鮎と戯れて・・・魚族に感謝

東北地方を中心とした短い夏のあまり多くない鮎釣りの記録。家族に感謝して。近くの広瀬川の環境等にも拘るも、オフは時事問題も

最期を信じて・・痴呆性老人と暮らして(その5)

2007-04-03 22:52:51 | 思いつくまま

 くどいようですが、初めての方は、2月13日・3月8日・14日・16日・21日分から読んでいただければ、より理解が深まるのではないかと思いますので、よろしくお願いします。お手数をかけて申し訳ありません。

 

 【平成12年(西暦2000年)】

(21)11月6日;

ようやくにデイサービスへ出かける日明日が母にとっての介護開始日

 

 介護保険の申請をして、「要支援」と認定されました。それで、いろいろ相談したケアマネージャーがいる川向のデイサービスセンターへ通うことになりました。

 午前10時前後に迎えの車が来て、母を連れて行ってくれます。帰りも午後3時過ぎに車で送ってくれます。ありがたいことです。何がって、母が少しの間だけでも、家にいないことです。母と距離がとれることです。

 こんなことを書くと何と薄情な!とお思いになる方もいると思います。そう思うことは否定しません。否定はしませんが、いつも一緒に居ることのイライラ感、ストレス感を考えると、少しの間だけでも母を介護の専門家に預けるということは、本当にほっとするものです、安心します。心の洗濯?ができます。

 少しでも家族の気持ちが落ち着いてくれば、それだけ母に対しても優しくすることができるからです。

 

 徘徊をする認知症の家族を介護して苦労している人がいたら、家族が最期まで面倒を見なければならないと考えている方がいるとしたら、即刻それはやめるべきです。考えを改めましょう。何も恥ずかしいことではないです。何も薄情なことではないです。いい介護をするためには、介護をする家族の精神状態が安定していることが絶対に必要ですから。

 

(22)11月10日;

デイサービス三居沢での一日は楽しい不快分からず二日

 

 7日から10日までの間に2回デイサービスに通ったようです。でも、母の性格からして、外交的ではないし、どんな人とでもすぐに打ち解けて仲良くなるような性格ではないし、それに加えてアルツハイマー型の痴呆ですので、集団の中で、みんなと仲良く同調して何かをやるということは期待できませんでした。

 本人に楽しいかどうか聞いても、はっきりしないし、職員から特筆すべきことがあれば教えてもらうような状況だったでしょうか。

 でも、母がデイサービスにいる間は、家族にとっては静かなひとときを過ごせる貴重な時間でした。

 

(23)11月13日;

幻覚と幻聴に生きる我が母は日に日に悪化薬を飲めど

 

 幻覚幻聴が出てきていることは、前にも紹介したと思いますが、茶の間に家族が全員揃っているとき、突然母が「はいっ」と返事をしたり、誰々が来ているといったりすることは日常的なことでした。

 今でもはっきり思い出すことができるのは、また思い出すたびにもの悲しく感じることがあります。

 母は昔からおにぎりをつくるのが得意でした。貧乏だったこともあって?残ったご飯は必ずおにぎりにして、時に醤油、時に味噌をつけて、焼いていつでも食べられるようにしておいてくれました。

 みそ焼きおにぎりはとってもうまかったです。とくに少しこげができたおにぎりは格別でした。

 その日、母はいつつくったのか、小さいおにぎりを2個つくっていて、皿に乗せ、階段の踊り場にもっていくのです。そこに腹をすかせた小さい子どもがいるというのです。そして、「ほら、食べろ、食べろ」といっていました。

 また別の日のこと。今度は風呂場の脱衣所からガラス戸を開けて、やはり同じように自分でつくったおにぎりを外に向かって、「ほら、食べろ」と言っていたことがありました。

 以上は目撃したことですが、いつのまにか階段のところに皿に載せられたおにぎりが置いてあって、驚くよりはまたかと思ったりしたことがありました。

 優しい母の一面を現しているとも言えるので、そのときの母の気持ちをあれこれ考えたりすると、やるせないものがあります。

 

(24)11月17日;

痴呆症の母が突然居なくなり探す雨の中捜す皆で

 

 この日は、初めて母が逃げた、家から逃げ出した日でした。夜のことでした。この日私や妻は用事があって外出中で、家には二番目の子どもと母の二人しか居ませんでした。雨が、小雨が降る夜でした。

 9時過ぎですか、私が帰ってくると次男が外に出て、誰かを捜しているようなのです。聞くと、おばあちゃんが居なくなったと。慌てました。何ということをしてくれたのだ、と。

 よりによって、夜、しかも雨。最悪のケース。焦りました。懐中電灯を取り出し、家の周りを捜す用意をしているときに妻も帰宅しました。話をして、警察にも届けようということにし、妻に母の様子(服装とかも。服装というと男は全く何も覚えてはいない、その点女はよく覚えているものです。)を警察に話をしてもらい、近くに住む妻の実家にも電話をして捜してもらうことにしました。

 その間私は懐中電灯をもって、近くの河原を中心に捜し、雨の中犬の散歩をしている人にこういう年寄りを見なかったかときいてまわりました。

 母の友達というか、時々お茶のみに出かけている人が大崎八幡宮にいることを思い出し、そっちも捜したりしました。

 見つからないので、一旦戻り、車で近くの二つの交番にも行き、事情を説明し、見つけたら連絡してくれるように頼んだりしました。

 そしたら、警察から手続きをとってくれたのか、ラジオから行方不明者の捜索願・連絡願のアナウンスが流れるのを聞くことができました。

 結局は、遅れて捜索に加わってくれた義理の弟が我が家にやってくる途中で、道にうずくまっている母を見つけて連れてきてくれて、一件落着とはなりました。

 いやあ本当にこれはヤバイと思いました。このところ幻覚幻聴の母との口論では過激なことを口走っていたりしたからです。「うちに帰る!」「どこのうちだ?」から始まって、「死んでやる!」「死んでしまえ!」「殺してくれ!」「誰が殺すか!勝ってに死ね!」ということまで大声で怒鳴りあっていたりしたのですから。(ここまで書くと本当に恥ずかしい限りですが、実際のことですので、隠しません。)

 私はとっさに思いついたのは、川です、やけになって川に入ったりしないかということでした。寒い雨の夜、服ごと水に濡れたら、体はもたないだろうと思うと、なんていうことを言ってしまったんだと後悔しながら、探し回ったものでした。

 

 こういうことがあったために、私は家族からPHSを持たされる羽目になってしまいました。

 

(25)11月18日;

二十日姉二十五二十六と妹が帰ってくると母の様子見に

 

 母の症状や状態はときどき県外に住む姉や妹に教えていましたので、介護の大変さがわかってといえるか、分かってもらうためということもあり、うちに来てもらって、その間だけでも付きっ切りで母の面倒を見てもらい、その間我々は介護から開放されるということも必要でした。

 

 何といっても、一番大変だったのは妻です。妻にすれば、実の親でもないのに何でここまでとか思うでしょうし、子どもが一杯いるのに、県外とはいえさっぱり実の親の面倒を見てくれないという不満は当然あったことと思います。

 そういうこともあって、たまには帰ってきて母と一緒に寝てもらう、こっちはその間すっかりお任せするということもありました。我々は助かりました。

 

 目茶目茶長くなってしまいました。読んでくれてありがとうございます。この分ではいつになったら完結するのか分かりません。

 


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