東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

久しぶりに呉麓山のひっかり観音を清掃

2017年06月15日 | ふるさと



 
2年ぶりに呉麓山のひっかり観音に行きました。その時は、ひっかり観音の屏風岩を磨いている途中で発電機が動かなくなる故障が発生したため研磨作業を中断せざるをえませんでした。そのため、あまり磨けておらず朝日が反射して光る現象を観察できませんでした。
 古代からの伝承を鏡を使って実証できました。しかし、今だに岩だけで実証できていません。現象が現れる夏至に合わせて、今回再び屏風岩のひっかり観音を磨いてみることにしました。


          ひっかり観音の屏風岩から見下ろした絶景


 朝9時に田布施町郷土館に集まり、Niさんの車に相乗りしてひっかり観音がある城南川西西山の呉麓山に向かいました。久しぶりに山を登るため、うっかり道を間違えました。しかし、すぐに道を間違えたことに気が付いて修正しました。がれた急登を上がると、じきにひっかり観音の屏風岩に着きました。すでに西山のNaさんとNa´さんが来ていました。二人で発電機を運び上げたとのことです。ご苦労さまでした。

    ひっかり観音周辺を清掃        私とNaさんは屏風岩を磨く
 

 全員がひっかり観音に集合すると、さっそく周辺を清掃しました。私とNaさんは屏風岩を磨きました。私は持ってきたグラインダーを使って磨きました。2年前の反省を元に荒砥と中砥を使って磨きました。磨いた後、水で濡らすと鏡のように影が映りました。夏至の早朝に雨が降った後に朝日が差し込めば間違いなく光ると思います。ところが、グラインダーを使い続けていると焼けて故障してしまいました。またも故障です。さらに磨きあげるのは来年のことになりそうです。やれやれ!

          清掃の合間に休憩、水分などを補給

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茨城県 大洗町とひたちなか市の史跡ほか探訪ウォーキング(4/6)

2017年06月14日 | 歴史探訪他ウォーキング

 「子供の城」近くには、立派な松林が延々と続いています。その松林の中に、歩くことができるウォーキングコースがあります。ただ、歩く人が少ないのか下草と道の区別がはっきりと分かりません。地面が少し見えているためなんとか道と分かります。その松林の小道をのんびりと歩いてみました。

         道が少し分かりにくいものの、静寂で素晴らしい松林


 松林の小道をしばらく歩いて、海岸沿いの道を歩きました。歩いている人が誰一人としていませんでした。大洗町は道が整備されているようですので、歩いて行き来する人はまれなようです。たった一人で、舗装道路を北に向かって歩き続けました。大洗磯前神社近くの海は磯や岩が多いのですが、だんだんと砂浜が多くなります。これらの砂浜は海水浴場なのか、海の家のような建物が散在していました。一軒だけ焼きトウモロコシを売っていました。左手に松林を右手に海を見ながら歩き続けていると、大洗水族館(アクアワールド)が見えてきました。

アクアワールド駐車場    アクアワールド入口     アクアワールドゲート
  

 アクアワールドは都心から来ることができる本格的な水族館のようです。アクアワールド手前に広大な駐車場がありました。駐車場から数百m歩かないとアクアワールドの入口に行けません。ところで、歩いてアクアワールドに入る人は誰もいませんでした。重いリュックを背負った私だけでした。入口近くにはバスの駐車場があり、どこかの幼稚園児が団体で来たようでした。

          アクアワールドで一番の大きさを誇る水槽


 実は、アクアワールドに到着する前に入場券を買っていました。大洗観光協会に寄った時、入場券(前売券)を購入したのです。前売券は当日券より安いとのことでしたので。入場するとたくさんの人達がいました。特に子供達が多かったように思います。巨大な水槽が一番の見ものでしょうか。また、深海生物の水槽やサンゴ礁の水槽も良かったです。茨城県に来て、水族館に来るようになるとは思ってもみませんでした。

    薄暗い深海生物の水槽        明るいサンゴ礁の水槽
 

 私が初めて水族館に行ったのは下関水族館でした。50年位前のことです。まだ巨大な水槽はなく、小さな水槽にいろいろな種類の魚が泳いでいたことを覚えています。確か小学校の修学旅行でも行きました。水族館の山の手には巨大なクジラを模した建物がありました。今、そのクジラの建物はあるのでしょうか。

