和綿は今、収穫の真っ盛りです。毎日のように収穫をしています。そして、洋綿の一種である緑綿も収穫できるようになりました。2日ほど前から、実が割れてはじけ始めました。洋綿の一種のためでしょうか、和綿よりも実が大きく、収穫できる綿も大きいようです。
1粒の実から取り出した緑綿 まだまだ花も咲いている緑綿
和綿は肥料が少ない畑のためか、背が低く実が大きくありません。そのためか、緑綿と比べて収穫した1粒の実から取り出した綿が小さいようです。それに比較して緑綿は背が高く実が大きいのです。緑綿は葉がやや赤く実も赤いのです。また綿はやや緑がかっています。洋綿の原種が緑綿なのかも知れません。白く改良したのが、白い洋綿ではないかと思われます。
割れ始めた緑綿の実 割れて綿が見える緑綿 左:緑綿、右:和綿
今、畑や山の草刈り、秋冬野菜の種まき、発明クラブの発表資料作成などで超忙しい毎日です。そのため、収穫した綿を綿繰りして、糸紡ぎにする時間が全くありません。あれもやらねば、これもやらねばと、毎日が怒涛の如く過ぎていきます。このところゆったりとした時間がありません。残業こそありませんが、なんだか昔のサラリーマン時代に戻ったような忙しさです。
どんどん収穫し続けている緑綿
約1.5ヶ月ぶりに、いつものようにミニ同窓会がありました。美味しい料理に美味しいお酒が入り、楽しい話題であっと言う間に今宵が過ぎていきました。次はどこを旅行しようか、どこで集まろうかなどで談笑しました。また、次回のウォーキング参加の話題もありました。毎回思いますが、小中高校生の頃、60歳を過ぎてこのように集まるようになろうとは思ってもみませんでした。ありがたいことです。
平生町のとあるお店でミニ同窓会、美味しい料理に美味しいお酒
9月になりましたが、日中はまだ暑い日が続いています。しかし、秋の種まきや植え付けは待ってはくれません。今回は、秋キャベツの苗を植え付けしました。雨が時々降ってきましたが、雨と雨の間隙をぬっての植え付けとなりました。以前は種を蒔いて苗作りから始めましたが、ここ数年は苗を購入しています。今回購入した苗は金系201号です。カタログには「甘い、柔らかい、作りやすい」と書いてありました。
耕耘機で畝を耕す 畝を鞍型に整形 黒マルチを畝に敷く
最初、畑を耕運機で丁寧に耕しました。次に、クワやレーキを使って畝を鞍型に整形しました。鞍型にするのは、雨を流れやすくして雨水が溜まらないためです。整形が終わると、畝を覆うように黒マルチを敷きます。黒マルチを敷くのは、雑草対策と晩秋に畝を温めるためです。黒マルチを敷くと、苗を植える植穴を80cm間隔で開けました。
黒マルチに開けた植穴に、次々にキャベツの苗を植え付け
植穴を開け終わると、次々に苗を植え付けました。今回購入したのは小さめの苗でしたので、傷めないようにボットからそっと取り外して植えました。植え付けが終わると、U字形の支柱を何本か立てました。そして、支柱の上から畝にまたがるように寒冷紗を被せました。
U字形の支柱を立てる 寒冷紗を被覆 穴が開いていた寒冷紗
ところで、何度も使いまわしているためか寒冷紗に穴が開いていました。前回取り外すときに傷ついたのではないかと思います。数日中に修復します。最後に、寒冷紗が風で飛ばないように周りに土を寄せました。植え付けたキャベツ苗は6個です。今後順調に育てば、12月には美味しいキャベツが収穫できるはずです。
植え付けが終わったキャベツ畑、12月収穫見込み
綿繰り器によく似た器械を持っています。とても古い押し麦器です。綿繰り器と同じように二つのローラーがあり、そのローラーの間に麦を入れると潰れて押し麦になるのです。綿繰り器と違うのは、ローラーの直径がやや大きい事、ローラーが金属でできていることです。
昔使われていた古い押し麦器
