『大往生したけりゃ医療とかかわるな 』
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中村仁一、2012、『大往生したけりゃ医療とかかわるな 』、幻冬舎新書、幻冬舎
たぶん、昨年10月末に父が、続いて今年2月に母が亡くならなければ、この本は手に取ることはおそらくなかったかも知れない。たまたま、帯を見てその通りと思って読んだ。自分自身ができるかどうか、それはおくにしても、両親の死に際は90を超えた年齢のこともあって、本書に描かれている死に際はその通りだと思う。つまりは、二人ともガンを抱えていたが、直接的な痛みはさほど感じることなく(そのように見えた)、身内の思いと違い、あっけなく逝ってしまった。とくに、母などは、すこし心残りではあったが、ある意味見事な死に際だったということだろう。
生物としての人間は生殖期間をおえるといつ亡くなっても、生物としての役割を終えているのでしょうがないことは確かだ。しかし、これまで、人間社会は、死を回避しながらも(突然の死を厭い、また、死を悼む儀礼を整えて、納得のプロセスを構築してきた)、同時に、老を尊ぶ制度を整えてきた。その意味で、生物的な役割をおえた存在はいつ死を迎えていいとは言うものの、「老後」のシステムをそれぞれの社会の論理に応じて構築してきたといえよう。しかし、現代の医療システムは確かに度を越しているようにも思える。
死に臨んで医療ができることは限られている。死に行く臓器に対して薬剤などによりドーピングしても、おのずとそれぞれの寿命そのものを左右できようもない。母の場合など、呼吸装置をつけ、昇圧剤を点滴し、自発呼吸が弱いながらもあると言われながらも、半日も持たなかった。これも、運命というべきものだろう。現代医学もしょせん、その程度のものであったのだと、身内の死で経験できたことは大きな意味があるように思う。
これは、自分自身の死生観によるともいえるが、自分自身の処世として、可能であれば粛として逝きたいものだ。あまり、じたばたと医者にかかりたくはないものだ、と、いまのところは書いておこうか・・・・。
たぶん、昨年10月末に父が、続いて今年2月に母が亡くならなければ、この本は手に取ることはおそらくなかったかも知れない。たまたま、帯を見てその通りと思って読んだ。自分自身ができるかどうか、それはおくにしても、両親の死に際は90を超えた年齢のこともあって、本書に描かれている死に際はその通りだと思う。つまりは、二人ともガンを抱えていたが、直接的な痛みはさほど感じることなく(そのように見えた)、身内の思いと違い、あっけなく逝ってしまった。とくに、母などは、すこし心残りではあったが、ある意味見事な死に際だったということだろう。
生物としての人間は生殖期間をおえるといつ亡くなっても、生物としての役割を終えているのでしょうがないことは確かだ。しかし、これまで、人間社会は、死を回避しながらも(突然の死を厭い、また、死を悼む儀礼を整えて、納得のプロセスを構築してきた)、同時に、老を尊ぶ制度を整えてきた。その意味で、生物的な役割をおえた存在はいつ死を迎えていいとは言うものの、「老後」のシステムをそれぞれの社会の論理に応じて構築してきたといえよう。しかし、現代の医療システムは確かに度を越しているようにも思える。
死に臨んで医療ができることは限られている。死に行く臓器に対して薬剤などによりドーピングしても、おのずとそれぞれの寿命そのものを左右できようもない。母の場合など、呼吸装置をつけ、昇圧剤を点滴し、自発呼吸が弱いながらもあると言われながらも、半日も持たなかった。これも、運命というべきものだろう。現代医学もしょせん、その程度のものであったのだと、身内の死で経験できたことは大きな意味があるように思う。
これは、自分自身の死生観によるともいえるが、自分自身の処世として、可能であれば粛として逝きたいものだ。あまり、じたばたと医者にかかりたくはないものだ、と、いまのところは書いておこうか・・・・。
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