらに、冬に「冬の石狩川を遡る」シリーズも3日間実施することができ、次へ繋がる体験である。

              
              ※ 札幌芸術の森野外ステージで行われたPMFオープニングコンサーの様子です。

 参加したり、観戦したりするスポーツイベント、ステージ、映画については、特に目標を明示してはいなかった。
 これらについては、今年も数多くのイベントなどに参加したが、詳しくは年末の投稿に譲ることにする。

              
              ※ 八重山諸島の一つ、小浜島の白い砂浜と青い海は沖縄の海を象徴しています。

 旅については、今年は2月13日から6泊7日で「八重山諸島の旅」に出かけたのが唯一の旅だった。例年、春に南の地方を旅することを恒例としてきたが、はたして来年は?

              
              ※ これは春先のボランティアの様子です。

 最後にボランティアであるが、6年目を迎えた今年もしっかりと実践することができた。

              
              ※ サービスショットは夜が明けようとしている石狩川河岸の様子です。

 こうして振り返ってみると、私自身の評価は「まあまあかな?」といったところである。それというのも、「一年の計」を立てるときに、あまり大ボラを吹かなかったせいだと思う。まあ、それだけ面白味のない「一年の計」でもあったのかもしれない。
 その「まあまあ」の中で、「一日一万歩ウォーク」を途中で断念してしまったことが悔やまれる。身体の不調が要因だから、仕方がないと言ってしまえばそれまでなのだが…。
 「一日一万歩」が思ったよりハードだったことも意外だった。札幌市内を歩いていると、シニア層を中心に、この運動に取り組んでおられる方が多いように感ずるのだが、どのように実践されているのか、聞きたい思いである。
 いずれにしても、私たちシニアにとって身体の健康維持は大きな関心事である。一日一万歩を再起するのか、別な方法を見つけるのか、私にとって来年の宿題としておこう。

映画 146 母と暮らせば

2015-12-16 23:07:08 | 映画観賞・感想

 名匠山田洋二監督自身が「監督人生でほとんど最後に近い映画になる」と語った作品である。その作品として選んだのが、生前交友のあった作家の故井上ひさしさんの遺志を継いで長崎が被った原爆被災をテーマとした「母と暮らせば」だった。 

                  

 11月15日(日)、NHK・BS1スペシャルで「戦争を継ぐ~山田洋二・84歳の挑戦~」という番組を視聴した。いわゆる映画「母と暮らせば」のメイキングビデオ的な番組だった。
 番組は「戦争がもたらす絶望や怒りを未来にどう伝えていくか」という山田監督の思いに模索し続ける現場を描いたものだった。
 そこでは、映画制作に携わるすべてのスタッフ・キャストが戦争を経験していない世代に対して、山田監督が原爆や戦争の悲惨さどうリアルに描くことができるかの闘いでもあった。山田監督が撮影中にしきりに発していた言葉が“想像力”ということだった。
 山田監督は言う。「想像できる能力を持つことが、この地上に平和をもたらすことになる」のだと…。
 スタッフにも、キャストにも、想像力を要求し、ひとつ一つのセリフを丁寧に、ひとつ一つの場面を慎重に創り上げていったことがメイキングビデオから伝わってきた。
 このメイキングビデオを観て、ぜひとも映画本作を観なければと思ったのだ。

 12月15日(火)午後、ユナイテッドシネマに向かった。
 平日の昼だったが、公開直後(12月12日)であり、しかも話題作とあってかなりの観客の入りだった。
 ストーリーについては、ネット上でもいろいろ出ているのでそちらに譲るとして、私の率直な感想は、もしこの映画をエンターテイメントとして観るとしたら少々辛いかな?という感じである。これといった山場もなく、劇的な展開もない。
 原爆で亡くなった医学生の息子(二宮和也)が亡霊となって現れ、その母(吉永小百合)と語り合う場面が主の映画である。原爆の被害に遭った市井の家族を描く映画であるから、色調としては当然のように全体が暗く、重い感じである。
 ただ、唯一山田監督が最後までこだわったという原爆投下の場面にはハッと驚かれた。どのように描かれたかについては映画館で体験してみてほしい。

          