綿繰り器と同じようにローラーの間に種入りの綿を入れました。すると、予想はしていましたが、種は潰されて綿と一緒に出てきました。綿と種は分離できません。押し麦器は綿繰り器としては使えないことがはっきりしました。面白いのは、潰された綿の種から油が染み出るようなのです。種がたくさんあれば、もしかして綿花油がこの器械で採油できるかも知れません。そもそもこの押し麦器、以前サトウモロコシの甘汁抽出用に使っていました。
綿と種がいっしょに巻き込まれる 潰れてペッタンコになった綿の種
押し麦器による綿繰りを諦めました。次に、綿繰りして種を分離した綿をふわふわにしてみました。羊毛をふわふわにするハンドカードを使いました。古来日本では、綿は弓の弦を使ってふわふわにします。私の祖母も布団直しをする時に弓の弦を使っていました。私は弓を持っていないので、今回はハンドカードを使いました。弓は作るのが簡単なので、暇があったら作ってみようと思います。
ハンドカードの間に綿 ふわふわになった綿
ふわふわになった綿をくるくる巻いて筋状にしました。その端っこを指でよって、糸車に結びました。そして、糸車を回しながら糸にしてみました。私は糸紡ぎの素人ですが、それでもちゃんと糸になりました。羊毛よりも繊維が細いためか、羊毛よりも容易に糸紡ぎできるように思いました。毎日のように綿を収穫しているため、どんどん糸を紡いでみようと思います。10月7日の鱧祭りのフリマで、綿繰り、ハンドカード、糸紡ぎ、藍染め、そして織りまでの一連のデモができればと思っています。
糸車を使って、ふわふわにした綿を糸にしてみる
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1.田布施~熊本~熊本城 2.熊本から長崎へ移動 3.シーボルト記念館
4.長崎風頭公園~中華街 5.グラバー邸 6.オランダ坂~唐人屋敷
7.出島~歴史文化博物館 8.長崎~熊本、熊本城 9.熊本から田布施
雨が降ったり止んだりの熊本城見学でした。広い場内を歩いていると、ポツンと神風連の乱の石碑が建っていました。西南戦争の前に熊本で発生した不平士族の乱です。100人位の士族が立ち上がって、熊本城内にあった鎮台を襲いました。まもなく鎮圧されましたが、襲われた反省を元に熊本城を強化した成果が西南戦争で発揮されたようです。
神風連の乱の石碑 熊本城櫓の壊れた石垣 熊本城南にある城彩苑
士族と言うと、はるか歴史のかなたの事のように思います。しかし、戦前にはまだまだその面影があったようです。当時ほとんどの家の戸籍には「平民」と書かれていましたが、御先祖が侍だった家は「元士族」と書かれていたそうです。私の母親曰く、元士族であることを誇りにしている家が少なくなかったそうです。今でも、母親は「あそこの家は士族の出じゃ。」と言うことがあります。
城彩苑でかき氷 熊本城を囲む城壁 美味しかったとんかつ
熊本城下で起きた神風連の乱以降、福岡の秋月の乱、萩の乱が起きました。これらの乱はすぐに鎮圧されましたが、その後起きた西南戦争は鎮圧されるまでにだいぶ日数がかかりました。この熊本城がターニングポイントになりました。私は、この西南戦争が終わったことによって真に幕末(侍の世界)が終わり、以降実質的な明治が始まったと思っています。熊本城内には、たくさんの神風連の乱や西南戦争の石碑があります。
次の朝、市電に乗って熊本駅に向かう
熊本城内で家内はアイスクリームを買いました。私はそれを少し舐めさせてもらいました。次に、城彩苑に行ってかき氷を食べました。黒砂糖を蜜にした美味しいかき氷でした。その後、私の提案でとんかつを食べに行きました。田布施町にいると、美味しい肉を食べる機会がなかなかありません。この旅行を機会に美味しいお肉を食べました。
人が少ない熊本の早朝 床が木製の市電 田布施駅に到着
次の日、家内と息子は一足先に飛行機で東京に帰りました。私は1時間程度遅れてホテルを出ました。そして、市電、新幹線、そして山陽本線を次々と乗り継いで田布施に一人で帰りました。猛暑に見舞われ雨に見舞われたものの、楽しい熊本長崎家族旅行でした。
散策した熊本市街のルート、途中大雨に出会う
今週から、田布施町郷土館でおおばのフォトクラブの方々による写真展が開催されています。去年までは勉強室兼準備室で展示していました。しかし、今年は展示する写真が多いため、広い田布施町紹介コーナーを使って展示しています。取材された効果でしょうか、今のところ、毎日のように「新聞で見た。」とのことで来館されるお客様が絶えません。
写真展を準備をしているおおばのフォトクラブの方々
お勧めの写真は、春に開催された大波野神舞 年期神舞奉納祭でしょうか。大波野神舞は全部で16演目がありますが、年期神舞ではそのうち10演目が演じられます。私も見学させていただきました。演じる時間が長いので、朝から昼過ぎまで演じられます。めったに演じられない子供が主演の演目を見ることができました。その他の展示された写真ですが、旅行先でのひなびた住居、夜景、大波野の自然などの写真も展示してあります。私も、仕事の合間にじっくりと鑑賞させていただいています。
夜景などの写真 大波野神舞などの写真 自然やテーブルセット写真
和綿畑では次々に実がはじけています。そのため、毎日のように綿畑を見回っています。それほど広くない畑ですが、毎日7~8個のはじけた綿の実を収穫しています。実がはじける一方で、花も次々に咲いているのです。いったい、いつになったら収穫が終わるのか分かりません。なお、一度雨に濡れてしまうと、綿はふわふわにならないようです。
手に持った1粒の実からはじけた綿 1粒の実から取り出した種入り綿
さて、収穫した和綿の種を取ることにしました。郷土館に保管してある種繰り器4台のうちの1台と、私が持っている古い押し麦器を使ってみることにしました。まず種繰り器を使ってみました。相当に古い器械ですので使えるかどうか心配でした。ローラーの間に隙間がありましたので叩いて狭めました。
種繰り器と押し麦器 ローラーの間に隙間 叩いて隙間を直す
古い種繰り器は、まだまだ現役として使えることが分かりました。いろいろ試してみて分かったことがありました。綿をカラカラに乾かしておかないと、種が柔らかくてローラーに潰されて通り抜けてしまうことです。また、未熟な種も、同様に潰れてローラーの間を通り抜けてしまうのです。種が潰れてしまうと、綿と種を選別できません。
綿繰り器のローラーに、種入りの綿を挟み込む
乾いた種入り綿をローラーに挟んでハンドルを回すと綿がローラーに挟み込まれます。すると、硬い種は取り残され綿だけがローラーの反対側に出てきます。種から綿が外れる時、わずかにサワサワと音が出ます。次から次へと種入り綿を挟み込むと、面白いように種と綿が分離します。
種だけローラー前に残る 綿だけローラーを通過 次々に綿を通す
今回はお試しで数粒の種繰りをしてみました。昔の人の知恵は素晴らしいものです。ところで、私は似たような器械を持っています。それは押し麦器です。同じように手回しでローラーを回す器械です。この器械が綿繰り器として使えないか試してみようと思います。
綿の種繰り器を使って分離した種と綿
今月の下見ウォーキング時、御蔵戸稲荷社へ昇り降りする山道が分かりにくいことが判明しました。そのため、本番ウォーキングではどの道を歩こうか迷いました。そこで今回、A君と一緒に再度下見に行きました。午後1時に郷土館に集まったのですが、だんだん雨がひどくなりました。そこで、雑談しながら時間をつぶして雨が止むのを待ちました。1時間位経つと小雨になりました。やっと再下見です。
M先生の家を訪問 御蔵戸稲荷社への登り口 地元の祠
