South Is. Alps
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Coromandel
Coromandel, NZ
Square Kauri
Square Kauri, NZ
Lake Griffin
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ランプステーキとルッコラのイタリア風おしたし

前夜、山代温泉に泊まり、宿を出て「総湯」や「温泉寺」あたりを散策し、加賀一の宮の「白山比神社」にお参り、南下して勝山の「平泉寺白山神社」にもお参り。ナビのガイドに従って、東海縦貫道にまわって、18時半過ぎに帰宅。

ランプステーキ
ルッコラのイタリア風おしたし(留守中、江南からルッコラが一箱届いていて、残念ながら、常温配達だったので、一部傷んでいたものをのぞいて、全てを茹でておしたしにする):パルメジャーノ(+グリエール、エメンタール)をおろし、スモーク醤油+スモークオリーブオイル、胡椒、イタリアンミックス、フレッシュオリーブオイル、松の実。塩ゆでして水に晒したルッコラ、水をよく絞って一口に切って、よく和える。

2015-08-12 21:51:03 | 夕食・自宅 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『寺院消滅:失われる「地方」と「宗教」』

鵜飼秀徳、2015、『寺院消滅:失われる「地方」と「宗教」』

自身の問題として墓じまいを考えていて、本書は、ビビッドに響いた。

大まかな図式とすれば、こういうことだろう。仏教は葬式に関わるから血縁関係の希薄化、個人化の問題に関わり、人々とのつながりの希薄化の影響を強く受ける。神道は、地域の祭礼に関わるから地縁や地域の解体に関わり、地域が崩壊すると神社の存立基盤を失う。血縁,地縁、宗教が、現代日本の抱える重大な問題、少子高齢化や地域格差と関わっていることに気付かされる。

本書は、自身も寺院の次男として生まれ、宗門で修行を終えて僧籍を持っているジャーナリストである著者の自身の問題に直結し同時に日本の深層をえぐりだした好著である。実のところ、自分自身、2011−12年と続けて両親を失い、また、生まれ故郷を離れて現在の生活基盤を作っていて、自分自身を祭ってくれる子供もいないという状況の中で、両親から寺と墓を承継した。もう少し言えば、両親は亡くなった奈良の地とは血縁と地縁では繋がっていない。しかし、両親は奈良の地で骨を埋める気持ちだったようで、自分で寺を見つけていた。父の葬儀はその寺の本堂をお借りした。母は、参列者が多いと予想されたので、馴染みの寺の和尚さんに導師をお願いしたが、寺では葬儀をしなかった。しかし、法事は、寺の庫裏をお借りしている。

父は、その両親の墓を京都に設けた。私からして祖父母と両親の進行する浄土真宗大谷派の東大谷の墓苑に、父がささやかな墓域を用意したことに始まる。その時には、両親と私達兄妹は大阪市の西郊に住んでいて、関係の深い寺はなかった。40年ほど前、新興住宅地に宅地を購入して私達一家は奈良に転居した。しばらくたって(どのぐらい後か、承知していない。すでに、私は、家を出ていた)、両親は、奈良中心部の同宗派の寺を見つけて、定期的に通うようになった。おそらく、檀家待遇になったのだろう(檀家になるというのが、どういうことかわからないが)。両親がなくなって、先に記したような手順を踏んだのだが、それ以来、墓参りは京都の東大谷、法事には奈良のお寺にお願いして、檀家のように年会費を払っている(墓地も、年間維持費を必要とする)。

さて、私のことだ。今日明日に死ぬことはおそらくないだろうが、かといって、いつ何時、どのような事態に陥るかわからない。とすれば、私は、どのようにすべきだろうか。私には、先妻との間に子供がいるが縁が薄く、墓や位牌を託することは躊躇される。そこで、以前、妹と話したことは、墓じまいしかないだろうということだ。自分の都合としては、以上のようなことなのだが、さて、そのようにするのがいいのだろうか、あるいは、他に道があるのだろうか。まさに、血縁と地縁が失われていて、なんとも、にっちもさっちもいかないとしか言いようがないのだが。

寺院消滅
鵜飼秀徳
日経BP社

2015-08-12 07:51:14 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )