朝電話で、高塔会堂広場作りのボランティアのお願いがきました。特に用事が無かったため手伝いに出かけました。公会堂は我家から10分程度歩いた場所にあります。前回は広場作りの計画や図面の説明がありましたが、今回は実際に力仕事でした。曇り空でしたが、とても暑い一日でした。
フェンスを取り付ける土台としてのブロック設置
今回の工事は、子供が排水溝に落ちないようにするフェンスを取り付けるための土台作りです。土台として排水溝に沿ってブロックを二段敷きます。ブロックはセメントで塗り固めて地面に取り付けます。まず最初に、砂,セメント,そして水を混ぜてモルタルを作りました。そのモルタルを排水溝に沿って敷いていきます。その上にブロックを積んでいきます。
砂,セメント,水を混ぜてモルタル作り 敷いたモルタルの上にブロックを積む
時々日が差すような熱い日となりました。汗を拭きながらの作業です。私はこのような工事の素人のため、ひたすら言われるままに作業しました。ほとんどの方が素人で、みなさん一緒に見よう見まねで作業しました。お昼は各自自宅に戻り、午後は再び出かけて4時過ぎまで作業しました。モルタルが固くなるまで三日程度程度かかるとのことでした。久しぶりにいい汗をかきました。
二段目のブロックを積む。三日後にはほぼ固まるとのこと
このSONY製トランジスタラジオTR-731の修理履歴です。それぞれをクリックしてください。
修理(1/7) 修理(2/7) 修理(3/7) 修理(4/7)
修理(5/7) 修理(6/7) 修理(7/7)
壊れた電界コンデンサを取り替えて音量を最大にすると、ザーっと音が出るようになりました。しかし、チューニングつまみを回しても全くラジオ放送を受信しません。ザーっと音が出たままです。そこで、中間周波数455KHz(1000HzのAM変調波)の電波をSGから発信させると、スピーカーから1000Hzの音が出ました。つまり、中間周波段以降は正常のようです。
9V電池をつなぐとザーと音が 中間周波455KHzを発信
あちこちを叩いてみると時々、ラジオ放送を受信します。そして、ちょっとしたショックで再び音が出なくなります。どこか接触が悪いことは明らかです。私が経験した中での接触不良個所にはイヤホン端子,電源端子,電源スイッチ,中波短波切り替えスイッチなどがあります。 そこで、どこが接触不良なのかいろいろなスイッチ類を操作したり叩いてみました。
接触不良と思われる中波短波切り替えスライドスイッチ
すると、中波短波切り替えスイッチを触るとラジオ放送を受信したりしなかったりする現象が頻発することが分かりました。中波と短波を切り替えるスライドスイッチが接触不良のようです。接触不良を直すには、このスライドスイッチをラジオ基板から取り出して、分解,洗浄するしかなさそうです。
中波短波切り替えスイッチの半田付け個所、丸は四か所の接点
中波短波切り替えスイッチを取り外す前に、スイッチが取り付けてある個所の回路基板を紙に書き写しました。これは、スイッチを洗浄後ふたたび元のように基板に組み込みできるようにするためです。スイッチに接続するコードなどの配線も記録しました。このスイッチは周波数変換回路付近にあり、OSCコイルなどと複雑な配線になっています。私は、基板から部品を外す時には必ず配線図を紙に記録しておきます。最低限デジカメに写しておきます。
切り替えスイッチ周りの配線図 中波用と短波用の二つのOSCコイル
石城山に車で登るには2つのルートあります。1つは、田布施町の城南宿井から登るルートです。もう1つは光市の塩田側から登るルートです。他に、歩いて登るルートもあるようですが良くは知りません。今回は、最初のルートで登ってみました。なお、5年前に光市側から登ったことがあります。なお、夏の石城山は蚊が多い上に草や笹が茂っていて散策には不向きです。このため、今回は一部の古代山城跡だけを見て下山することにしました。
古代人が加工した石、何かを組み合わせる石?