  向こう側にイルカ見学ドーム        かわいいペンギン達
 

 アクアワールドをもう少し長く見学したかったのですが、ゆっくり見る時間がありませんでした。残念ながら、30分程度で全体を早歩きでざっと見ました。イルカのジャンプも見たかったのですが諦めました。将来来ることがあれば最低でも2時間はかけてじっくり見学したいと思います。アクアワールドのゲートを出ると、誰一人歩いていない道路をひたちなか市に向いました。

           歩いた大洗町アクアワールド周辺コース

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とても古い足踏み紡ぎ車をなんとか修理

2017年06月13日 | 綿栽培,糸つむぎ,織り,染色



 とても古い足踏み式の紡ぎ車を見つけました。壊れていたため、飲み代よりも安い値段で手に入れることができました。ちゃんと動く機械はとても高いので、私にはとても手が出ません。今回のような誰も見向きをしないような壊れた機械をたまに購入してみます。

          紡ぎの機構部、ボビンも正常に左右移動


 今回手に入れた足踏み式の紡ぎ車は、足踏み台と回転する車輪が激しく壊れていました。肝心の紡ぎをする箇所は壊れていませんでした。これはラッキーでした。最初に足踏み台を直すことから修理を始めました。足踏み部分が変に曲がっていて折りたたんであり、最初どう復元するのかさっぱり分かりませんでした。また、車輪も妙に偏心しているため糸を掛けてもすぐに外れてしまいます。

壊れていた足踏み部修理中   修理後の足踏み部   偏心のため車輪から外れる糸
  

 あれこれ試行錯誤して、最初にやっとこさ足踏み部分を直しました。続いて、回転軸をずらすことによって車輪の偏心を仮修理しました。後日、薄い板を軸線に打ち付ければ修理完了です。 ところで、紡ぎ部は故障していませんでした。この紡ぎ車のすばらしい所は、ボビンが自動的に左右に移動するため、紡ぎが進むにつれて糸を掛け変える必要がないことです。

       普通の足踏み紡ぎ車には少ない、ボビン左右移動メカニズム


 この機械はいつ頃使われたのでしょうか。明治,大正,又は戦前に使われたのではないかと思います。あちこちに油を差した跡があり、木材が黒光りしています。これを使った人は、とても大切に使ったのではないかと思います。ボビンに残っていた糸は綿から作られていました。綿専用の紡ぎ車ではないかと思います。綿の収穫後、なんとかしてこの足踏み紡ぎ車を使いこなして糸を紡いでみたいと思っています。

           修復後の足踏み紡ぎ車の全体

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柳井市 新庄の史跡巡りウォーキングの下見(2/3)

2017年06月12日 | 歴史探訪他ウォーキング

 田布施方面を見下ろす鉄塔を降りましたが、降りる道を間違えてしまったようです。道なりに降りているうちに大きな道に迷い込んだのです。道なりに行けばどこかに着くと思いかまわず降りました。降りている途中で偶然、お墓の横に並んでいる六地蔵を見つけました。今回のように、道を迷ったために偶然祠や碑を見つけることがあります。

 偶然見つけた六地蔵尊    人丸社の跡地か?      高林寺前の農園
  

 迷い込んだ道をどんどん降りていると、ぽっかり民家前に出ました。その民家の後ろに続く道を横に進むと、A君とEさんに再び出会いました。私がいなくなって心配したそうです。なお、鉄塔下は絶景でしかも適度な広さです。お昼休みをするには最適ですが、ころげ落ちるような急坂を昇り降りしなければいけません。そのため、本番ウォーキングでは鉄塔には行きません。

   高林寺に到着        高林寺の本堂      岩政次郎右衛門墓地
  

 二人に合流すると、とある民家を訪れて敷地内にある人丸社を見させていただきました。次に、その人丸社が元あったと言われる跡地を探しました。古い石垣跡がそれではないかと思いましたが確信は持てませんでした。続いて、次の目的地の高林寺に向かいました。ご住職にご挨拶しようと思いましたが、忙しいようで会うことができませんでした。かつて総代をしていた方から説明を受けたうえに本堂を見学させていただきました。ありがとうございました。本堂を見学後、この高林寺でお昼休憩をとりました。

       柳井の名木の一つラクウショウの大木を下から見上げて


 高林寺内に猫をかたどった石がありました。かつて高林寺では幼稚園をしていたとのことで、その名残のようでした。高林寺を出ると、岩政次郎右衛門墓地に行きました。新庄の田んぼに水を供給する水路を作った功績で、岩政次郎右衛門は称えられました。続いて柳井市の名木の一つであるラクウショウの大木を見学しました。日本には少ない貴重な樹木とのことです。