御蔵戸稲荷社へは、私が小学3年生時に担任だったM(松根)先生の家横に登り口があることを知っていました。今回は、その登り口から行くことにしました。M先生の家の呼び鈴を押すと、M先生が出てきました。ちょうど、訪問リハビリ中でした。一緒に行ったA君の話では、東田布施小学校2年時に担任だったとこと。私が3年生に上がる時に、東田布施小学校から麻郷小学校に転勤したようです。しばらくM先生と雑談後、御蔵戸稲荷社に行きました。
屋根が半壊した御蔵戸稲荷社
M先生の家横からの道を登ると、あっさりと御蔵戸稲荷社に着きました。また、御蔵戸古墳側へ向かって下り道を通りました。そして、御蔵戸古墳側の登り口に到着しました。少し休んだ後、今度は本番ウォーキングで歩くとおりに、御蔵戸古墳側からの登り口から登ってM先生の家側に下りました。本番ウォーキングではM先生を訪問する予定でいます。私を含め、小学生時にM先生が担任だった人がいると思いますので。
御蔵戸古墳側の登り口 下見で間違えた下り口
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1.田布施~熊本~熊本城 2.熊本から長崎へ移動 3.シーボルト記念館
4.長崎風頭公園~中華街 5.グラバー邸 6.オランダ坂~唐人屋敷
7.出島~歴史文化博物館 8.長崎~熊本、熊本城 9.熊本から田布施
早朝、長崎駅に行きました。そして、電車に乗って新幹線が止まる新鳥栖駅に行きました。2日前は熊本からフェリーに乗って長崎に行きましたが、この日は電車で熊本に戻りました。フェリーよりも電車の方が早いようです。新鳥栖駅から新幹線に乗ると、寝る暇もなく熊本駅に着きました。熊本駅で朝食として熊本ラーメンを食べました。人気なのか開店前から行列になっていました。
長崎駅で電車に乗車 新鳥栖駅で新幹線へ乗り換え 美味しかった熊本ラーメン
美味しい熊本ラーメンを食べると、熊本市街を散策しました。ちょいと体を休めたいので喫茶店に入りました。シックで意気な喫茶店でした。椅子や机は木を彫りぬいて作ったようです。私はアイスコーヒーを頼みました。たくさんのボタンを縫ってできた面白いコースターでした。しばらく休むと、再び熊本市街を歩きました。熊本市街も史跡が多いようです。古い建物が所々にありました。途中、熊本第一高女跡地に楠の大木が並木として林立していました。
シックで意気な喫茶店 ボタンでできたコースター 第一高女跡の楠の大木並木
熊本市街を抜けると、前から行きたいと思っていた夏目漱石の旧宅跡に行きました。私が中学か高校生の頃でしょうか、夏目漱石の小説「吾輩は猫である」が大好きでした。普通の小説はお堅い話ばかりで好きにはなれませんでした。しかし、さっと読めるこの小説を何度も読みかえしたものです。その猫が住んでいたのがこの夏目漱石の旧宅跡なのです。
熊本城裏手にある夏目漱石の旧宅跡
残念なことに、先日の熊本地震で夏目漱石の旧宅跡が傷んだようです。門が閉じられて中には入れませんでした。また、近くには幕末に活躍した横井小楠碑があるのですが、この頃になるとザーザー降りの大雨となりました。そのため、やむなく碑を見ることなく退散するとにしました。とても残念でした。横井小楠は生まれた熊本藩では評価されなかったようです。しかし、他藩の例えば松平春嶽などには評価されたようで何度も招聘されました。吉田松陰とも会っています。夏目漱石の旧宅跡と泊まるホテルの間に熊本城があります。雨の中、熊本城を通ってホテルに戻ることにしました。
夏目漱石の旧宅跡の次に、熊本城に立ち寄る
知られているように熊本地震の影響は如実に熊本城にも影を落としていました。熊本城に入って一番目につくのは壊れた石垣の数々です。昔から地震などで石垣が壊れ続けたようで、直すためにいったん石垣から外した巨大な石が城内に並べられていました。その巨大な石にはそれぞれ赤い色で番号が振られていました。しかし、直そうとした矢先の今回の地震です。直すには何十年もかかるように思いました。