山頂に到着すると、古代山城跡の北門を散策しました。立ち止まって見ていると、すぐi蚊やアブが飛んできます。手で蚊やアブを手で払いながら、古代山城跡を見ました。この古代山城については全く文献がないため想像するしかないのですが、千数百年前にこの田布施の地を治めてていた豪族達がなんらかの戦いに備えて建築したのではないかと思います。私的には、百済が滅んだ後、唐や新羅から攻め入られることへの備えではなかったかと思います。実際、当時の朝廷が北九州に同じような山城を建設しています。しかし、新羅で唐に対する抵抗があったため日本に戦火が及ばなかったのではないかと思います。
延々と並ぶ石積み 石城山頂上の平地
この古代山城が作られた当時、田布施は内海でした。田布施町郷土館にある資料を見ると、柳井,余田,大波野,そして平生へ通じるルートは古代海でした。その古代の海の周辺に沿っていろいろな古墳があるので、この地域は千数百年前一大勢力地帯だったのではないかと思います。この山城を作るために何千人もの人が駆り出されたのでしょう。古代山城を見終わると、光市塩田方面に下る道を降りました。
田んぼの土手で野焼き、塩田にて
塩田小学校近くの田んぼの土手で、野焼きをしているのを見かけました。冬の風が無い時に野焼きすることが多いので、今の時期としては珍しいので近寄って見ました。塩田の道をそのまま進むと峠を越えて大波野に行きますが、途中左折して小行司へ行きました。どんどん進むと、だんだん山深くなって行きました。道を間違えたのか、光市からいきなり岩国市に入りました。地図を見ると小行司の西に接する道を進んでしまったようです。
光市と岩国市の境界地 岩国市周東町の田んぼ風景
一旦岩国市に出た後、柳井市に向かうルートを走りました。しばらく走ると田布施町小行司に入りました。そして、「小行司にこにこパーク」で休憩を取りました。休みのためかお店は閉じていました。仕方がないので自動販売機でジュースを買って、広場の椅子にたった一人座って飲みました。次に、小行司内をバイクで走り抜けました。途中、小行司の天然記念物ギフチョウの案内や神社などの案内があったのですが、時間が遅くなっていたので見学しませんでした。小行司に来て、小行司は田布施より柳井に近い感じがしました。商圏も柳井のような気がしました。今度来るときは時間を取ってじっくり散策しようと思います。小行司から一旦光市へ出て田布施町に出ました。途中、大波野開拓の碑を見て我家に帰りました。
小行司にこにこパークで休憩 大波野を流れる川
城南小学校を過ぎると、ハゼの大木を見に行きました。数年ぶりのハゼの大木です。田布施町では毎年「たぶせハゼの実ろうそく祭り」をしていますが、このろうそくを作るのに使うハゼの実はこのハゼの大木が関わっているようです。もしかして、この大木の枝を取り木して増やしてその実をろうそくに使っているのかも知れません。
田布施町の記念樹「ハゼの大木」、根元に碑が
幕末の長州藩は財政が苦しく、その財政を補うために塩,紙,そして蝋(ろう)を生産していたとのこと。その蝋は、ハゼの実を使って作られていたそうです。ちなみにハゼは私の家の裏山にも自生するほどの普通の樹木です。しかし、下手に触るとかぶれて赤く腫れるので、とても厄介な樹木です。私も山を歩く時、この木を見つけると触らないように迂回しています。
城南のさわやかな田園風景
ところで、塩,紙,蝋(ろう)のうち、塩は50年ほど前まで平生湾でたくさん生産していました。私は麻郷から平生保育園に通っていましたが、その道すがら国道188号線沿いにいくつかの塩田がありました。塩田には数人の浜子さんがいて、暑い夏に汗をかきながら砂をかき集めていました。その姿を横目にしながら保育園から歩いて帰っていたものです。
城南の宿井付近 岩城山のふもとの人家
ハゼの大木を見終わると、城南の宿井に出て石城山に登ってみました。城南にも友達がいるのですが、ほとんど城南から大阪などに出た人ばかりです。寄っても留守だと思われたので、今回は通り過ぎました。なお、私の住む麻郷高塔地区内に住む中学時代の同級生M君は城南出身です。結婚後高塔に家を作って移り住んだとのことで、地区の会合などでよく会います。先日の、天王さまのお祭りでは司会をしていました。
ところで、石城山に登るのは2年ぶりのことです。その時は、この山の頂上をぐるりと囲む古代の山城跡を見るためでした。今回は、一部の石垣(神籠石)を見るだけにとどめました。
城南から石城山に登る途中、大波野や余田方面を眼下に
梅雨時期は、畑や庭の雑草がとてもよく伸びます。毎日のように草取りに追われますが、今年しっかり頑張っておけば来年の草取りは今年よりは楽になるはずです。運動場のように広い畑は、草刈機を使っても時間がかかります。より除草が楽なハンマーナイフモア型の草刈機を入手しようと思っています。
麻郷郵便局に行った後に寄った、母校の麻郷小学校
ところで梅雨の間のひと時の快晴時に、麻郷,城南,そして小行司方面を散策してみました。特に小行司はこれまで数回しか行ったことがありません。と言うより通過したことしかありません。小行司は、田布施町の飛地です。柳井市,光市,岩国市に挟まれる飛地にどうしてなったのか、歴史的理由があるのだと思います。
ネズミに噛まれた体育倉庫 母校の田布施中学校脇を通過
最初、電話料金の支払いのため麻郷郵便局に行きました。次に、私が小学生時代に通った麻郷小学校に行きました。すると、去年建設中だった校舎が完成していました。旧校舎はすでに解体されていました。新校舎はとても立派な建物でした。私が卒業時に完成した旧校舎は今の耐震建築基準に合わなくなったための改築だそうです。少子時代にもかかわらず立派な校舎です。麻郷地区は子供がそう減っていないため予算が付いたのでしょう。嬉しかったのは、私が小学6年生当時作られた体育倉庫がまだ残っていたことです。この体育倉庫でネズミを捕まえようとして噛まれた苦い思い出があります。
50年位前、下流にあった可動堰堤で水泳,水遊び
麻郷小学校に立ち寄った後、田布施町内を通りました。中学生時代に通った田布施中学校は新しい校舎に変わっています。自分が知っている古い校舎が無くなっていると、思い出が遮断されたようで妙に寂しい気持ちになります。次に田布施川に沿って上流に行きました。途中可動堰堤がありました。
この堰堤より下流にあった堰堤で、私はよく水遊びや水泳をしました。当時はプールが無かったため川で泳ぐしかなかったのです。しかし、川はとても危険です。小学四年生の頃でしたか、台風か何かで増水したこの川で子供が流されました。彼は私が通っていた麻郷小学校とは違う東田布施小学校の児童(確かK君とか?)でしたが、田布施川でいっしょに泳いだりして顔見知りでした。このため、とてもショックでした。残念ながら、数日後下流の河口で発見されました。この件で町のプール建設のピッチがあがったとか。
山陽本線をまたぐ陸橋 久しぶりに田布施苑を訪問
小学6年の時、今の田布施市役所そばにプールがようやく完成しました。しかし、私はがっかりしました。プールには魚もいないし、波や流れもないのです。さらに、カルキが強くて目が痛いのです。安全が確保された一方で、子供にとって大切なものが一つ失われてしまったような気がします。亡くなったK君は子供だった私に、今で言う「事故リスク」とか「命とは何か」などについて学ばさせてくれたように思います。思うのです「彼の死は、残されたの多くの子供を救ったのではないかと」。危険から遠ざけられた現代の子供たちは、命の大切さを学ぶ実体験を封じられているため逆にその大切さが分かっていないのではないかと思うことがあります。
堰堤を過ぎると、山陽本線をまたぐ陸橋に行きました。私が中学生当時、この場所は崖になっており地層を見る絶好の場所でした。しかし、当時あった崖は無くなり地層を見ることはできなくなっていました。次に老人健康保健施設そよかぜ隣りにある田布施苑に行きました。私の母親担当のケアマネさんに逢うためです。父親が亡くなってから、母親が少し精神不安定になっている気がしたための相談です。数日後我家を訪問していただく約束をして田布施苑を離れました。
田布施苑の次に城南小学校に行きました。子供の頃にこの小学校も木造でした。木造校舎当時の賑やかな運動会を覚えています。この小学校も、校舎が鉄筋に変わっていました。山口県で木造校舎が残っている小学校は、萩の明倫館小学校だけではないかと思います。
老人健康保険施設そよかぜ 久しぶりに来た、城南小学校