 ラクウショウの大木全景    不思議な常夜灯     共同墓地の六地蔵
   

 ラクウショウの大木がある民家には今は誰も住んでいないようです。門には愛育園と書かれていました。養護を必要とする子供達が通っていたのでしょうか。ラクウショウの大木を見学後、道を戻っている時に不思議な二つ並んだ石塔を見つけました。その石塔に行って見ると、常夜灯でした。この常夜灯から北に50mのところに広いお墓(中原共同墓地)がありました。古い五輪塔などがごろごろしていました。かつてこの近くにお寺か何かがあったのでしょうか。

 荒神社祠とブロック塀    何かの祠の残骸か?     火伏地蔵尊
  

 続いて、荒神社に行きました。荒神社の祠に雨露がかからないように、屋根付きのブロック塀で囲ってありました。続いて火伏地蔵尊に行きましたが、近くで民家の解体工事をしていました。その工事中の敷地内に何かの祠か石碑の残骸が積まれていました。このところ、工事のために撤去されている祠やお地蔵様が少なくありません。残念なことです。しばらく進むと火伏地蔵尊が道の角に立っていました。とても立派なお地蔵様です。

     史跡巡りウォーキングの下見をした柳井市新庄方面ルート

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グミとユスラウメの実を収穫、美味しい!

2017年06月11日 | 樹木,果樹

 果物の季節になりました。我家の西側に植えているグミとユスラウメが真っ赤に実りました。グミは4年前に苗を植えまし。特にグミは、大きな実がたくさん成りました。木が大きくなったので、それに合わせて大きくたくさん成ったのでしょう。ただ、今年はそのグミの実がとても甘いことです。去年までは渋みが強かったのですが、今年はわずかに渋みがあるものの甘さが勝っていました。

     だいぶ育ったグミの木          真っ赤に実ったグミ
  

 私が子供の頃に近所にグミの木がありました。毎春、実をこっそりもいでは食べていました。その頃のグミはやや実が小さく渋みが強かったように思います。何個か食べると口内に渋みが張り付くように残りました。しかし、我家のグミは改良種のようです。今後、毎年のようにこの美味しい実を食べることができれば嬉しいです。

            何個食べても美味しいグミの実


 グミと同じころ、ユスラウメも実が成ります。こちらはやや小振りの実です。四方に伸びた枝に小さな実がこぼれるように成ります。ただ、実が小さくあまりにもたくさん成るため、毎年実を取り切れません。ユスラウメは実よりも花を楽しむ樹木ではないでしょうか。

   枝が四方に伸びたユスラウメ      小さな実が枝に、もぶれつく
 

 ユスラウメの実は甘みよりも酸味が少し強く種もやや大きいので、毎年100粒位しか食べません。不思議なことに、こんなにたくさんの実が成るのに落ちている実がほとんどありません。鳥の餌になっているのではないかと思います。小さな実は鳥には食べやすいのでしょう。

        甘みよりも酸味が少し強い、ユスラウメの真っ赤な実

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茨城県 大洗町とひたちなか市の史跡探訪ほかウォーキング(3/6)

2017年06月10日 | 歴史探訪他ウォーキング

 大洗磯前神社にお参りした後、近くを散策しました。最初に山村暮鳥の詩碑を見ました。続いて、磯節発祥の地の碑を見ました。なんでも三大民謡の一つなのだそうです。石碑にあるボタンを押すと、磯節の歌が流れてきました。かつて漁師が歌っていたのでしょうか。いったん道を戻って、大洗磯前神社近くの大洗海洋博物館に入りました。

  山村暮鳥の詩碑      磯節発祥の地の碑     大洗海洋博物館
  

 大洗磯前神社周辺の詩碑や石碑の地図がよく分からなくて道を無駄に歩いてしまいました。松林内に散策道があることになっているのですが、雑草が生い茂っていて道がよく分かりませんでした。そのため、いくつかの碑を見損なってしまいました。例えば、高浜虚子の碑があるはずなのですが分からずじまいでした。続いて、大洗磯前神社正面の鳥居から100段位の階段を海に向かって降りました。

     大洗美術館              ボードレーヌの碑
 

 石階段を降りてすぐの場所に大洗美術館がありました。そして、その入口近くにボードレーヌの碑がありました。フランス語でしょうか、英語ではない言葉が刻んでありました。その碑の前から海岸に降りる道がありました。その道を降りると、目の前に磯神の鳥居がありました。また近くに海を見下ろす展望台がありました。その展望台にも行ってみました。