 したがって、残念ながら映画として大ヒットするという予感はあまり感じさせない。それは山田監督としては本意ではないかもしれないが、映画がヒットする、しないという問題と、映画そのものの価値とはあまり関係はないように思う。
 この映画の価値、それは戦後70年が経過し、戦争や原爆の悲惨さを知る世代が非常に少なくなってしまった今、戦争の悲惨さを知る世代の山田監督としてはどうしても伝えたかった、遺したかったテーマだったのだと思う。
 メイキングビデオで監督は次のように語っている。
 「人間が幸せになることを妨げる条件の中に戦争というものがある。それから原子爆弾というものがある。地上から戦争というものがなくならない限り、人間は幸せとはいえない」

 そして映画の中で、脚本家・山田洋二は母である吉永小百合に次のようなセリフを語らせた。それは、息子・浩二が原爆で亡くなった自分を「運命だったんだよ」と言ったときに、母は「そんなことを云っちゃダメ。地震や津波で亡くなるのは運命かもしれないけれど、原爆は人の手で、人の意志で何万人もの命を奪ったんだから…」(私の記憶によるものなので、正確なものではありません)

              
              ※ 医学生・浩二と恋人・町子が愛を語り合う場面です。

 「戦争を知らない子どもたち」第一世代である私自身に立ち返って、この問題を考えたとき、山田監督が言う本当の意味での“想像力”が豊かであったかどうかと問われた時に、その豊かさの欠如に気付く。
 幸いなことに、曲がりなりにもこの70年間、日本には戦争というものは存在しなかったと言えるだろう。しかし海外に目を移せば、戦争による悲惨な現実が毎日のように報じられている。彼らが感じている絶望や怒りに思いを寄せつつ、戦争のない世界の実現のために自分なりに寄与しなくてはと考えさせられた映画だった。

 ぜひ、映画館に足を運び、山田監督の思いに浸る時間をつくってほしいと思います。


映画 145 幸福の黄色いハンカチ

2015-12-15 16:25:00 | 映画観賞・感想

 ご存じの今は亡き高倉健主演の映画としてあまりにも有名な映画である。何度か観た映画であるが、主演はもちろん高倉健であり、倍賞千恵子なのだが、今回観て脇役の武田鉄也、桃井かおりの存在がとても効いていた映画だと率直に思った。 

                

 12月14日(月)午後、めだかの学校の12月学習として「映画の中の北海道-昭和編」で山田洋二監督・脚本の「幸福の黄色いハンカチ」が取り上げられた。 
 「幸福の黄色いハンカチ」は名作だけにDVDはもちろんのこと、TVでも何度か取り上げられ、私も何度か観ていた。しかし、映画は大画面で、辺りを暗くした中で観るもの、というある種の固定観念が私の中にはあるので、やはりこの日のような環境で観て初めてその映画の良さに触れられたと思うのである。

               

 ストーリーについては今さら説明するまでもないが、ちょっとしたはずみから殺人事件を起こし、網走刑務所に服役していた勇作(高倉健)が出所したところに、北海道を旅行中の欽也(武田鉄也)と朱美(桃井かおり)が偶然にも巡り会い、そこから3人の北海道横断の旅が始まる。
 旅する中で、勇作は服役中に愛する妻・光枝(倍賞千恵子)に離婚を言い渡して成立していたが、勇作は光枝を忘れられないでいることを欽也と朱美は知ることとなる。勇作は出所した直後、光枝に「もしまだ待っててくれるなら、黄色いハンカチをぶら下げてくれ…」というハガキを出していた。そして、その結果…。
 言わずもがなである。映画のラストシーンは黄色いハンカチが満艦飾のごとく、夕張の空にはためいているという感動のシーンを映し出してエンディングとなる。

              
               
 映画を観ている途中から、「この映画は、高倉健の映画というより武田鉄也と桃井かおりの映画ではないか」と思い始めていた。確かに高倉健は翳のある難しい役を好演していた。しかし、それ以上に武田鉄也はコミカルな役に、桃井かおりは少々軽薄な役を、それぞれ好演しながら、勇作と光枝が再会するための重要なキューピット役を務めていたのだ。
 オーバーに言えば、高倉健はただ立っているだけで良く、高倉健の周りを賑々しく動き回る二人が実はこの映画の良さを決定づけていたように思えたのだ。

