田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

あゝ、懐かしきかな置戸町…

2020-01-21 16:50:08 | 「めだかの学校」関連

 画面に映し出される置戸駅が、置戸小学校が…、そして公民館、図書館が、全てが当時の置戸町だった。私が新卒後初めて赴任したのがオホーツク管内の置戸小学校だった。以来置戸には10年間もお世話になった。画面に映し出される全てが懐かしかった…。

          

           ※ 置戸町のカントリーサインは、特産の木工品オケクラフトです。

 昨日(1月20日)は、私が集う「めだかの学校」の新年初めての学習会があった。学習会の内容は「ふるさと動画視聴会」の4回目だった。今回取り上げられたのは、オホーツク管内の遠軽町と置戸町だった。遠軽町にも3年間ほどお世話になったが、何といっても置戸町である。何せ私の20代のほとんどを過ごさせてもらった町である。

 上映された映像は「置戸町開基50周年記念映画」だった。調べてみると置戸町の開基50周年は1965(昭和40)年だった。私が置戸小学校に赴任したのが1970(昭和45)年だから、映像は私が赴任する5年前のものだった。

 映像ではいきなり置戸小学校が映し出された。当時としては珍しい堅牢なブロック建築の校舎だったために記録では1953(昭和28)年に建てられてから、2009(平成21)年まで当時の校舎が永らく使われていたという。

 その他、当時の懐かしい建物が次々と映し出された。置戸駅、中央公民館、老人ホーム「常楽園」、当時新築なったばかりの町立図書館、等々…。

   

   ※ 置戸町の市街地です。ご覧のように左右から山が迫ってくる山間に広がった町です。

 街並みは私が頭に描いていた当時の街並みよりははるかに賑やかで、商店街を行き交う人たちの表情も生き生きしていた。町内には多くの木工場(確か9つの工場が稼働していたとナレーションでは云っていた)が木材を生産し、あの山間の街も活気を呈していた。

 私に社会人としての基礎を培ってくれた置戸町は進取の気性に富んだ町だった。町からは多くの人材が輩出された。特に社会教育(現在の生涯学習)の盛んな町で、私もこの町で学んだことが契機となり、その後一時社会教育行政の道を歩むことになったのもこの町に職を得たことが大きかった。

 「ふるさと動画視聴会」は昔の動画を視聴するだけではなく、併せて現代の動画も視聴している。しかし、現在のふるさとを映す動画は、どの市町村のものを見ても言葉は悪いが金太郎飴を見ているようでどれも印象に残らない。あまりにもきれいごとに創りすぎている感じがするのだ。置戸町とて例外ではなかった。街並みは国交省の助成制度を活用した(?)のか過去を一変するように様変わりしていた。それと軌を一にするように置戸小学校も、公民館も、図書館も一新してしまい、昔の面影はまったくといって良いほど見当たらなかった。

          

          ※ 置戸町の位置と、置戸町へのアクセス方法です。

 しかし、道内の各市町村同様、いや山間にあるためなお一層過疎化の波は激しいようだ。開基50周年当時は12,000人弱だった人口が、2019年9月現在で2,856人まで激減している。過疎化は我が国の地方においては全国的な傾向とはいえ、私にとって第二の故郷である置戸町が激しい過疎化の波に洗われているのが寂しい。しかし、山間にありながら進取の気性に富んだ置戸町はまちづくりにおいていつも注目される町の一つだった。これからも小さくてもぴかりと光る小さな自治体として存続してほしいと心から願った「ふるさと動画視聴会」だった。

   

   ※ 「めだかの学校」の新年会の様子です。

 その後、私たちは今年初めての顔合わせだったこともあり、場所を移し駅前の某居酒屋において新年会を催し、楽しく歓談したのだった。


今期の学習支援活動終了!

2020-01-20 21:41:20 | ボランティア

 子どもが学習に躓いているところにそっと寄り添い的確(?)なアドバイスを送ることができた。一方で、どうも集中できていない子に「おい!頑張れよ!」と助け舟を入れながら今期も児童会館の学習支援活動に携わった。

 2016年の冬から続けている長期休業中の児童会館における学習支援活動だが、今季も継続して実施された。

 私たちの退職組織は、自分たちのキャリアを少しでも地域のために役立てさせてもらおうと、地域の児童会館の二つの館に出向いて長期休業期間の学習支援活動を行っている。

 今季の冬季休業中も1月7日から15日までの平日の7日間、会員が手分けして学習支援活動を行った。

 私はそのうち、1月8日、10日、14日の三日間の活動に参加した。

   

  私たちは中央区にある○○児童会館と△△児童会館の二つの児童会館の学習活動を支援している。これまでは○○児童会館と△△児童会館の学習時間がうまい具合に30分の時差があり、○○児童会館の学習支援が終わってから、○○児童会館の学習支援の時間に駆け付けるのにちょうど良い時間帯だったのだが、今季はその間に1時間以上の間が空き、そこの時間調整が大変だった。

 今期感じたことの一つが、二つの児童会館における児童の学習に向かう姿勢の違いだった。○○児童会館は館長さんの指導も徹底され、児童の学習に向かう姿勢がしっかりとできているな、というように見て取れた。一方、△△児童会館の方は会館の規模に対して児童数が多いこともあり指導が徹底されていないきらいがあり、児童の学習に向かう姿勢にも問題を感じた。

 問題を感じたとは言っても、私たちはあくまで子どもたちが学習していて、躓いた点をアドバイスするというのが趣旨であるから、学習態度に問題がある児童に対して積極的に指導をする立場ではない。(そこのところが難しい点である)

   

 しかし、そこのところを何とかしたいとも思う。見ていると、館長さんの指導の仕方にも違いが見えてきた。どうも△△児童会館の場合は、多人数ということもあり大声で頭ごなしに指示している場面が多く見られた。ここはもっと理性的な対応ができないものだろうか?例えば、指示一つにしても「静かにして、こちらを見なさい!」という指示ではなく「先生のおへそのところを見なさい」というような具体的な指示を出すことで子どもたちの集中力は確実に違ってくる。

 こうした私たちが長年の間で培ってきた指導力をもう少し発揮できる場があってもいいのではないか、と最近思うようになってきた。

 来る29日(水)には学習支援活動に携わった方々が集まる「児童館学習支援活動お疲れ様会」が予定されている。その中でそうした話題も皆さんに投げかけてみたいと思う。


山崎豊子著「二つの祖国」

2020-01-19 19:28:46 | 本・感想

 天羽賢治(あもうけんじ)は、日系二世としてロスアンゼルスの邦字紙に勤める新聞記者だった。そこに太平洋戦争が勃発し、日系二世の人たちは塗炭の苦しみを味わうことになる。天羽は日本とアメリカの二つの祖国の狭間にあって苦悩し、翻弄されることになる…。

    

 書評は努めて避けると述べながら話題に事欠くことになり、しかたなく最近読了した「二つの祖国」について若干の感想を綴ることにする。

 昨年末、私は「山崎豊子に嵌った」と題して「沈まぬ太陽」「華麗なる一族」、「大地の子」、「不毛地帯」、「白い巨塔」と次々と読破したことを投稿した(12月26日付https://blog.goo.ne.jp/maruo5278/d/20191226

 その後、またまた「ブック○○」に出向き、「二つの祖国」(全4冊)を買い求めようとした。ところが全てが揃ったものが見つからなかった。私は市内の3店舗を回ったのだが4冊全てを揃えることができなかった。そこで初めて図書館を利用することにした。そしてお正月の間「二つの祖国」を読みふけっていたのだった。

 「二つの祖国」もこれまで読了した他作と同様にスケールの大きな作品だった。

 太平洋戦争が勃発すると天羽たち日系二世の人たちは敵性外国人として残らず環境の厳しい収容所に入れられてしまう。天羽は幼いころから大学に至るまで父親の故郷の鹿児島で育てられたことから日本語に堪能だという理由から収容所の通訳、そして苦悩しながらも自ら希望して米軍の通訳へと変遷を辿る。その中においても絶えず、日系として差別されながらも彼なりに誠心誠意アメリカのために、アメリカ軍のために尽くしたが、内心は鬱々たるものを秘めていた。その間、天羽の弟正は開戦時に日本にいたことから日本軍に、末弟の勇は両親や天羽の反対を押し切ってアメリカ軍に従軍することになった。末弟の勇は戦死、次男の正は戦場で天羽と対峙するという運命を辿る。(そのさい、天羽は心ならず正を誤射してしまうが正は死亡することなく捕虜となる)

 やがて終戦を迎え、天羽は東京裁判の通訳としての任務が待っていた。天羽はあくまで米軍の通訳であったが、連合国側の論理で進められる東京裁判に対して鬱々とした日々を送るのだった…。

 物語はここに書ききれるほど簡単ではなく、複雑に、遠大に、そのスケールの大きさで進行するが、史実を折り曲げることなく忠実に再現しながら、そこに山崎豊子が創造したフィクションが挿入されていく。

 これ以上のストーリーの紹介は避けよう。ただ、やりきれないのはこれまでの山崎の著書同様に物語はけっしてハッピーエンドで終わらなかったということだ。それは何を意味するのだろうか?軽々に結論付けることはできないが、私なりに考えると、壮大なスケールで描かれる山崎の世界においては、個人の感情とか思いがないがしろにされながらも、目に見えぬ大きな力で動いているということを示唆しているのだろうか?そしてハッピーエンドに終わらせないことによって、物語を読者の深いところに沈殿させたいという思いがあるのだろうか?

 ともかく山崎豊子氏の著書は魅力を秘めている。私は次の作品「運命の人」(全4冊)をすでに手元に置いている。


スノーシュー in オコタンペ湖周辺

2020-01-18 18:28:42 | スノーシュートレック & スノーハイク

 快晴! 無風! 絶好のトレッキング日和の中、深雪、そしてワイルドな自然の中でスノーシュートレッキングを楽しんだ! しかし…。タイトルにその思いを込めた…。

 箱庭的(?)な市民の森の散策から、もう少しフィールドを広げてみようと考えた。そこで北海道の山メーリングリスト編の「北海道スノーハイキング」を参照して、まずは支笏湖の近くにある「オコタンペ湖」を目ざそうと決断した。

 本日(1月18日)、起床すると空は晴れ、風もない状態だったのを見て、即実行を決めた。

 朝8時半、自宅から国道453号線を支笏湖へ向けて車を走らせた。

 支笏湖に至る手前にオコタンペ湖に向かう分岐点のところがスノーシューの出発点である。約1時間かかって到達したところ、なんとそこに一人の男性が仁王立ちしていた。彼が言うには「冬まつりのための雪の輸送をしているので、危険防止のために人の往来を禁止している」と云うではないか!「えーっ!?」と思ったが、彼の言葉を無視するわけにはいかない。彼は気の毒に思ったのが「別のところからオコタンペ湖を目ざしている人がいる」と教えてくれた。そういえば、分岐点に至る前に車を駐車している人たちを見かけたので、そこへ向かってみることにした。

 そこへ行ってみると、車が5台ほど駐車していて、一組の親子がスノーシューで出発の準備をしていた。その親子に「これからオコタンペ湖へ向かうのですか?」と問うと、「ええ、ここは初めてなのですが、目の前の山道を行き、途中から左に折れて山麓をトラバースすればオコタンペ湖に行けると思うのですが…」という答えだった。彼の言葉を頼るしかない。

          ※ 車を駐車した目の前に林道が続いていた。この道を行けば??

 私は山道に付けられた踏み跡を辿って山へ向かってスノーシュートレッキングを開始した。彼らは親子だったこともあり、私を先に行かせてくれた。山道はスノーモービルの跡もあり、斜度もそれほどではなく、淡々とした緩やかな上りが続いた。空はピーカンに晴れ、風は全くなく、気持ちの良いスノーシュートレッキングだった。気になったのは、踏み跡が本日のものではなく1~2日前のものだったことだ。(先に出発した人たちはどこを通ったのだろう?)30分経過しても様子は変わらず、オコタンペ湖方面との間に大きな沢が横たわっているのが不安だった。

    

    ※ 林道には踏み跡だけではなく、スノーモービルが走った跡もついていた。

    

    ※ 途中に「フルマナイ林道」という看板があった。距離1万7千m余と表示されていた。

 45分も経過したころだったろうか?踏み跡が少なくなり、深雪状態になってきて先行者の踏み跡が沢を横断するように続いていた。むろんそこを辿るしかなかったが、沢を渡って向こう岸に辿り着くのに崖のようなところをよじ登らねばならず、苦労して対岸に出た。踏み跡はスノーシューではなく、明らかにツボ足と思えた。「こんな山奥までツボ足とは、いったい何が目的だったのだろう?」と思えた。1時間を経過したころ、ついにそのツボ足の踏み跡も見えなくなったしまった。

    

    ※ 行く手の左側の山の向こう側に「オコタンペ湖」があるはずだ。

    

    ※ 一方、前方には「漁山」と思われる白い壁が立ちはだかっていた。

    

    ※ 数日前の先行者の足跡は沢を渡っていくように付いていた。

    

    ※ いよいよ足跡はただ一人のツボ足の足跡だけとなった。

    

    ※ そしてついに足跡がなくなってしまい、私は一度ここで「引き返そうか」と思ったのだが…。

 「ここまでかぁ…」と思って立ち止まっていると、例の親子が私のところに追い付いてきた。その親はかなり雪山のベテランらしく、踏み跡が消えたのも意に介さず私を残して登り続けた。下山しようかと思案していた私に遠くから「踏み跡が見つかりました!」と知らせてきた。

   

   ※ 冬らしい山の写真がなかなか撮れません。かなり山中奥深く入ったところで松の枝に雪が乗った一枚です。

 その声に励まされ、私も下山を取り止め彼らに続いた。山容はますますワイルドになってきた。急な上り下りが続き、思わずしりもちをつく場面もあった。そうしているうちに、遠くの彼から「ついに足跡も無くなってしまいました」との声が伝えられた。

   

   ※ 行先に詰まった親子が立ち止まっています。そこまで私が行ったとき…。

 そこへ行ってみると、前方を大きな流れが横切っていて前へ進む道は閉ざされていた。前方には彼が言うには「魚山」の壁が立ちはだかっていた。私は「これ以上の前進は無理だ。引き返そう」と決断した。そのとき行動開始から1時間40分が経過していた。

 しかし、件の親子は「まだ時間も早いし、もう少し頑張ってみます」と、大きな流れの中に横たわっていた一本の木を伝い、流れを横切り渡っていった。

   

   ※ 親子はこの一本の木を渡って先へと進んでいきました。私はここから折り返しました。

 私は彼らに別れを告げ、もと来た道を引き返したのだった。帰り道に要した時間は1時間10分だった。

 「オコタンペ湖」に到達できなかったことが無念であった。そこで、再び例の分岐点に行って、関係者に問うてみることにした。関係者に問うてみると、さっぽろ雪まつりの雪の搬送のためではなく、「支笏湖氷瀑まつり」の会場設営のための雪の搬送をしているとのことだった。そこで「いつまで?」と問うと、「本日中に終了予定」とのことだった。どうやら本日だけの措置だったようだ。運が悪かった。

 「オコタンペ湖」が気になる。「オコタンペ湖」をぜひこの目で見てみたい。他日を期そう。ということで、当初の目的は達成できなかったが、少雪の札幌市内とは違い雪の量もそれなりにあり、快晴の中でスノーシュートレッキングそのものは楽しむことができたのでヨシとしよう…。

 

 


映画 不良少年(ヤンキー)の夢 №263

2020-01-17 17:04:25 | 映画観賞・感想

 映画は2005年制作の映画である。公開当時にこの映画を観ていたらこの日とはまったく違った感想を抱いたことだろう…。というのも、この映画の原作は現衆議院議員の義家弘介氏のベストセラー自伝が原作だからである。

          

 映画三昧の三日間であった。といっても有料の映画は「パラサイト 半地下の家族」だけだったが…。

1月16日(木)午前、札幌市生涯学習センター(通称:ちえりあ)のちえりあホールにて今年第1回目の「ちえりあ映画会」があった。今回取り上げられた作品は2005年制作の「不良少年(ヤンキー)の夢」だった。

 映画の原作者である義家弘介氏は映画公開時には、テレビなどで「ヤンキー先生」として有名となり、北海道内、とりわけPTAなど教育界において共感を寄せる方が多かった。私は確か2004年頃だったと思うがPTA研究大会において義家氏の講演を聴く機会があったが、その弁舌の爽やかさ、実践の素晴らしさに聴き入ってしまったほどだった。

   

   ※ 映画「不良少年の夢」関係者。左から伴杏里、松山ケンイチ、真野響子、義家弘介(原作者)、

     花堂純次監督、三村順一プロデューサー

 映画は素行不良のためにどこも受け入れるところがない義家少年を北星学園余市高校が受け入れた高校時代を描き、やがて母校へ教師として戻ってくるまでを描いたものである。

 もし私が映画が制作された2005年頃に観たとしたら「よくぞ立ち直り、母校に教師として勤めるなんてすばらしい!」と素直に感動したことだろう。しかし、義家弘介氏のその後は2005年に北星学園余市高校を退職し、横浜市教育委員に就任、さらには参議院議員、衆議院議員と変遷を重ねる中で、義家氏の言動が教師時代とは正反対の言動を重ねていることを知り、今になってこの映画を観てもどこか鼻白む思いがするのだ。教師時代には弱者の側に立って、生徒の心に寄り添い、生徒が立ち直るために全身全霊を傾けていたあの義家弘介氏はどこへ行ったのだろうか??

        

 義家氏のことはともかく、映画の中で義家弘介役を演じた松山ケンイチは心の弱さを内包しつつもツッパリ役を好演していた。また、実際の中でも義家氏の良き相談役だった安達俊子先生役の真野響子も、映画の中の重要な役として存在感を示していた。というように映画として観る分については十分楽しめる出来の映画であった。


映画 パラサイト 半地下の家族 №262

2020-01-16 16:07:24 | 映画観賞・感想

 話題の韓国映画である。なるほど話題になる映画だと思った。コメディ、ヒューマン、サスペンス、ホラー、アクション…、あらゆる要素が詰まっていて、最後まで緊張感を持続させてくれた韓国の巨匠ポン・ジュノ監督の手腕に驚いた。

        