            大洗町は太平洋に沿って街並みが続く


 磯前の鳥居からいったん道路に出て少し歩きました。すると、大洗町の観光協会の建物が一軒建っていました。傍にバス停がありました。バスで来た人がこの観光協会に寄るのでしょうか。私もこの観光協会に入ってみました。土曜日でしたが担当の方が一人いました。大洗町の人口を聞くと、17,000人とのこと。田布施町とあまり変わりません。その観光協会で茨城県内のパンフレットをいくつかいただきました。

  一軒家の観光協会     松林の中に子供の城     大洗海岸公園
  

 田布施町と比較して、大洗町は全体的に活気があるような気がします。その理由は、ホテルや料理屋(海鮮料理が多い)がとても多い事、そして広い駐車場が海岸沿いに延々と続くことです。海岸に沿う道を一人で歩いていると、松林の間に木を組み合わせてつくった遊園地のようなものがありました。その向こうには付随した建物もありました。建物をよく見ると、「子供の城」と書いてありました。子供が遊ぶ施設のようでした。

          歩いて散策した大洗町の海岸沿いルート

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柳井市 新庄の史跡巡りウォーキングの下見(1/3)

2017年06月09日 | 歴史探訪他ウォーキング

 6月の史跡巡りウォーキングは柳井市の新庄です。柳井市をウォーキングしたのは3月の伊保庄ウォーキング以来です。朝10時に新庄のMaxvaluに3人が集合しました。午後からは晴れるとのことで、私はバイクで新庄に向かいました。

 集合した新庄Maxvalu  ご住職がおられない正念寺  佐藤継信・忠信供養塔 
  

 新庄Maxvaluを出ると、最初に緩い坂を登って正念寺に向かいました。ご住職がおられないとのことで、鍵がかかっていました。このお寺には、近くで発掘された多々野古墳の副葬品が保管されているそうです。一度見てみたいものです。続いて、すぐ隣にある佐藤継信・忠信供養塔を見学しました。両者は源頼朝に滅ぼされた平泉藤原氏の家臣だったそうです。源平合戦時に源義経に仕え活躍したとのこと。しかし、継信は義経の身代わりとして、忠信は義経を主君としたためか源頼朝にうとまれて亡くなっています。

     荒神様        延命地蔵尊       多々野古墳の石室
  

 ところで、源平合戦では頼朝の部下と義経が共同して平氏と戦っています。しかし、頼朝の部下と義経の協力関係がうまくいかなかったようです。その原因は、頼朝の部下と義経の功を急ぐ姿勢が合わなかったようです。そのため、源平合戦が終わった後、義経と頼朝との確執が表ざたなってきました。例えば、頼朝の許可を得ずに天皇から位を授かったりと、源氏棟梁である頼朝の逆鱗に触れたようです。私が思うに、天皇支配から抜け出したかった武士団の棟梁頼朝からみて、義経の行動は自分裏切る行為ととれたのではないでしょうか。

              源義経の供養塔


 さらに、鎌倉に来た義経にそっけなくして、東北の藤原氏に逃げるように向かわせたのではないでしょうか。そして、それを藤原氏を滅ぼすきっかけにしたのではないかと思います。なぜ頼朝が天皇と距離を置いたのか、義経はその理由が最後まで分からなかったのではないかと思います。つまり、滅んだ平氏と同じで、武家が天皇から独立する考えを理解できなかったのではないかと思います。つまり、新しい時代を読めなかったのではないかと思います。

     N邸内の人丸様祠           荒神様と明神様のお社
 

 佐藤継信・忠信供養塔を見学後、荒神様、延命地蔵尊、多々野古墳石室を見学しました。そして、本命の源義経供養塔に行きました。12世紀に戦われた源平合戦において、瀬戸内海を平氏を追って進軍する源義経はこの地区に来たようです。同じような伝説が平生町宇佐木にも残っています。当時の新庄は海でした。ここで食料などを調達して、さらに壇ノ浦に向かって進軍したのでしょう。

   フラワーランド方面を下ろす鉄塔からの景色、田布施方面を見て


 今の柳井は駅近くが栄えています。しかし、平安・鎌倉時代は新庄方面が栄えていたのではないかと思います。今の柳井はどちらかと言うと開作で広がった町です。江戸時代になってから白壁の街近くが商人の街として栄えたようです。元々は新庄付近は楊井(やない)氏が治めていたそうです。もしかして、柳と井戸ではなく楊井氏の方が柳井の由来かもしれません。鎌倉時代の領主名が土地の名前となるケースがとても多いので。

       史跡巡りウォーキングの下見をした柳井市新庄方面ルート

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田布施町 どんじゃらで楽しいひと時

2017年06月08日 | ふるさと

 朝から雨続きでした。午後、4年位ぶりに歯医者に行きました。奥歯に入れていた銀歯が取れてしまったからです。最初にすべての歯をチェックしてもらいました。すると、歯槽膿漏の疑いがある箇所が数か所ありました。このさい時間がかかってもすべての歯を直してもらうことにしました。
 そして夕方、いつもの仲間と夕方集まって楽しいひと時を過ごしました。美味しい料理を摘みながら、最近の話や懐かしい子供の頃の話で楽しく過ごしました。

      どんじゃらで楽しい話題で盛り上がるいつもの仲間たち

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茨城県 大洗町とひたちなか市の史跡ほか探訪ウォーキング(2/6)

2017年06月07日 | 歴史探訪他ウォーキング

 2時間位でしょうか、幕末と明治の博物館にいました。この博物館の周りは、こんもりした松林になっておりテントがあちこちに張ってありました。博物館を出た所に小屋のような建物がありました。お店かと思って入ると、テントの管理事務所でした。この周辺はキャンプ場のようでした。土曜日のためか何張りかテントがあり、何家族かが林の中でゲームを楽しんでいました。

   水戸学の大家田東湖の銅像        大洗海岸の岩場に立つ灯台
 

 キャンプ場を出た所に藤田東湖の銅像がありました。彼は水戸学の大家で、徳川斉昭を補佐する立場でもありました。彼の書いた書物や思想は幕末の志士達に影響を与えました。安政の大地震で惜しくも亡くなりました。もし生きていたら、桜田門外の変以降の水戸藩の分裂にどう関わっていたでしょうか。藤田東湖の子である藤田小四郎が天狗党創設に関わっていたそうですので、存命だったとしたら無傷では済まなかったと思います。水戸藩の醜い内部抗争を見る前に亡くなったことはむしろ幸いだったかも知れません。

  道路を跨ぐ大洗磯前神社大鳥居       大洗磯前神社への登り坂
 

 藤田東湖の銅像を見た後、大洗海岸に向かって歩きました。海岸に向かう下り坂をどんどん進むと街が見え、その向こう側に海岸が見えました。いったん海岸に出て、小さな灯台を見て、次に大洗磯前神社に向かいました。大洗磯前神社は高台にあるため、津波警報時の避難先に指定されています。海岸からその高台に向かう上り坂を登りました。15分位でしょうか、登っていると神社関連の施設が見えてきました。

            大洗磯前神社に奉納された錨や鎖


 神社に近づくと、ある奉納物に目が止まりました。奉納されたものは錆びたたくさんの錨や鎖などです。相当長く使った錨のようです。船を解体した時に奉納したのかも知れません。その錨の間にクジラにモリを打ち込む砲台のようなものが一台奉納されていました。大洗町はかつてクジラ漁をしていたようです。そのモリの矢じりの先端は開くようになっており、一度このモリが刺さると、クジラは逃れられなかったと思います。

              大洗磯前神社の随神門


 大洗磯前神社の随神門を入ると、正面に立派な拝殿がありました。ちょうど拝殿前を整備中のための工事車両が出入りしていました。随神門の隣りでお守りなどを売っていました。息子が最近新車を購入したので、その車用に交通安全のお守りを購入しました。このお守り、後で息子に渡しました。神仏をあまり信じない息子にしては、このお守りを素直に受け取ってくれました。大切な人を載せるようで、大人になったのでしょう。

 大洗磯前神社の拝殿      お守りを購入     鳥居正面の海に初日の出
  

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人形作家のTさん宅を訪問、素敵なお庭と人形を見学

2017年06月06日 | イベント,行事

 午後1時に郷土館で、Eさん,Taさんと待ち合わせしました。先日陶土で作った紡錘車や湯呑などをいつ焼くかなどの雑談をした後、大波野のTさんの家に向かいました。Tさん宅前に着くとTさんが家から出てきました。道端で少し雑談した後、Tさんの敷地には入りました。その直前、たまたま南の空高く彩雲が見えました。その後、お庭を拝見させていただきました。いろんな木が植えてあり、新緑の季節もあってとても涼しげな緑に溢れていました。

 入口に「ちえふるの森」    見上げると彩雲     涼しげな新緑のお庭
  

 新緑溢れる庭を見学後、家の中に入らせていただきました。応接間に行くと、Tさんが制作した人形がたくさん並んでいました。人形本体は紙粘土やトースターで焼く粘土などを使うそうです。焼いた後、目や眉などを筆で丁寧に描くとのこと。人形の衣服は自分で縫うそうです。以前、制作した人形を売ったこともあるそうですが、今は売らないで応接間に飾っているそうです。とても緻密な制作作業のようで、私はとてもできそうもありません。しばらくの間、人形を見ながら談笑しました。