 高倉健のファンからはお叱りを受けるかもしれないが、特に武田鉄也のあざとく見えるほどのコミカルな演技が観客の苦笑を誘い、それが独特のアクセントとなって、高倉健の良さを引き出していたようにも思えた。
 聞くところによると、武田鉄也にとって映画出演第一作目だということだ。この後、彼は「三年B組金八先生」などドラマ、映画に大ブレイクしたことは多くの人の記憶にあるところだ。

 同じ映画を何度も観る、という経験はそれほどないが、少し見方を変えると、そこからまた別の良さや面白さを感ずることができる映画とは、やはり名作なのだと思う。


北海道低山紀行 52 藤野富士<冬>(651m) 後編

2015-12-14 22:24:13 | 北海道低山紀行 & Other
 「頂上まであと500メートル この先急坂です」という標識を過ぎた地点から、ルートの様相は一変した。それまでの楽ちんムードから、登攀モードに激変である。平地仕様のマイスノーシューは悪戦苦闘するのだった。 

 「あと1Km」の標識を過ぎてもなだらかな作業道のようなコースは変わらなかった。藤野富士を北から大きく巻いたコースはどうやら南面に差しかかったようだ。快晴・無風のこの日はコース上にも陽が差し込み、汗ばむくらいだった。
 不思議だったのは、先行した登山者の跡が見当たらなかったことだ。

               
        ※ コースはずーっと作業道のようなところを進む楽なコースだった。不思議なのは先行者の跡がなかったことだ。
               

 多少傾斜がついてきたかな、と思っても問題なるほどの傾斜ではなかった。
 そしてスタートから1時間10分が経過した頃、「頂上まであと500メートル」と書かれた標識の地点に立った。その標識には、その後に「この先急坂です」とも書かれていた。

               
               ※ 「頂上まであと500メートル」の標識からが本当の登山だった。

 標識は嘘つかない!!
 いきなりの急坂が始まった。それはヘタをすると雪を噛んでいるはずのスノーシューの爪が効かずにずり落ちてしまうほどだった。
 ちょうど氷面を登るクライマーがアイゼンの爪を蹴り込むようにして進むのを真似て、スノーシューの爪を雪面に食い込ませるように一歩一歩蹴り込みながら慎重に登った。
 私が急坂と格闘している時、先行している二人組はルートから外れた山林内を下山していた。きっと藤野富士を何度も登った経験のある方なのだろう。

               
            ※ 登山の写真でいつ残念なのは、斜度が実際よりはかなり緩やかな写ってしまうことだ。
             実際には文章表現したようにかなりの斜度のある傾斜を登ったのですが…。
               
               
 急坂の途中からは、その先行する人たちが残した足跡も見えるようになった。
 急坂はまだまだ続いた。
 実は、その急坂は登るときも大変だったが、下山のときはさらに大変だった。まともに降りるのは私には怖すぎた。私はカニの横ばいのようにして一歩一歩慎重に降りたのだった。それでも何度か尻もちをついたほどだった。

               
               ※ 傾斜がやや緩やかな地点に立っていた標識ですが「二五八」の意味は分からない。

               
               ※ 頂上近くの尾根のところでは、写真のように雪が付いていないところもありました。

 急坂で格闘すること20分。ようやく傾斜が緩み始めたが頂上はまだ先だった。
 山頂付近の尾根では雪が飛ばされるのか、溶けてしまったのか、ところとごろ岩が剥き出しのところもあった。
 傾斜が緩み始めたと思われたところから15分、時に12時10分、「藤野富士 標高651m」の標識のある山頂に立った。

               
               ※ 山頂付近はササも見えて積雪が少ないことが分ります。

               
               ※ これも山頂近くに、ケルンが築かれていました。何か意味があるのでしょうね。

               
               ※ 三度目の正直で立つことができた藤野富士の山頂の標識です。

 山頂はちょっとした広場になってはいたが、札幌市街地を望む北側が一部灌木が途切れて望める以外は、灌木に覆われて眺望は効かなかった。
 誰もいない山頂で、持参した熱湯を注いだカップウドンを頬張った。腰かけるところもなく、立ったままでの昼食だったが、こうした場所で食す熱々のカップウドンは最高のご馳走だった。

