前回のUPは、4月3日でした。ずいぶんと日が経ってしまいました。初めての方は、すみませんが、2月13日、3月8日・14日・16日・21日、4月3日と読み進んでいただければありがたいです。
【平成12年(西暦2000年)】
(26)11月20日;
こんなにも生き生きとしておだやかな母を見るのは何ヶ月ぶりか
こういうこともあるということです。確かにひどいときは、動き回り、ひとり言をいい、周りをいらいらさせますが、いつもそうとばかりはないということです。
家族とはいえ、お互いに生身の人間ですから、悪いことがはるかに多いですが、たまには穏やかで周りにも迷惑を掛けない、いいときもありました。家族一同ニコニコです。とはいっても、今日はたまたまで、あしたはこうではないだろうなと内心思っていたはずです。
(27)12月17日;
母連れて桜ヶ丘はポカポカで話は弾む母と○△ちゃん
桜ヶ丘は家から車で30分弱で行ける、私の従姉妹の家です。従姉妹とはいっても、私よりかなり年は上で、話は母とよくあいました。母親は私の父の姉となります。
昔から親しく行き来していましたので、お互いに”ちゃん”づけで呼び合う中です。
桜ヶ丘の家は、高台というか丘の中腹にあり、前には何も遮るものがないので、日当りは抜群で、天気がよければ暖房はいらないくらいです。
母から見たら、義理の姪にあたることになりますか、私の知らないことでも結ばれていて、昔話に花が咲きます。だから、家族としてもなるべくそういうところに母を連れて行こうと、それなりに努力してきたつもりです。
よく言われるように、痴呆性老人は昔のことはよく覚えています。そして、いつも一緒に居る家族には平気で?悪態をついたりするのですが、家に来たお客さんやこちらから出かけて行って会う人に対してはとてもまともに対応するのです。
よく我々家族は、そのギャップに愕然と?したものです。
(28)12月21日;
じわじわと母の痴呆はひどくなり一人会話と幻覚幻聴
突然返事をしたり、コタツから立ち上がって玄関に向かったり、誰もいないのにおにぎりをつくったりした話しは、(23)の短歌の紹介にあるとおりです。(4月3日の分です)
(29)(30)12月27日;
進む痴呆朝から夜まで独り言嘆き泣いたり自分を恨む
家に居て帰ろうと言う母の家何処に行きたい何処が生家
独り言を言う場合でも、二通りあり、普通に昔なんかの思い出を話す場合と、自分の境遇を嘆き悲しむ場合とがあります。
前者の場合は、本当に淡々とほとんど抑揚のない語り口ですが、後者はそのものずばり、自分のことを嘆き悲しむ場合で、「なんでこうなったのか」「死んでしまいたい」というようなことを叫んだり、この時はまともになっているのかなと思うこともありました。
「家に帰る」ということは、しょっちゅう言っていたことで、特に夕ご飯の後にそういう行動に出ることが多かったです。
玄関までは行けますが、玄関のカギは2箇所かけていますので、自分ではなかなか開けられません。玄関で靴を履いて、粘るわけです。家に帰してくれと。
ここで長いときは1時間以上も粘り続け、お互いに醜い言葉の応酬をしたりしました。((24)参照)どちらが根負けするかの勝負ですが、寒さから母のほうが諦めることになります。
日中のことですが、部屋から出たものの庭の囲いのため、道路には出られなかったことがありました。口は達者ですから、道路を歩く人に向かってずいぶん叫んだり、騒いだりしました。何といったと思いますか。「みなさん、助けてください。ここから出してください。」というようなことをいいました。
家の周りの人は、母の痴呆については少しは知っていましたが、全く知らない道行く人はどう思ったことでしょうか。老人虐待かと思ったことでしょう。
(31)12月29日;
今日より三泊四日で姉の家母を預かりしばし安らぐ
同じ仙台市内に住む姉の家に母を連れて行って、面倒をみてもらいました。お泊りです。
本当に助かります。泊まらなくても数時間でも預かってくれるところがあれば、本当にありがたいことです。気が楽になります。
お互いに時々は距離をおくことが、介護を続けるためには必要なことです。
(32)12月30日;
こんなにも静かな夜か我が家は母一人の存在の重さ
これも姉に母の面倒見を頼んだお陰で、本当にゆったりとし、静かな年末を迎えることができました。
普段はうるさくて、煩わしくて、いらいらばかりさせられていたけれど、いなければいないということで、ぽっかりと空洞ができたようにも感じてしまうのは、やはり家族だからでしょうか。
※ 写真は今も咲いているシクラメンです。