South Is. Alps
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Coromandel
Coromandel, NZ
Square Kauri
Square Kauri, NZ
Lake Griffin
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ブロッコリーとオレキエッテのパスタ

今日は新入生の交流遠足ということで、リトルワールドにいった。鉄板の上で肉を焼き野菜を入れて焼きそばを作るのだが、手際をみていると家での生活が見えるようだな。

ブロッコリーとオレキエッテのパスタ(オレキエッテとブロッコリーを一緒にゆでる。時間を見計らって、オリーブオイルでニンニクみじん切り、赤唐辛子を炒め、アンチョビを加えてパスタのゆで汁を加える。アルデンテにゆであがったパスタをソースにからめて出来上がり)
金目鯛のグリル(金目鯛の切り身に塩こしょうしてグリルで焼く)
セルバチコとトマトのサラダ(パルメジャーノチーズの薄切りとともに)

2009-04-07 22:01:58 | 夕食・自宅 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『クジラは誰のものか 』

秋道 智彌、2009、『クジラは誰のものか 』、筑摩書房(ちくま新書)

シーシェパードによる調査捕鯨船への過激な抗議運動は日本に住む我々の多くにとって解りにくい。解りにくさは、おそらく世界観の違いからきている。クジラは自然の中にくらす動物であって、いわば、神の領域の存在である。それは家畜である牛や豚の扱いとは異なるのも道理で、家畜は神から人間に付託された存在であって生殺与奪の権利は人間に与えられている。そうした立場からすると、クジラを殺すことと牛や豚を殺すこととは意味が異なる。
知性あるクジラという言説にたいして、知性の定義も問題ではあるが、当然、牛や豚もまた知性が存在すると思いがちなのだが、自然あるいは動物は、神の領域か人間の領域に属するのか、それが問題なのである。しかし、問題は、そう単純ではない。実のところダブルスタンダードが西欧的自然観というべきもののようである。本書を読むと、例えば、オーストラリアの捕鯨に対する態度(もちろん、反捕鯨である)と国内の野生のカンガルーやディンゴの生息数管理については、明確にダブルスタンダードが存在するのだが、臆面もなく、捕鯨は違うという。昨年、オーストラリアに行ったとき、パブなどで捕鯨の話題を出すと袋だたきに遭うぞなどと、冗談半分(あるいは、本気?)のアドバイスを受けたが、ダブルスタンダードをダブルスタンダードとは思わないようである。

まま、ともあれ、本書は、日本の伝統的捕鯨に立脚して、積極的にその根拠を申し立てることを、訴えている。商業捕鯨の歴史は、鯨油をとる西欧流の捕鯨に始まっているし、デンマークやノルウェーなどの捕鯨賛成派はこうした伝統に乗っているが、しかし、それ以外の西欧諸国は反捕鯨である。一方、アメリカやカナダ、オーストラリア、ニュージーランドなど先住民を抱える諸国は、反捕鯨ではあるが生存のための捕鯨は認めようという立場である。さらにいえば、アメリカは日本の鎖国をあけた主たる目的は捕鯨であった。いずれの国の先住民にとっては、認める認めないなどというのは片腹痛いことであるものの、政治的多数派の意向は、生存捕鯨は認めるというものである。
とすれば、日本の伝統捕鯨とは何か。文化としての捕鯨という考え方が重要である。そして、それにたいして水産庁が主導する調査捕鯨とは何か。商業捕鯨再開の根拠を示そうとするのではあるが、はたして、そのような方向性でよいのか。生態系の上位にたつクジラは、PCBや水銀による汚染の影響を強く受けている。世界でクジラを食用とする食文化はまれである。しかし、生存捕鯨を行う先住民にとって海洋汚染の影響は非常に深刻である。もし、日本の調査捕鯨が生き延びるとするならば、生息数調査のみならず、捕獲クジラを販売する消費者を意識した調査は、海洋汚染などについても報告するのだろうか。深刻であるとは報告できない。しかし、深刻であるとの報告は、きわめて重要な意味を持っているはずである。
さあ、そこまで考えて、日本の捕鯨の生き延びる道を考えることができるだろうか。捕鯨問題は、文化と自然、西欧流の自然観とそれ以外の世界の自然観の相違など、まことに興味深い問題を突きつけているように思える。

クジラは誰のものか (ちくま新書)
秋道 智彌
筑摩書房

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2009-04-07 19:45:34 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )