鮎と戯れて・・・魚族に感謝

東北地方を中心とした短い夏のあまり多くない鮎釣りの記録。家族に感謝して。近くの広瀬川の環境等にも拘るも、オフは時事問題も

強風が蒸し暑さを吹っ飛ばして、

2018-08-17 13:42:04 | 思いつくまま

            

 例によってラジオを聞きながらこのブログを書こうとしています。今「SOSネトワーク」として家庭から徘徊して行って行方が分からなくなった人を探しているという放送がありました。こういう放送での依頼は割とありますね。多分これからはますます増えていくことでしょうけれど。

 

             (午前7時50分頃)

 もうかなり昔のことになりますが、我が家でも徘徊されてみんなで大騒ぎしたことが2,3回はありました。前にも少し書いたことがありますが、実母が典型的なアルツハイマー型の当時の”痴呆症”になりまして、振り回されたことがあります。

      

    

 夜とか、夜でも雨の日とか、雪の日の夜とか、”うまく逃げられた”ことが思い出されます。うち1回は交番やタクシー会社のネットワークとかも利用したことがありました。基本的に夜になると本能的に””自分の家””に帰りたくなったのでしょうね。

         

 

 徘徊しているときは人格が大きく変わってしまっているのに一番びっくりしたかなあ。普通は高齢だからよぼよぼというか不安定な足取りをしているのですが、逃亡(徘徊)する時は人格も体格もガラッと変わってしまうようです。とっても逞しい体というか、力強い体になっているのでした。   そんなことをラジオを聞いていて思い出しました。

       

 

 

 今日は朝から風が強いです。突風のようなときもあります。そのせいか蒸し暑さはどこかに飛んで行ってしまったかのようです。 と同時に一気に秋めいた風、空気、雰囲気になってきました。

 

                 

 河原を歩いても聞こえてくるのは虫の音が中心です。広瀬川を挟んだ崖の向こう岸ではセミが鳴いていますが、鳴き声も弱々しく聞こえます。住宅地では3,4日前からセミの鳴き声は聞かれなくなりましたし。

  (トンボの写真は15日のものです。)

       

 セミからトンボへ世代交代ではないですが、勢力図?の交代が進み、バッタ等の昆虫から虫の音の合唱が聞かれるように自然環境はゆっくりと確実に静かに変わっています。そういうことを実感として味わえることにありがたさを感じます。嬉しく思います、謙虚に。

   シオカラトンボですよね。

  写真に撮れてよかったです。 

 このところよく飛んでいるトンボは、アキアカネと黒糸トンボですが、川に入っていると竿に止まろうとするのはオニヤンマです。ギンヤンマとかシオカラトンボはほとんど見られなくなってきました。2,3年前に一度シオカラトンボを見た記憶はありますが。

 ギンヤンマも、この辺では貴重なトンボとなってしまいました。アキアカネは草等に止まってくれないので写真に撮れません。残念です。

 

 今朝方の広瀬川です。ちょっと水量が多くなっています。また水は冷たいですね。時間の経過とともにあたたかくはなるのでしょうが。

 

 

 そういえば今年はまだ澱橋の上流の瀬やその上の岩盤の瀬では1匹も鮎は釣っていないのです。 何とか掛けることができたのは、2つの端の中間の岩盤の瀬かもっと牛越橋よりの水深のある急瀬だけです。 

 もっとも釣れないからということで、澱橋の上流では竿もほとんど出してはいないですが。中洲の本流側から下流澱橋の上流の瀬までは去年までは本当にいい鮎釣りのポイントだったのに・・・・。

 実はきのうも竿を出そうと、それもきのうは中洲の本流側から澱橋まで釣り下ろうと考えていたのです、一昨日までは。 でもきのうは朝から強い雨が降ったりして天気がきわめて不安定ということで、悩んだ末に活けておいた養殖オトリ鮎を自主放流してきたのです。オトリ缶が流されないようにということもありましたが。

 そしたら結果として大して不安定な天気でもなかったし、強い雨も降らなかったし、午後になってオトリ鮎の自主放流を悔やんだりもしました。馬鹿ですねえ。  でもそこそこ元気な2匹の養殖鮎を放流しましたので、広瀬川の中で大きくたくましく育って欲しいですね。そしてわがハリに掛ってくれ!なんて思ったりして。

 

 敗戦記念日からまだそんなに日が経っていませんので、朝日新聞の記事から。

 神奈川県大和市の浜崎さん(98歳)の自分史「人との出会い~戦争体験と住民運動」から。  『慰安所で会った女性に、どうしてこんなところに着たのかと聞いた。女性は「従軍看護婦の募集に応じたら、ここに連れてこられた」と話した。』  『「今の日本は戦前体制下と同じ。お国のために我慢しろと言われてるようだ。再び、大きな過ちを犯そうとしてるように思えてならない」』

 東京都調布市の半田さん(90歳)の自分史「過ぎし日々に向き合う」から。  『(玉音放送を聞いた)日を境に価値観がひっくり返った。・・・。虚無感と不信感でいっぱいになった。・・・。(教師時代)生徒に嘘だけはつかないと誓った。価値観のどんでん返し味わったからこそ、権威におもねらず、自分の頭で考える生き方にこだわる。』

 天皇陛下のお言葉について、元侍従長の渡辺さん 『犠牲者の思いに寄り添うため、実際に現地に赴く。それが結果としてメッセージとなり、戦争の風化を防ぐことにつながるのは非常に意味のあること』

 精神科医の五十嵐さん(65歳)  (自衛官らの医療支援を考えるシンポでの発言)『イランやインド洋に派遣され、帰国後に自殺した自衛官は61人。さらなる任務拡大がもたらす結果を危惧する。』  自殺者が多いとは聞いていましたが、まさか61人にもなるなんて驚きです。

 もう1週間以上も前になりますが、9日の記事「浮浪児 助けなき路上の日々」「戦争孤児が見た社会の姿」は迫力のある記事でした。 

 1948年の厚生省の調査では、沖縄県を除く全国の孤児総数は12万人以上。内訳は戦災孤児が28,248人、引き上げ孤児は11,351人、一般孤児は81,266人で、120,865人の約6%の7,100人が「浮浪の経験がある」とされているそうです。ただ、駅や公園などの路上で暮らした浮浪児の正確な実態は明らかではないとのこと。

 横浜市の金子さん(88歳)の言  『政府はおにぎり一つくれなかった、ウソは申しません。死んでいく子を見るたび、国の偉い人がなぜおにぎり一つ出してくれないんだろう、どういうことなんだろうって、数え切れないほど思いました。孤児が死んでいくのを知っていたはずなのに・・・。』  そして行政による強制収容(狩り込み)で捕まったら、牢屋に入れられると信じていました。路上の孤児に食べ物もくれないせいhが保護してくれるはずがないと思っていたそうです。


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