               
               ※ 山頂から見た札幌市街の様子です。左手に豊平川が見えます。

 30分間山頂にとどまり、下山を開始した。
 前述したように急坂の下りはちょっと怖かったが、その他はスイスイと登山時間の半分の時間で駐車場のある登山口(?)に着いた。
 sakagさん、情報提供ありがとうございました。おかげさまで三度目の正直が叶いました。

   
   ※ 下山時に、南側の山並みを撮ったパノラマ写真です。

【藤野富士(スノーシュー) データー】
標 高  651m
駐車場  「藤野聖山園」の駐車場を借りることができる。管理事務所に届け出ることが
必用。
行 程  登山口(?)→(30分)→「あと1キロ」地点→(20分)→「残り500m」地
点→(20分)→258地点→(15分)→藤野富士山頂
時 間  登山(1時間35分)下山(55分)
天 候  快晴、無風
登山日  ‘15/12/13

北海道低山紀行 52 藤野富士<冬>(651m) 前編

2015-12-13 22:43:24 | 北海道低山紀行 & Other
 三度目の正直と云おうか、はたまた何ごとも三度目といおうか、とにもかくにもようやく藤野富士の頂に立つことができた。今回の山行で、情報はできれば複数得ることの大切さを教えられた。 

               
               ※ まずは藤野富士の全景を!北向きの斜面はいつも暗くしか写らない。

 先日(9日)、藤野富士にスノーシューで挑んだところ途中で引き返してしまったことをブログにアップした。すると直ぐに、敬愛する函館の超人sakagさんから貴重なアドバイスをいただいた。
 sakagさんが夏に登ったところ、私が言うほど難しい山ではなかったとの言葉と共に、氏がトレースしたルートが地形図と共に示してくれた。
 それによると、車を駐車したところは藤野富士の北斜面に面しているが、ルートは北斜面から大きく東に迂回し東斜面から南斜面を登っていた。
 私は「正規のルートはない」というガイドブックを信じて、いきなり北斜面を登り始めてしまったのだ。そこは地形図によると最も等高線が密に描かれていて、斜度がきついことを表していた。これでは素人の私には無理だったのだ。

 そのアドバイスを得て、一日も早くリベンジを!と思っていたのだが、今日(13日)は天気予報も良いと出ていたので、再々挑戦を決め、時間にも余裕を持たせて9時30分に家を出た。
 問題はsakagさんが示してくれたルートでも、入り口が今一つはっきりと分からないことが不安の一つだった。

               
               ※ 私は写真の一番奥のところから山林に入りました。               

 「藤野聖山園」の管理事務所で登山届を提出し、用意を整えスタートしたのが10時25分だった。登山届を見ると、私より先に2人組が登っているようだった。
 墓園の最も奥のところから、墓園と山林の境のところまで上り、どこから山林に入ろうかと右往左往していた。sakagさんの情報によると「藤野富士登山口」という標識があるというので、それを探したのだが…。
 実は、管理事務所でもそのことを伺ったのだが、事務所の係員は冷たかった。「そのようなものがあることは知らない。私たちは別に登山を推奨しているわけではありませんから」と冷たい返事だったのだ。

               
               ※ この緑のテープを見つけることができたのが本日の成功の因でした。

 登山口の標識は見当たらなかったが、墓園と山林の境目のあるところに緑色のテープが下がっているのが見えた。ガイドブックでは「赤いテープがあちこちに垂れている」とあったので、きっと緑色のテープもその一つに違いないと考え、そこから山林に入っていった。
 すると、それから次から次へと緑色のテープが目に入り、「これは間違いない!」と確信をもった。

 緑色のテープを頼りにしばらく行くと、車が通れるほどではないが、作業道のようなところに出た。すると、今度は赤い印とともに「山頂」と記した小さな印が樹に打ち付けられていた。