 私が映画館に足を運ぶ際の動機の一つは、他からの評価が高い場合がある。今回の映画もNHK・TVで日本の巨匠・是枝裕和監督と本作の監督であるポン・ジュノ氏が対談をしていて、是枝監督が絶賛しているのを聞いて「これは観なければ!」と思い立った。

 昨日(1月15日)午後、ユナイテッドシネマに行くと、平日にもかかわらず客席がほとんど埋まるほど、やはり多くの人たちが関心を持っている映画のようだった。

    

   ※ 貧民街の半地下の家に暮らす主人公一家の4人です。ピザの箱の組み立ての内職をしている図です。

 映画は韓国のみならず、世界に広がる格差社会の現状を鋭く炙り出しながらも、あくまでフィクションに徹する形で映画として完成させているものである。

 パラサイト…私は「寄生」と訳するが、韓国の都会(ソウル?)の貧民街の半地下の一室に暮らす一家の息子があることから超高級住宅地に住む会社社長の家庭教師に採用されたことから、一家の妹、父親、母親と次から次にその社長宅に採用されることになるというとんでも話なのである。しかし、そこからの展開が凄い!もう私たちの予想を覆すような展開が次から次へと巻き起こる。観て損はないと断言できるほど面白い映画だった。

    

    ※ 主人公たちがパラサイトした豪邸の一部です。

 題材が格差社会を炙り出すことから監督のポン・ジュノ氏を“社会派”監督とカテゴライズする向きもあるようだが、ポン氏ご自身はそういう呼称をヨシとしないようだ。是枝監督との対談で、「私はむしろ“映画派”だ」と語ったことが印象的だった。それはまた是枝氏とも通ずるところであるように思われる。

 確かに格差社会に焦点は当てているものの、その矛盾をストレートに表現するのではなく、あくまで映画的なエンターテイメント性を損なうことなく描き切ったところにこの映画の素晴らしさがあるように思う。映画は昨年末のカンヌ映画祭の最高賞を受賞し、今春のアカデミー賞の作品賞にもノミネートされたという。映画の素晴らしさを表現していたことからそうした評価も納得である。映画好きの方なら必見である。

         


映画 禁じられた歌声 №261 & 聖火リレートーチ

2020-01-15 18:37:19 | 映画観賞・感想

 あの「禁じられた遊び」を彷彿させる題名であるが、私の映画の見方が悪いのか?題名と内容がマッチしていなかったり、主題が今ひとつはっきりしなかったりなど、消化不良の思いで映画を観終わってしまった…。

        

※ 映画タイトルの後にナンバーリングを付けた。この数字は私が2007年に札幌に転居後に観た映画の通算の映画の数である。「映画は最高のエンターテイメント」と考える私にとって、これからも有料・無料にかかわらずできるだけ映画を観ていこうと思っている。

 昨日(1月14日)午後、エルプラザにおいて本年初の「エルプラ・シネマ」が開催された。今回取り上げられた映画は2014年制作のフランス・モーリタニア合作の「禁じられた歌声」だった。

 最近の私は映画をより理解するために、映画を観る前にウェブ上で予め内容をチェックしてから観賞するように努めている。今回もその例に漏れずチェックしたところ、次のようにあらすじが紹介されていた。

「西アフリカ、マリ共和国の古都ティンブクトゥを舞台に、イスラム過激派の弾圧に立ち向かう家族の戦いを描いた。ティンブクトゥ近郊の街で暮らす音楽好きの男ギダーンは、妻サティや娘トーヤ、12歳の羊飼いイッサンと共に幸せな毎日を送っていた。ところがある日、イスラム過激派が街を占拠し、住民たちは音楽もタバコもサッカーも禁じられてしまう。住人の中にはささやかな抵抗をする者もいたが、ギターン一家は混乱を避けてティンブクトゥから離れた郊外に避難する。しかし、ある漁師がギターンの牛を殺したことをきっかけに、彼らの運命は思いがけない方向へと転がっていく」とあった。

     

     ※ イスラム過激派からの迫害を逃れ、砂漠でのんびり暮らしていた頃のギダーン一家です。

 私はこの紹介を読んで、イスラム過激派が占拠した地域で理不尽な振る舞いをすることに対する抗議の映画かな?との思いで上映会に臨んだ。

 確かに映画のそこここにISIL(イスラム国)を彷彿とさせるイスラム教過激派が住民に対して理不尽な要求や惨いリンチをする場面が描かれているが、映画の主人公であるギターンの運命が思いがけない方向へ転がっていくことにイスラム教過激派が特に関わっていたわけではない。たまたま漁師との間の諍いによって彼が持っていた拳銃が暴発したことで警察権力まで掌握したイスラム教過激派の兵士にギターンが裁かれるということなのだ。

     