夜中、風を取り込むために少し窓を開けています。すると、いろいろな虫が飛び込んで来ます。一番多いのは蛾の仲間です。蛾以外の大型昆虫では、カミキリムシがよく飛んできます。黒くて大型のカミキリムシです。この夜もカミキリムシが飛んできたと思っていたら、モゾモゾと私のズボンを這い上がってきました。その黒い虫をよく見ると、クワガタムシでした。これで二匹目のクワガタムシ飛来です。
私の部屋に飛び込んできたクワガタムシ
15年位前でしょうか東京八王子市で、小学生だった息子と一緒に近くの山にクワガタムシを捉えに行ったことがあります。息子は捉えたクワガタムシがとてもお気に入りで、一冬を越して飼い続けていました。
野生のクワガタムシを捉えたのは、それ以来のことです。今はUターンして再び山口県に住んでいますが、50年ほど前に山口県に住んでいた子供の頃、クワガタムシよりもカブトムシの方が多く飛来してきました。たまに蛍が迷い込んで来たこともありました。私の記憶にある50年前の我家よりはだいぶ自然が失われましたが、クワガタムシが生息するほどの自然はまだ残っているようです。50年前のようにカブトムシも飛来してくれると嬉しいのですが。
元気いっぱい這いまわるクワガタ 羽を広げて、どこかに飛んでいく
先月苗を植え付けた陸稲(もち)畑の雑草がだいぶ伸びてきました。このまま放置しておくとさらに伸びて、より草取りが困難になります。また、この畑は道路に面しているため、地域の方がよく通ります。雑草が生えた畑は景観上みっともないので、今回また草取りをしました。春から数えて3回目の草取りです。
草刈りをする前の伸び放題の道路側雑草
カマでの草刈りはとても時間がかかりますので、今回も草刈機で刈り取りました。梅雨時の草は水分を含んで比較的柔らかいので、ナイロンの回転紐を草刈機に取り付けて刈り取りました。回転紐式はチップソーに比べて草刈り効率がとても悪いのですが、雑草の間に岩や倒木に当たっても草刈機が振られる心配がありません。また、刈跡がとてもきれいなため、茅,笹又は小枝のような硬いものを切る以外は、私は回転紐を使っています。
綺麗に刈り取った陸稲畑の道路側
最初、道路側の雑草を刈り取りました。続いて、畑の北側を刈り取り、最後に畑の南側を刈り取りました。北側は家の庭に接していますし、南側は他家の畑と接していますので、より丁寧に刈り取りをしました。しかし、今は梅雨の時期のため、次々に雑草が伸びてきます。7月8月は草取りに追われる毎日になりそうです。
隣家の庭に接する、畑の北側 他家の畑に接する、畑の南側
49日の翌日朝、家内と息子はそれぞれ東京と大阪に帰りました。この日は、地域の大掃除(道普請)の日です。家内と息子を田布施駅まで送った後に私も参加しました。前回の掃除と異なり、草刈りや道に張り出した木々の伐採だけでしたので短時間で終わりました。
道端に張り出した木々の伐採
この草刈りボランティアは終わった後、公会堂にも行きました。すると、数人の方が待っていました。高塔公会堂の広場作りや整地は、どなたかが機械でやっていました。このため、私は子供たちが夏休み期間にラジオ体操をする広場の掃き掃除をしました。舗装されている広場のため、それほどゴミが落ちているわけではなくすぐに終わりました。
ラジオ体操をする広場の掃き掃除
亡き父親の49日です。11時頃にお寺のお坊さんが我家にやってきました。遺影を前にしばらく皆による読経です。それが終わるとお墓に向いました。そして、骨壺をお墓の中に収め、持って来たお花を生けたり、我家で取れた桃をお供えしました。
お墓に骨壺を納めた後、石で塞いでいる息子
それが終わると、家族や親戚が一人ずつ線香をあげてお祈りをしました。次に、お坊さんのお祈りが始まりました。その間数分、全員も読経に合わせてお祈りをしました。
線香をあげる母親 お坊さんの読経
お墓を後にすると、皆で近くの料理屋に行ってお坊さんを交えて会食しつつ歓談しました。これで父親の49日が終わり、一つの区切りがつきました。
49日が終わった夜は、久しぶりに母親,家内,息子と一緒に夕飯
亡父の初盆のため、妹夫婦からお盆提灯が贈られてきました。箱を開封すると「大内行灯」と書いてありました。妹の住む山口市はその昔大内氏が支配後に毛利氏に変わりましたが、この提灯の伝統文化は継承されたのでしょう。このお盆提灯は8月に飾るそうですが、試しに二つのお盆提灯を組み立てて飾ってみました。我家に元からある提灯は一つで、ぶら下げるタイプです。贈られてきた提灯は台に載せるタイプです。
妹夫婦から贈られてきたお盆提灯二つ
いい加減に組み立てると、後で元のように箱に仕舞うことができません。一つ一つの部品を箱から出して、仕舞い方を忘れないようにデジカメに記録しておきました。最初に提灯を支える台を組み立てました。三つの足からなる台です。
部品を順番に並べて確認 三つの足からなる台を組み立て
次に、三つの足からなる台に電球を取り付けます。昔は電球ではなくろうそくでした。ろうそくより電球の方が、危険性が無い上にスイッチ一つで点灯消灯できます。電球を取り付け終わると、蛇腹状の紙製提灯を本体を取り付けます。そして、提灯を支える支柱二本を取り付けます。
電球と提灯を取り付け 提灯を支える支柱二本を取り付け
最後に、飾りを取り付けて組み立て終了です。なお、提灯は二つ贈られてきたため、もう片方も組み立ててみました。一個目の経験があるためか、二個目は比較的簡単にしかも早く組み立てることできました。二個のお盆提灯を仏壇前に飾ってみました。そして、提灯の電球に光を灯して天井の照明を消しました。すると、提灯だけの照明になり仏壇や遺影などがほんのりと浮かびあがるように見えました。お盆は8月からのため、すぐに元のように箱に仕舞いました。8月になったら組み立てて飾ろうと思います。
二つのお盆提灯で仏壇や遺影を照らす
午後早くに、お墓清掃に行ってきました。明後日の亡父の49日に備えての掃除です。子供の頃、この墓地は今より荒れていました。倒れた墓や無縁仏と思われる小さな石だけのお墓など、草も所々生えていました。夜は怖いような墓地でした。もっと昔の江戸時代には、お寺は無くてこの地域の人たちの集合墓地だったとのこと。今は適度な管理がされているようで草も生えておらず、倒れたり割れたお墓はありません。
平生町竪ガ浜のお寺脇墓地
お墓は、周りのお墓に比べて小さく清楚です。先祖代々と言っても、私の父親が二代目になります。一方、私の母方は戦国時代から続くほどの古い家(村上水軍の一派とのこと?)です。母から10代ほどさかのぼれますが、太平洋戦争時の爆撃で古文書などを焼失してしまったそうです。母親が子供の頃に、蔵に槍や刀があったとのことです。実際私が小学生の時に、母親の実家を取り囲むように五輪石やお墓が続いているのを見たことがあります。
麻里府海岸の砂と交換 取り除いた傷んだ花
お墓の掃除のついでに、先日麻里府海岸で採収した砂を取り替えておきました。お墓の中を確認すると、一代目高橋,その妻(私の父方祖父の姉),そして養女(亡父の姉)の骨壺が入っていました。これら3人は、昭和初期~戦時中の満州で亡くなりました。写真で見た人達が、ここにいるのかと思うと不思議な感慨を覚えます。
ほぼ清掃を終えたお墓
朝から大雨のため、畑に出ることができません。そのため、真空管ラジオの調整をすることにしました。今では、真空管は骨董でレトロな物の代表です。しかし、私が中学生の頃まではラジオなどの部品として普通に使われていました。しかし、私が高校に入った頃(1968)から次々にトランジスタに置き換わっていきました。
真空管ラジオの制作や調整のため、今でも読んでいる古い本
真空管に関わる書物は、今ではほとんど売っていません。現在私が持っている真空管に関する本は、ほとんどが高校生までに購入したものです。その中でも、古本でしたが「初歩のスーパー研究 杉本哲署」を一番愛読しています。この本は、真空管ラジオに関する記述が多いのですが、トランジスタラジオにも通用する内容が書かれています。特にスーパーヘテロダイン方式がなぜ良いのかなど、その原理について詳しく書かれています。今でも役に立っています。
中間周波トランスの調整 中間周波数は455KHz
この本を読み返しながら、真空管ラジオの調整(トラッキング)をしました。まずは、中間周波数を455KHzに合わせました。455KHzの電波を400Hzで振幅変調した電波をSGで発信させて調整しました。出力確認にパルボルを使うと良いのですが、高校生の頃と同じように音の大きさを耳で聞いて調整しました。
本ではPCで発信調整だが 局部発信周波数の調整個所
次に局部発信や同調周波数を調整しました。この調整には、四個所の調整します。局部発信周波数全体は局部発信コイルの芯(フェライト)で調整します。そして、中波の低域側はPC(パディングコンデンサ)で主に調整しますが、このラジオにはPCが付いていませんでした。市販ラジオでは付いていないものが多いようです。