           たくさんの自作人形に囲まれたTさんの応接間

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茨城県 大洗町,ひたちなか市の史跡ほか探訪ウォーキング(1/6)

2017年06月05日 | 歴史探訪他ウォーキング

 5月27日、茨城県大洗町とひたちなか市の主に史跡を巡ってウォーキングしました。最初に行ったのは幕末と明治の博物館です。この博物館は幕末に土佐から脱藩して、その後長州藩で活躍した田中光顕が建てました。
 幕末に土佐の武市半平太が創設した土佐勤王党に所属し、武市が処罰を受ける頃、脱藩して長州藩に行き、そこで高杉晋作の元で奇兵隊諸隊で倒幕・明治維新に活躍しました。この博物館には久坂玄瑞や吉田松陰など長州藩士の資料が多く展示されています。一方、薩摩藩の資料はあまりありません。長州藩に長く関わったためでしょうか。

          田中光顕が建てた「幕末と明治の博物館」 


 田中光顕のとっびつすべきことの一つは、とにかく昭和十年代まで長生きしたことです。肉声もレコードに残っています。そして、亡くなるまでの間に各地に明治維新に関わる碑を建てたことではないでしょうか。明治維新を見ることなく亡くなった数多くの志士達を弔っています。例えば、茨城県では太子町袋田にある関鉄之助の碑です。また、多摩市の旧多摩聖蹟記念館なども挙げられます。
 田中光顕は2.26事件直後に95歳で亡くなりました。2.26事件を目のあたりにして、軍部が独走し始めたことを彼はどう思っていたでしようか。もし彼が102歳まで生きていれば、昭和20年の敗戦を知ったはずです。自分達が死に物狂いで作り上げた明治維新が、こんな形で終焉するのを見なくて良かったと思います。

  徳富蘇峰の石碑        幕末関連コーナー    桜田門外の変の模型
  

 幕末と明治の博物館入口には、田中光顕の銅像が立っていますが、近くに徳富蘇峰の石碑もあります。徳富蘇峰が、明治維新における水戸藩の功績を認めている石碑です。倒幕は主に長州藩や薩摩藩が成し遂げましたが、尊皇攘夷の思想は水戸藩が中心だったように思います。その尊皇攘夷が種となって尊皇倒幕へと向かいました。特に、尊皇の考え方は水戸藩が「大日本史」を編纂している過程で生まれたのではないでしょうか。大日本史は、つまるところ古代から連綿と続く天皇の歴史だからです。

  水戸藩の分裂の様相     明治天皇の品々       水戸藩の歴史
  

 水戸藩は桜田門外の変頃から変節します。特に徳川斉昭と井伊直弼の確執が原因の一つに思います。徳川一門の斉昭からすると、徳川宗家を井伊直弼がいいように操っていると思えたのでしょう。その確執は桜田門外の変で頂点に達しました。以降、幕府の威光はどんどん下がり、水戸藩は分裂していきます。そして、天狗党の騒ぎなどで水戸藩の人材がどんどん失われます。結果的に、明治政府でにおける水戸藩出身者の出番はありませんでした。

           明治期に活躍した水戸藩出身の偉人達

A:栗田寛 大日本史完成者    
B:飛田穂洲 学生野球
C:横山大観 近代日本画     D:徳川慶喜 最後の徳川将軍
E:常陸山谷右衛門 近代大相撲創設


 私が思うに、水戸藩は大日本史を編纂する過程で水戸学や尊皇思想を打ち立てました。しかし、徳川一門であるがゆえに倒幕に至ることができませんでした。尊皇攘夷思想は長州や薩摩に引き継がれつつも、攘夷の愚かさを知った両藩は、結果的に倒幕に目覚めました。水戸藩が種を蒔いて、長州や薩摩が育てて刈り取ったのではないでしょうか。明治維新の最初の種をまいたことを、水戸藩つまり今の茨城県は誇ってよいと思います。

     当時の水戸藩の志士達      水戸学を学んだ長州や薩摩の志士達
 

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田布施町の陶土を使って土器・埴輪作り(その7)

2017年06月04日 | イベント,行事

 作って乾かした土器や土製品、あとは焼くだけです。土器や土製品作りそのものは、ひとまず終わりました。粘土はしばらく使わないため保存することにしました。粘土をそのまま放置すると、カラカラに乾いてしまいます。そのため、濡れたタオルに包んでビニール袋に入れて保存することにしました。