              
              ※ 緑のテープから、この標識を見つけて確信に変わりました。

 そこからは、その作業道のような道は大きく東に迂回し始めた。その先々には、緑、赤、茶、ピンクとさまざまな色のテープが樹の枝先にぶら下がっていた。
 私も先日の紙テープを持参していたので、見通しが効かないようなところでは後続の方のために役立ちたいと思い、ところどころでピンクの紙テープをぶら下げながら進んだ。
 天候は快晴!風はなし!雪は一昨日の雨で締まっていて歩きやすいなだらかなコース。鼻歌でも歌い出したくなるほどの快適なスノーシュートレッキングだった。

             
             ※ 樹にテープを巻いたもの、枝にぶら下げたもの、印はさまざまでした。

             
             ※ ところどころにあったこのような標識も励みになりした。

             
             ※ この写真は南斜面のようです。雪の表面が少し溶けています。

             
             ※ 私もこうしてコース上にテープをぶら下げてました。

             
             ※ 写真でお分かりのようにスノーシューはほとんど沈まず、快適に歩けました。

             
             ※ スタートして30分後、残り1キロの地点を順調に通過しました。しかし、この後で…。


 ところが、そうは問屋が卸さないのが登山である。山頂近くで私はおおいに苦しめられた。

 (掲載写真が多いので、本日はここまでを前編として、明日ハイライトの後編をアップします)


鳥の祖先は恐竜だった!?

2015-12-12 23:35:33 | 大学公開講座
 ちょっと刺激的なタイトルを付けたが、今や研究者やマニアの間では常識のことらしい。今をときめく恐竜学者の小林快次氏の講義に講義室が溢れるほどに受講者が詰めかけ、かなりの方々が立ったままの受講を強いられるほどだった。 

               
               ※ 土曜市民セミナーの開催告知ポスターです。             
  
 北大総合博物館の土曜市民セミナーが今日(12日)午後開講された。
 今回のテーマは「恐竜の鳥化―脳、内臓、翼、子育ての進化―」と題して、古脊椎動物学の小林快次准教授が担当した。
 小林准教授はまだ44歳という若さだが、日本を代表する恐竜学者として名を馳せ、NHKの番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」でも取り上げられるなど、今や相当な有名人である。
 そんなこともあってか、ふだんの土曜市民セミナーはシニア層を中心とした受講者が多いのだが、今回は若い人たちの姿が目立ち(子どもも多かった!)、定員の212名を遥かに超える受講者が詰めかける事態となった。

            
            ※ 小林氏の顔写真はウェブ上から拝借しました。

 そのような熱気の中で始まったセミナーだったが、マニアにとっては小林氏のひと言一言が垂涎のような言葉の数々だったのだろうが、残念ながら私には難解な内容だった。
 そうした中で、かろうじてまとめてみると次のようになるだろうか。
 巨大な恐竜が鳥類に進化したと結論づけたのは、科学者たちが詳細な系統図を作成する中で、獣脚類の仲間が枝分かれして、やがて翼を獲得し、そして空を飛べる能力を身に付けた。その結果、地球に巨大隕石が衝突して地上の生物が滅亡の危機に瀕したときに、空を飛べたために唯一生き残ったと考えられているそうだ。

     
     ※ 恐竜から鳥類に進化する過程の概念図です。

 小林氏は特に触れなかったように記憶しているが、獣脚類(ティラノサウルスやスピノサウルスなど)が翼を得、空を飛べる能力を獲得する過程において、彼らは他の恐竜より早い速度で体を小さくする進化を遂げていたという。
 小型化を図りながら、一方で羽毛も獲得していったようだ。中国において羽毛恐竜の化石も発掘されているという。

 小林氏は恐竜が鳥化するために、脳や、内臓、翼がどのように進化していったかを話してくれたが、それらを逐一理解する力は私にはなかった。
 その中から一つだけ、内臓の進化について触れたい。獣脚類の化石を調べていると、内臓は化石として残らないものの、消化器官にあたる部分から「胃石」が発見されたそうだ。「胃石」があるということは、草食の証拠である。つまり肉食だった獣脚類が、雑食あるいは草食に進化していったことを表す証拠であるとした。

               
               ※ 小林氏の著書の一冊です。

 その他にもマニアや興味ある方には、たまらない話が満載だったのだと思われるが、私にはネコの小判的であった…。
 それでも自分の興味の対象外の話にも出会えるのが、博物館土曜市民セミナーの面白みなのかもしれない…。