同調周波数と中波高域の調整用トリマーバリコン
同調周波数と中波高域を調整するトリマーバリコンを使ってさらに調整しました。これらの調整は、500KHz,1,000KHz,そして1,500KHzで交互に調整を繰り返しながらトラッキングを追い込んでいきました。すると、どの周波数でもラジオ放送がよく聞こえるようになりました。
最低周波558KHzを受信 最高周波1,770KHzを受信
後で気が付いたのですが、このラジオに搭載されているマジックアイを使って調整しても良かったです。同調すると、マジックアイの緑光が閉じます。同調が外れると緑光が開きます。なおマジックアイは、今のラジオの同調メーターに相当する特殊真空管です。トラッキング調整の結果、受信周波数範囲は558KHz~1,770KHzでした。山口県のため、夜は朝鮮半島や中国の放送がうるさいほど入ります。
周波数同調の目安になるマジックアイ
先日袋をかけた桃を初めて収穫しました。じつは、我家の桃に早生と晩生の二種類あることを知りませんでした。いつも晩生の桃を見ながら、いつ熟すのかと思っていました。ところが、別の桃の袋を開けてとみると、熟しすぎて虫が食っていました。
早生桃の袋を開封 薄ピンクの熟した桃
その桃の木の袋を全て調べると、一部の桃は腐ってしまい収穫遅れの状況でした。そして、ほとんどの桃は虫が食いついていました。晩生の桃ばかり観察していたので、早生の桃が熟しているのに気が付きませんでした。それでも、何個かは虫が入っていない桃を収穫することができました。
虫が入っていない、とても美味しそうな早生桃
そろそろスモモが終わりです。早生桃の収穫後に、最後のスモモを収穫しました。熟したスモモにはいろいろな虫が来ていました。特にカナブンの仲間が多いようです。スモモを収穫しようと手を伸ばすと、実からたくさんのカナブン飛び去ります。カナブン達の食事の邪魔をしたようです。晩生の桃は収穫時期がまだ先ですが、早生桃より大きくより美味しいとのことで期待しています。
収穫したスモモと早生桃、スモモは最後の収穫
山口県に帰ってから初めてボランティアに参加しました。私が住む田布施町麻郷高塔地区には、こじんまりした公会堂があるのですが、その隣はもともと草ぼうぼうでした。この草地を無償で借りることができたようで、その草地を地区の多目的広場に作り替えるボランティアです。今回は、その工事内容の紹介でした。
この公会堂の左に多目的広場を造成
工事費を安く納めるために、何人かがボランティアで作業します。今回は雨のため、どこをどう工事するかの説明で終わりました。ついで、初参加の私の紹介がありました。私の陸稲畑はこの公会堂のすぐ近くにあるのですが、今回参加した何人かが陸稲畑を見たいとのことでした。そこで、畑に行って陸稲について説明しました。この陸稲が順調に育ては、晩秋にこの公会堂で陸稲を使ったもちつきができるかも知れません。
広場予定の工事現場 広場を横切る側溝も工事予定
先日ジャガイモを収穫しましたが、今回梅雨の合間をぬってジャガイモを収穫しました。ジャガイモはたくさん植え付けているため、あと二回程度収穫できます。今回収穫したジャガイモは自宅で食べるには多すぎるので、家内や友達の家に送ろうと思っています。今は夏、ジャガイモを掘るためにスコップやクワをふるっていると滝のように汗が出てきました。
ジャガイモの一株を掘ると、株の周りにジャガイモどっさり
収穫したジャガイモの品種はキタアカリです。この品種は、ほかの品種に比べて芋が株の周辺に散っていません。株の周り20cm位に芋が集中しています。スコップを入れる場所が特定しやすいため、傷つけたジャガイモは皆無でした。他の品種のジャガイモはおうおうにした株周辺に散っているため、スコップを入れるとジャガイモを傷つけてしまうことがあります。
堀り上げたはジャガイモは一輪車で牛舎に運びました。そして、牛舎の床に厚紙(むしろが一番良いのですが)などを敷いて、その上に収穫したジャガイモを広げました。牛舎内は湿気が強く風が吹かないため、扇風機を使って強制的に乾燥させることにしました。
一輪車に盛り上げたジャガイモ、その後牛舎で乾燥