     ※ 素手を見せてはいけないという過激派の指示に逆らったために弾圧される女性の嘆きです。

つまりギターンの運命が思わぬ方向へ転がっていく直接の原因にイスラム教過激派は関与していないのである。映画はその題名が表すとおりイスラム過激派によって住民が楽しみにしていた音楽を取り上げてしまったことを示唆する題名なのだが、映画のストーリーはギターン一家の悲劇が主たるテーマのように思えた。このあたりが私にはどうも釈然としない思いが残った映画だった。

 映画を観終えて会場を出たところで、観客の方がその点をスタッフに問いかけていた方がいたが、あるいは同じ思いだったのかもしれない…。

 

聖火リレートーチ

 次の話題であるが、新聞に「ビッグカメラ札幌店」で東京オリンピック2020の聖火リレートーチを展示しているとの記事が出ていたので、映画の帰りに寄ってみた。

 トーチはお店の総合案内のところに置いてあったが、多くの人たちが写真を撮るために集まっていた。トーチは2本展示されていたが、2本の色が違っているのに気づいた。一本は金色、もう一本はブロンズ色だった。予備知識無かった私は、その点をスタッフに問いただしたところ金色がオリンピック、ブロンズ色がパラリンピックのためのトーチだということだった。トーチの特徴は炎の吹き出し口のところが桜の花びらを模しているところだそうだが、そこのところもしっかりと撮ることができた。

         

        ※ オリンピック聖火リレー用の金色のトーチです。

        

        ※ こちらはパラリンピック聖火リレー用のブロンズ色のトーチです。

   

   ※ トーチを真上から見ると炎の吹き出し口が桜の花びらを象っています。


1月14日は私のブログ記念日

2020-01-14 16:28:46 | その他

 1月14日は、私が2008年1月14日にブログの連続投稿を始めてから12年目となる記念日である。この間、一日も欠かさず(厳密には途中止むを得ず4日間だけ休んだ 後述)投稿を続けることができた。内容はともかくとして、連続投稿ができたことだけが私の唯一の誇りなのである。

 私がブログというものを知って始めたのは2006年5月6日である。ある意味ではこの5月6日がブログ記念日といえるかもしれない。しかし、最初の頃は月に10日~15日程度の投稿であった。当時は連続投稿という意識はなかった。   

 それがブログを始めて2年が過ぎようとしていた頃に「毎日投稿するように心がけようか」という思いになった。以来、どんなに苦しくても、毎日投稿することを自分自身に義務付けてきた。そう思えたのは私が退職したことによって気持ちに多少の余裕ができたこととも関連している。

 この12年間の中で、2009年11月13日から16日までの4日間だけ投稿することができなかった。それは私が眩暈を患い寝込んでしまったことがその理由である。私自身はその時も無理をして投稿しようと思ったのだが、第二の職場に勤務していて欠勤しているのにブログを投稿するという不謹慎なことはできないと考え断念したのだった。

 それ以外は何があろうとも休むことはなかった。この間、2度の海外旅行(2012年と2013年)もあったが旅行先の国の携帯関連会社と短期契約をして現地から投稿をした。また、自宅のPCが故障し、インターネットカフェから投稿したこともあった。(最近はスマホから投稿できるので楽になった)ともかく私にとっては、この連続投稿を自分の中でこだわり続けたことである。(誰も褒めてはくれないが…)

 私がもしかして他のブロガーと違っていることといえば、ブログ開始以来、拙ブログに対する閲覧数(PV)と訪問者数(IP)を記録し続けていることだろう。(2007年8月以来)ブロガーの中には「数字は気にしていない」という方もいるようだが、私は毎日この数字をチェックするのが楽しみである。まるで自分のブログに対して通知箋をいただくような思いで毎朝チェックしている。

  

 私はその数字を月毎に平均値を出し記録化している。そして年平均も記録している。それによると、年毎の訪問者数(IP)の変遷は、

◆2007年〈77.4〉  ◆2008年〈113.1〉 ◆2009年〈198.0〉 ◆2010年〈258.4〉

◆2011年〈370.6〉 ◆2012年〈357.3〉 ◆2013年〈365.3〉 ◆2014年〈412.6〉

◆2015年〈349.2〉 ◆2016年〈399.3〉 ◆2017年〈425.7〉 ◆2018年〈618.1〉

◆2019年〈810.2〉

 これを見ると、2015年、2016年と少し落ち込んでいるが、他は右肩上がりの変遷を辿り、今後もこの傾向が続いてほしいと願っているところだ。

 また、私は「高橋書店」の「THREE-YEAR DESK DIARY」を長年愛用しているが、そこに拙ブログのタイトルを毎日記入しているのも私のこだわりの一つである。3年手帳なので、前年、あるいは前々年にどんなことを投稿しているのか、思い出している。