             濡れたタオルで粘土を包む


 粘土の塊は大きく二つあります。そのため、二つのビニール袋に分けて保存することにしました。今乾かしている土器又は土製品を焼いて、比較的よい焼き物ができるようであれば、秋に再度、土器と土製品作りをしようと思います。散々苦労して作った粘土だけに大切に保存しようと思います。

   濡れタオルをビニールで包む      さらにビニール袋に入れて保存
 

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水戸市 水戸東照宮と千波湖を史跡巡りウォーキング

2017年06月03日 | 歴史探訪他ウォーキング

 26日、息子が住む茨城県水戸市に行きました。2月にも行きましたので、3ヶ月ぶりの水戸市です。まずは、上野駅から特急に乗ったのですが、上野駅の次に停車する駅は、なんと目的地の水戸駅でした。2月の時は、確か土浦駅などに止まりました。特急の種類によって止まる駅が違うようです。1時間ちょっとで、いきなり水戸駅に着いてしまいました。

上野駅を出ると次は水戸駅  水戸東照宮の巨大な鳥居   水戸東照宮への階段
  

 水戸駅に着くと、市内をあちこち散策することにしました。弘道館とは反対側を少し歩いてみました。すると、駅近くに巨大な赤い鳥居が目に入りました。水戸東照宮と呼ばれる神社が高台にあるようです。さっそく散策することにしました。高台に向かう石階段を登りきると、立派なお社が見えてきました。

    水戸東照宮の社務所        幕末期、日本で初めて作られた戦車
 

 この水戸東照宮は、1621年に初代水戸藩主が父である徳川家康を祀った神社とのことです。建物は戦災で焼失し、今は再建された建物とのことです。私が最初に注目したのは、この神社境内に収められている戦車(安神車)です。この戦車は写真で見たことがあり、まさか水戸東照宮にあるとは思ってもみませんでした。この戦車は、幕末期に水戸藩が作ったもので牛か馬で引く乗り物です。周りを鉄板で覆っており、銃兵が中に立てこもって戦います。しかし、実戦で用いる機会は来ませんでした。

    水戸東照宮      常陸山の記念石碑       天満宮
  

 戦車を見終わると、その近くの建物や石碑を見学しました。目を引いたのは明治期の大相撲横綱の常陸山の石碑です。今、大相撲で活躍している茨城県出身の稀勢の里が、6月に水戸市にある常陸山像の前で土俵入りをするそうです。資料によると、常盤山が横綱になった頃はまだ大相撲は単なる興行だったそうです。興行だった大相撲を国技にまで昇格させた一人が常盤山とのことです。大相撲の歴史の一つに、この水戸東照宮で会えて良かったです。

                 野口雨情の詩碑


 茨城県出身で明治期の有名な童謡作家である野口雨情の詩碑がありました。有名な童謡「しゃぼん玉」は雨情が詩を書いたそうです。シャボン玉で遊んでいる子供をたまたま見かけた時、生まれてすぐに夭逝した長女を思い出して書いた詩だそうです。詩の中に読まれている「~生まれてすぐに、こわれて消えた~」は、夭逝した娘を表現しているのかも知れません。命のはかなさを歌ったのでしょうか。


    水戸東照宮内の稲荷大明神      江戸時代、時を知らせていた銅鍾
 

 その他、天満宮や稲荷神社なども見学しました。その中に、とても大きな銅鍾がありました。江戸期にこの鐘を使って藩内に時を知らせていたそうです。銅鍾を使う前には、太鼓で知らせていたとのこと。1667年に太鼓から銅鍾に変わったそうです。現代では、銅鍾は大晦日にお寺で鳴らします。江戸時代、水戸藩では時を知らせるため毎日同時刻に鐘を鳴らしていたのでしょう。広大な水戸藩の平野にこの鐘の音が響いていたのですね。
 水戸東照宮を出ると千波湖に行きました。夕方、どこかの高校の陸上部員達が千波湖を何周もしていました。夕闇の迫る千波湖を一周して、息子のマンションに向かいました。

               夕闇が迫る千波湖

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楽しかった光市牛島ウォーキング(4/4)

2017年06月02日 | 歴史探訪他ウォーキング

 牛島港に来てから、最初に牛島八幡宮、次に教念寺に行きました。そして、平茂海岸に行きました。途中にある数々の史跡を通り過ぎました。平茂海岸に行くことを優先して、途中の史跡を後回しにしたのです。そのため、三浦の海岸から牛島港に戻る途中にそれらの史跡を辿りました。

 旧牛島小中学校跡地    タブノキ,荒神様,明神様   藪の中にある牛鬼石碑
  

 最初に訪れたのは丑森明神です。旧牛島小中学校跡地を過ぎてすぐの墓地の中にひっそりとあるとても小さな明神様です。その昔、農作業後に牛が帰ろうとしなかったのを無理して連れ帰ったそうです。ところが、その夜火事が起きて大事な牛が焼け死んだそうです。その日から、牛の形をした雲が発生するなどして不審火が続いたそうです。村人が焼け死んだ牛を供養するための墓石を立てると、不審火が無くなったとか。その墓石が丑森明神とのことです。

    牛島港の手作り防波堤       防波堤から牛島の民家を振り返って
 

 丑森明神を出ると、光市の名木百選の一つであるタブノキを見に行きました。幹が何mもありそうなタブノキです。その根元には荒神様と明神社の祠が安置されていました。明神社は元々は三浦の湾にあったそうです。三浦から人が移り住んだ人達が、このタブノキの根元に移したそうです。

  防波堤から牛島の家々を振り返って、教念寺の屋根がひときわ大きく目立つ


 続いて、牛鬼伝説の石碑を見ました。この石碑は藪の中にありました。元々は民家の庭だったようです。民家が無住になってから手入れがされなくなったのではないでしょうか。その昔、牛島に牛鬼が出て人々が近くにの島に避難したそうです。そんな時、武芸者達がやってきて苦難の末に牛鬼を退治したとの伝説です。牛鬼が退治されてから牛島は繁栄するようになったそうです。石碑が建てられている民家は、牛鬼を退治した武芸者の子孫の家だそうです。

  港の待つ連絡船     波しぶきの向こうに牛島      室積港に到着
  

 最後に見学したのは、牛島港のとても古い防波堤です。この防波堤は手作りで、日本土木会推奨土木遺産の一つだそうです。棚田の石垣などの技術を使って作られた、とても珍しい防波堤なのだと思います。牛島港に着くと、一時間ほど時間が余りました。出航を待つ間、防波堤の先端に行ってみたり、港近くの民家周りを散策しました。そして、午後5時発の連絡船に乗って室積港に戻りました。室積港で解散しました。牛島ウォーキングに来られた方々、お疲れ様でした。

                                ウォーキングした牛島のコース

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久しぶりに東京の我家に

2017年06月01日 | ふるさと

 久しぶりに東京の我家に帰省しました。今は婆さまがいる山口県の我家に住んでいますが、40年近く住んだ家内がいる東京の方が我家にも思えます。故郷が二つある感じです。東京に行く時は、寝台列車をよく使います。かつての寝台列車は狭くうるさく、とても寝られたものではありませんでした。しかし、今の寝台車は違います。個室で東京までぐっすりと寝ることができます。チケットを購入すると、シャワーも使えます。

   よく使う寝台列車   寝間着,布団,シャワー付き     横浜駅で朝食
  

 私が学生時代、寝台車は贅沢でした。私が帰省によく使っていた列車は急行でした。確か「長州」と呼んでいた急行でした。東京から山口までの急行で、18時間位座っていました。当時の座席は直立の木製でしたので、腰や背中が痛くてたまらなかったことを思い出します。ただ、値段が安く当時2000円位だったように記憶しています。さらに安い列車もあったように記憶しています。乗車券だけで乗る普通列車です。東京から下関まで運行されていたようです。さすがに、この普通列車には乗ったことはありません。

    40年位ぶりの吉祥寺            生地や糸のお店
 

 次の日、40年位ぶりに吉祥寺に行ってみました。しかし、40年前の吉祥寺はどこにもありませんでした。昔は平屋が多くとても混雑していたように思います。私がよく行った吹き抜けになっていたお店はありませんでした。地図を見ながら、生地屋さんに行きました。工業用ミシンの針と帆布を買いました。ついでに猫模様の生地を衝動買いしてしまいました。ラジオ修理に使う薄手の革を購入しようか迷いましたが、今回は止めました。

  電子部品ショップ     電子部品街を散策      JR秋葉原駅
  

 吉祥寺を出ると秋葉原駅に向かいました。秋葉原駅に着くと、電子部品ショップに向かいました。電子オルゴールや各種LEDなど、少年少女発明クラブで使うかも知れない部品をいくつか購入しました。その他、周波数カウンタ、低周波増幅器、そしてトランジスタを購入しました。トランジスタはシリコン製の高周波増幅用です。今回チップタイプも購入してみました。その他、電子部品街を散策しながらめぼしい部品を購入しました。

             購入した電子部品(一部)

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