 また、投稿を続けることによって時には思いがけない反響をいただくこともある。そのことについても触れたいのだが、また別の機会にしようと思う。

 これからもできるだけ連続投稿を続けたいと思っているが、果たしていつまで続くだろうか?連続投稿がもし止むときが来たときは、あるいは私がブログそのものの投稿を終える日が近いということなのかもしれない。そのような日が遠いことを念願しているのだが…。

   

    ※ ニュージーランドに旅した時もブログを投稿し続けた。写真は幻想的に美しかったクィーンズタウン

     のワカティプ湖です。

※ 参考までに近年の月別のアクセス数の変遷をまとめた表を添付することにします。

      ブログアクセス数(IP)の変遷      №7 

 

【2018月年】

【2019年】

【2020年】

《月累計》 

《平均》

《月累計》

《平均》

《月累計》

《平均》

  1月

12,906

416.3

 24,628

794.5

 

 

  2月

11,903

425.1

 21,282

760.1

 

 

  3月

14,479

467.1

 23,311

751.9

 

 

  4月

14,967

498.9

 23,011

767.0

 

 

  5月

17,478

563.8

 26,713

861.7

 

 

  6月

19,565

652.2

 25,039

834.6

 

 

 7月

19,078

616.1

 25,419

819.9

 

 

  8月

22,980

741.3

 25,754

830.7

 

 

  9月

23,005

766.8

 25,702

856.7

 

 

10月

24,754

798.5

 25,999

838.7

 

 

11月

21,086

702.9

 24,300

810.0

 

 

12月

23,410

755.2

 24,580

     792.9      

 

 

T&A(年)

    225,611

618.1

    295,738

810.2

 

 


スノーシュー in 西野市民の森

2020-01-13 16:45:53 | スノーシュートレック & スノーハイク

 市民の森の散策路としてはかなりハードなコースだった。アップダウンが連続するコースの西野の山中を約4時間彷徨い、雪中行軍を楽しんだ。

  

※ 今日の私は一番下の「西野西公園」から入り赤い線の散策路を「宮丘公園」口まで行き、そこから折り返しました。

 スカッと晴れた本日(1月13日)、今冬2度目のスノーシュートレッキングを楽しんだ。目的地は昨シーズン「宮丘公園」からの入り口が分からずに断念した「西野市民の森」を目ざした。今回は「宮丘公園」口とは反対の「西野西公園」口から入ることにした。

      

 地元の事情がよく分からない者にとっては「西野西公園」口からの方が分かりやすいと思ったのだが、現地に着いてみると案内の表示等はなくどこから市民の森に入るのか迷った。公園の中央に尾根に向かって急角度の階段が目に入ったので、付近にいた住民に尋ねると「尾根に上がると、そこから道がずーっと続いている」と教えてくれたので、市民の森の散策路だと確信してその階段を上った。

   

   ※ 「西野西公園」の真ん中付近に設けられた尾根に向かう階段です。

 階段を上がり切ると展望台のようになった第一のピークがあった。そこからは西野の住宅街が一望できた。

  

  ※ 階段を上がったピークからは西野地区の住宅街を一望出来ました。

 そこから尾根伝いに行くと、そこにまた入口のようなところがあった。はたしてそこが本来の入口なのだろうか?私には判断がつかない。

   

   ※ 尾根筋を往くトレッキングコースです。

   

   ※ これが何を意味するのか?あるいは入口として設けたものなのか??

 しかし、今冬は雪が少ない!階段を上ることもあり、持参したスノーシューを小脇に抱えてのトレッキングとなった。尾根に出てもまったくスノーシューは必要ない状態だった。ところが!アップダウンが続くコースでは靴が滑って危ない。アイゼンを持参していなかった私は滑り止めのためにスノーシューを装着してのトレッキングとなった。

   

   ※ コース内の案内はほとんどなく、こうした標識が何か所かにあったくらいでした。

   

   ※ コースの状況です。これまでの市民の森の散策路と比較すると、少し狭いのでは?

 コースは尾根から沢へ下りていくコースとなり、やがてこのコースの中間点付近に設けられた「西野浄水場」のところの入口に至った。そこには周りの色調から浮き上がった(?)ように目立つ青い色のトイレが鎮座していた。

   

   ※ コース途中に唯一合ったトイレです。(このあたりは市民の森らしい配慮かな?)

 しばらく沢コースが続き、何か所も沢の流れを跨ぎながら進んだ。それから今度は「251峰」を目ざしての上りが続いた。「251峰」はこの日の第2のピークだった。この峰からは木の枝越しに宮の沢方面の街並みを眺めることができた。

   

   ※ 沢伝いではこうした流れを何か所も跨ぎました。

   

   ※ こうして木製の橋を渡したところも3ヵ所くらいありました。

   

   ※ コースはますます狭くなって。251峰を目ざすコースです。

   

   ※ こちらは何の足跡でしょう?私はエゾシカの親子の足跡と見ましたが…。

   

   ※ この日の第2のピーク「251峰」の表示板です。

  

  ※ 「251峰」からは宮の沢方面の街並みが木の枝越しに見ることができました。

 「251峰」を過ぎると、「宮丘公園」口を目ざして急激な下り坂となって、転げ落ちるように(かなりオーバーな表現だが…)「宮丘公園」口に着いた。ここまで約3キロ、時間にして2時間かかっていた。

   

   ※ 「宮丘公園」口には、この看板と下の表示しかなく、市民の森の案内は皆無でした。残念!

   

 そこで小休止をとり、私は再びもと来た道を「西野西公園」口まで約2時間かけて戻ってきたのだった。

  

  ※ この一枚はピークでのものではなく、途中西野の街並みが最もよく見えた地点で撮りました。

 天気がとてもよく、厳しいアップダウンが続いたものの、心地良いスノーシュートレッキングができた一日だった。


エゾシカネット5周年の集い

2020-01-12 19:21:35 | 講演・講義・フォーラム等

 「楽しみながらシカとの共生を考えよう」というNPO法人「エゾシカネット」が活動を開始してから5周年を迎えたという。その記念の集いに参加した。

         

 本日(1月12日)午前、北区民センターを会場に開催されたNPO法人「エゾシカネット」の結成5周年の集いに参加した。私は「エゾシカネット」と特に関りはないのだが、一昨年に道民の森で開催された一泊二日の研修会に参加していたことから熱心に参加を誘われたことから参加を決めた。

   

 記念の集いの内容は、

 ◆講演「エゾシカさん、いただきます!」音威子府村エゾシカ猟師 秋山 實 氏

 ◆子どもたちの研究発表「エゾシカ・エゾリス・自然体験など」

   

 ◆「エゾシカポルカ」の体操体験

 ◆カンテレミニライブ

 ◆シカラーメン試食会

という内容だった。

 講演の「エゾシカさん、いただきます!」であるが、講師の秋山氏の肩書は「猟師」となっているが、その経歴は素晴らしい方で、東京電力でIT技術者として勤めた後、早期退職して株式会社eラーニングサービス代表取締役として会社経営を経営する傍ら、東北大学で博士号を取得するなど常に前向きに生きている方のようだ。

   

 そうした中で数年前に北海道に一か月滞在し山登りなどを楽しんでいた時にエゾシカの問題を知ったことで、秋山氏はその解決に情熱を注ぐことになる。秋山氏は音威子府村に居を移し、狩猟免許を取得するとともに、エゾシカ問題解決のために「エゾシカの6次産業化」に取り組むことを決意したそうだ。6次産業化とはご存知のように「エゾシカを獲る(1次産業)」×「エゾシカを加工する(2次産業)」×「エゾシカ製品を売る(3次産業)」を一手に取り組むこと(三者を掛けると6次となる)によりエゾシカ猟師の自活の道を探ろうというものである。

   

 秋山氏はエゾシカを加工する資格を得るために昨年春、名寄市立大学に入学し管理栄養士の資格取得を目指しているという。秋山氏は当年69歳であるが、その積極的な生き方、若々しい発想には心底驚いてしまった。

 北海道においてはエゾシカの急増問題が深刻な農業被害(年間50億円とも言われている)

を引き起こしていることから、その対策が急務となっている。「エゾシカの6次産業化」が確立され、エゾシカ猟師としての自活の道が拓かれたとき、北海道のエゾシカ問題の解決の道が見えてくるのかもしれない。秋山氏の試みが成功することを祈りたい。

 その他の集いの内容もそれぞれ意味があり興味深かったが、その全てを紹介することは私にとって困難である。そこで集いの目玉(?)である「エゾシカラーメン」の試食会についてレポすることにしたい。「エゾシカラーメン」はスープの出汁をとるのにエゾシカの骨の部分を利用するとともに、チャーシューにエゾシカ肉を利用したラーメンである。「エゾシカネット」の会員の方々が調理してくれた。味は醤油味だったが、スープはあっさり味でけっこうな美味しさだった。チャーシューの方は、エゾシカ肉は高タンパクで低脂肪という特徴があるが、その特徴があるいは人によって好き嫌いが分かれるかもしれない。

   

   

 会場内には北海道のエゾシカの現状を知らせるパネルが張り巡らされ、一隅にはエゾシカを利用した工芸品が展示即売されていた。

   

 「エゾシカとの共生を目指す」というエゾシカネットの思いが広がることを期待したい。