石垣から転げ落ちたたくさんの巨石 石垣の上にやっと建つ櫓
熊本城は熊本県の言わば代名詞です。今回の地震にめげず再建されると思います。いつか再建された見事な天守閣に登ってみたいと思っています。面白いのは、石垣がどんなに崩れても建物だけは倒れていないのです。石垣が崩れても人が住む建物だけは残るような設計になっています。つまり、400年も昔にすでに耐震設計がされていたことが分かります。
長崎から熊本への移動ルート
散策した熊本市街のルート、途中大雨に出会う
先日、マクワウリをタヌキから守るため電気柵を設けました。そのためか、まったく被害がありません。おかげ様で今年も美味しいマクワウリを収穫できました。マクワウリが収穫できるかできないか、つまりマクワウリが熟しているかどうかの第一は色です。黄色になれは熟し始めた証拠となります。黄色になると毎日のようにマクワウリ畑に出かけます。
ベランダから見下ろしたマクワウリ畑 熟れたマクワウリを取り上げ
熟しているかどうかの最終判断は匂いです。軽くマクワウリを手で撫でて鼻に近づけます。甘い匂いがすれば熟しています。していなければまだです。この匂いは畑の周りに漂うのか、タヌキがよく来ます。そのような時に電気柵がないと、マクワウリはタヌキにまるごと綺麗に食べられてしまうのです。
今回収穫したマクワウリ7個、一部は友達におすそ分け
今回収穫できたマクワウリは7個です。こんなに一度に収穫できるのは数年ぶりのことです。婆様と二人だけですので食べきれません。友達におすそ分けしました。マクワウリは夏を楽しむ美味しい果物です。熟すのを待っている残り数個を収穫すれば、今年のマクワウリはおしまいです。
マクワウリは私の祖母がよく栽培していました。私にとってのマクワウリは、昭和の味であり祖母との思い出の味なのです。
熟すのを待つマクワウリ 皮を剥いだマクワウリ 昭和の思い出と甘さを堪能
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昼間の中華街を散策し終わると、次に長崎出島跡に行きました。昨日訪れた時は夜でしたのでほとんど人がいませんでした。しかし、昼間はたくさんの人で賑わっていました。面白いのは、侍の恰好をした人がいることです。剣舞のようなものを見せたり、出島の解説をしたり、観光客と一緒に写真を撮ったりしていました。江戸の昔は、侍,商人,役人,唐人,通訳などが歩いていたのではないでしょうか。
道の真ん中で侍の恰好をした方が観光客のお相手
出島跡を散策していた頃、お昼になりました。出島内のレストランに行きました。私はトルコライスを注文しました。家内はお目当ての料理がないためがっかりしたようで注文しませんでした。私の料理を家内に少し分けました。お昼を食べ終わると、私は家内と息子と別れました。家内と息子は近くでお土産を見たりするなど散策するようでした。私は買物でお店をうろうろするのが苦手のため、1人で市街を散策しながら長崎歴史文化博物館まで歩きました。
食べたトルコライス 長崎市街の道を散策 長崎市の図書館
市電で行けばすぐに長崎歴史文化博物館に着くのですが、長崎出島跡から3km位でしょうか歩いてみました。ゆるい上り坂を歩いていると、いろいろな歴史的石碑があちこちにあることに気が付きました。長崎市内は歴史でできているように思いました。歩いていると、こんな所にも、あんな所にも史跡があるのです。1ヶ月位滞在しないとすべての史跡を探訪できないと思いました。
坂の上の方にある、とても立派な長崎歴史文化博物館
長崎歴史文化博物館は建物がとても立派でした。お城の塀に囲まれているような作りになっています。昭和36年建築の田布施町郷土館とは比べ物になりません。中に入ってみると、これまた立派な展示物でいっぱいでした。映画や展示物を見ているだけで1日時間がつぶせそうです。私は、幕末頃の電信装置をじっくり見ました。真空管などの増幅器がない時代、ましてや電波がない時代に、どうやって海底ケーブルを敷いて通信していたのでしょうか。微弱な電気の検知方法に興味を持ちました。
長崎の歴史映画 古い電信装置の数々 再現された長崎奉行所
長崎歴史文化博物館内で展示物を見学していると、息子からメールが入りました。こちらに向かっているとのこと。そのうち、私がなかなか出てこないので催促のメールが入りました。やれやれ、展示物の見学はこれで終わりです。もう少し時間があればより詳しく見学できたのですが仕方ありません。家内と息子に合流すると、長崎市街を散策しながらJR長崎駅に向かいました。
40年ぶりの長崎駅 ある飲み屋さんで 結局長崎チャンポン
長崎駅は約40年ぶりです。すっかり変わっていました。私が覚えている長崎駅はとんがり帽子のような三角屋根が特長だったように思います。私が知っている長崎駅はアーケードがありませんでした。今は駅舎とお土産街を覆うようにアーケードがあり、待合椅子がたくさん並んでいました。長崎駅で次の日に乗る電車の切符を購入しました。長崎駅からは市電に乗っていったんホテルに戻りました。
夕食などを取った賑やかな長崎の飲み屋街
夕方になって夕食を取るためにホテルを出ました。ところが、なかなか良いお店がなくてあちこちをうろうろしました。ある飲み屋さんに行きましたが、若い女性店員さんの反応や接待がいまいちでした。お盆のため料理の幅も少ないようでした。そこで、長崎ならではの長崎チャンポンを食べるため近くの中華料理店に入りました。そして、賑やかな繁華街を散策しながらホテルに戻りました。明日は熊本です。
14日午後、長崎市内を散策したルート
春に苗を植え付けた藍が、ようやく収穫できるほど育ちました。ちゃんと、世話をしていれば2度収穫できるそうです。しかしながら、夏の草取りなどの世話はそれは大変です。雑草をより分けながらの藍の収穫となりました。今の時代、葉摘み作業は機械で行っているようですが、江戸の昔はこの作業をすべて人力で行っていました。
雑草混じりの藍を刈り取る 雑草を取り除いた藍
私とM君の男性陣は藍畑で藍の葉を根本から刈り取り、藍だけを選別する作業をしました。8月よりは涼しくなったとは言え、直射日光に当たりながらの作業で汗が吹き出します。雑草を取り除いた藍を束ねて女性陣に渡しました。待ち構えていた女性たちは、賑やかに井戸端会議をしながらてきぱきと葉を摘んでいました。
人の手による葉摘み作業
手摘みした藍の葉は、すぐに乾燥させなければなりません。あらかじめ地面に敷いていたブルーシートの上にパラパラと藍の葉をばらまきました。そして、さらに均等に散らばるように箒ではきました。強い直射日光に当たって30分もすると、藍の葉はカラカラに乾きます。他の草と異なり、乾燥した藍の葉は黒ずんでいます。
楽しそうに井戸端会議をしながら葉摘み作業をする女性陣
2時間位、藍の葉を収穫したでしょうか。すべての葉を乾燥しきれなかったため、我家に持ち帰ってベランダなどで天日で干しました。しかし、青い葉がまだ少し混じっているため、あと2回位は天日乾燥が必要のようです。
箕に入れた藍の葉をばらまく 箒でさらに均等にばらまく
乾燥した藍の葉の匂いを嗅ぐと、なんだか新茶のような良い匂いがします。この乾燥した藍の葉、お茶として飲めないのかなあと思ってしまいました。でも、藍色がしみ出した味は美味しくないかも。今回収穫した藍の葉は、来年の藍染めに使います。今回お手伝いしていただいた方々、本当にありがとうございました。
緑の葉が一部残る藍の黒ずんだ乾燥葉、あと2,3度乾燥要
少年少女発明クラブの活動のうち、発明工夫工作の指導しています。子供らしい工作を作るお手伝いをしていますが、子供ではどうしても難しい工作が時々あります。今回の工作もその一つでした。その工作の要点は、朝になったら音(または音楽)が鳴る装置です。その「朝になったら。」を、時計を使わないでどうやって実現するかが難題なのです。温度、光、ニワトリの鳴き声、それとも何で検知したらいいでしょうか?世の中にはすでに、朝になるとメロディーが鳴る電子オルゴールがあります。これとは仕組みが違う装置を作るのです。
簡単な回路図を描く 古いリレーの良否テスト 光感知半導体CDS
音が出る部分は子供が工作しますが、難題「朝になったら。」は子供には難しいので、少しお手伝いすることにしました。「朝になったら。」を「明るくなったら。」に置き換えます。つまり、朝になって明るくなったら音が出るようにするのです。そのため、明るさを感知する回路を作ることにしました。具体的には、光感知半導体CDSを使って、明るくなったら電池の電源が入る部品を工作することにしました。
リレーをホットボンドで接着 試作した明るさ検知回路
この工作に使う部品として、私が高校生の頃に使っていたリレーやトランジスタなどを使いました。回路図~試作品を経て完成しました。子供にこの回路を使ってもらい、音を出す部分はしっかり自分で工作してもらうことにしました。さて、どんな「朝明るくなると音出る装置」の工作ができあがるでしょうか。
やっと完成した、明るくなると電源が入る部分
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1.田布施~熊本~熊本城 2.熊本から長崎へ移動 3.シーボルト記念館
4.長崎風頭公園~中華街 5.グラバー邸 6.オランダ坂~唐人屋敷
7.出島~歴史文化博物館 8.長崎~熊本、熊本城 9.熊本から田布施
クラバー邸の坂道を降りていると出口が見えてきました。その出口近くに、長崎伝統芸能館がありました。中に入ってみました。すると、長崎市の伝統芸能に関する資料や物が展示されていました。その中に目に付いたものがありました。それは、お盆に行われる精霊流しの船です。その船は海に浮かべるのではなく、綱で引っ張りながら市内の道を練り歩くのです。
精霊流しの大きな船 竜踊り(じゃおどり)の竜 グラバー邸の坂道
伝統芸能の一つに長崎の竜踊り(じゃおどり)がありますが、その竜も展示されていました。この踊りは唐人屋敷にすんでいた中国人から伝えられたそうです。長崎伝統芸能館を出ると、坂道をどんどん降りました。途中、その坂道の両サイドに並ぶお土産屋さんに入りました。カステラ店に入ったり、ステンドグラスのお店などに入りました。
ステンドグラスのお店 猛暑の中、オランダ坂を登る
クラバー邸を出るとオランダ坂に向かいました。古いひなびた石畳の坂かと思っていたら、車が行き来するせわしない坂でした。何度も車を避けました。私は坂よりも、その坂に並行して作られた水路に興味を持ちました。普通の水路は、たくさん水を流せるように凹型になっています。しかし、オランダ坂の水路はV字型になっているのです。その形は江戸時代以来変わっていないそうで、底に泥や葉が溜まらないための工夫だそうです。なるほど。
道をまたぐように作られた唐人屋敷入口門
オランダ坂の一番高い場所に着くと、今度は狭い下り坂の道を降りました。けっこう降りがきつい石段です。所々に休憩用の長椅子が置かれていました。お年寄りや旅行客が休めるように置かれているのだと思いました。狭い石段を下りていると、唐人屋敷の入口門に出ました。道をまたぐように建てられた立派な門です。
唐人屋敷福建会館の石段を登る 福建会館内にある孫文の銅像
かつての唐人屋敷は壁に囲まれていたようです。その名残がわずかに残っていました。さて、唐人屋敷に来た目的の一つが、孫文の銅像を見ることです。その銅像がある福建会館に行きました。しかし、鍵がかかっていて中に入ることができませんでした。がっかりしましたが、壁の上から孫文の銅像をちらりと見ることができました。
蔵の資料館を見学 屋根が反り返る土神堂 昼の中華街を散策
福建会館の石段を下りると、次に「まちづくり情報センター」に行きました。そして、隣の「蔵の資料館」に入りました。かつての唐人屋敷の生活や街並みの資料がたくさん展示されていました。その後、屋根が中国式に反り返る土神堂を見てからホテルに戻って休憩しました。そして、中華街に向かいました。昨夜は夜の中華街を散策したので、今度は昼の中華街を散策しました。
14日午前、長崎市内を散策したルート
西竹部公会堂を出ると、稲荷山古墳に行きました。稲荷山古墳は地元では稲荷神社として祀られています。稲荷山古墳の手前には石鳥居が建っています。また、古墳の石室前はちょっとした広場になっているため、かつてはお社が建っていたのかも知れません。今は石室奥に神棚があり祀られています。石室前の広場は綺麗に掃かれているため、竹部地区の方々がこの古墳兼神社を守っているのだと思います。
稲荷神社の石鳥居 稲荷山古墳の石室 東漸寺門の目の前は線路
稲荷山古墳を後にした頃、12時前になっていました。そのため、次に訪れる東漸寺で昼食休憩を取ることにしました。この東漸寺、今はご住職はおられないようです。誰もいない境内の木陰に腰を下ろして休みました。このお寺の門の目の前に線路が走っています。そのため、電車がひっきりなしに通ります。うるさいほどです。かつて、この線路でご住職が引かれて亡くなったそうです。門の数m前に線路があり、しかも見通しが悪いのです。この事故以来、この近くを通る電車は必ず警笛を鳴らすそうです。
誰もいない静かな東漸寺、時々轟音をたてて電車が目の前を通過
朝は涼しかったのですが、お昼を過ぎたころから猛暑になってきました。次に東漸寺の裏山に登りました。裏山には荒神社と大田資直の石碑があります。汗を拭きながら山道を登りました。15分程度登っていると最初に荒神社の石鳥居がありました。さらに山道を登ると荒神社と大田資直の石碑がありました。大田資直は奇兵隊で活躍した人で、明治以降はこの竹部で暮らしたそうです。今、彼が暮らした屋敷はありません。
荒神社の石鳥居 大田資直の石碑 御蔵戸のお地蔵様
大田資直の石碑を過ぎると、平坦な山道をどんどん進みました。すると、後井古墳傍の舗装道路に出ました。今回は後井古墳には行きませんでしたが、本番ウォーキングでは寄るかも知れません。続いて、舗装道路をどんどん歩き御蔵戸地区に入りました。舗装道路の照り返しが強く、とてもとても暑かったです。額の汗が乾いて塩をふくほどです。また、手で顔をぬぐった時、その塩が目に入って痛い事!
御蔵戸古墳に向かう小道を歩く
御蔵戸地区に着くと、最初に道脇のお地蔵様を見学しました。続いて、御蔵戸古墳に行きました。今はこの古墳への小道が整備されていますが、かつては整備されていませんでした。そのため、藪をこきながらやっとの思いで古墳にたどり着いていました。古墳内を見学すると、この古墳がある山に続く尾根筋にある御蔵戸稲荷社に向かいました。
御蔵戸古墳の石室 稲荷社に向かう山道 半壊の稲荷社
御蔵戸の稲荷社は一度来たことがあるのですが、登り口をすっかり忘れていました。それでも無理に藪こぎしながら山道を進むと、半壊した稲荷社がありました。以前来た時には屋根全体にブルーシートが被せてありましたが、そのブルーシートが半分外れており屋根が一部落ちていました。この稲荷社のお世話をする人がいないのでしょう。残念なことです。稲荷社を降りると、田布施駅に向かって戻りました。そして喫茶オアシスに入りました。私が頼んだクリームソーダの美味しかったこと!あまりに猛暑だったので、より美味しかったのでしょう。下見ウォーキングに参加された方々、猛暑に中、本当にお疲れ様でした。
今回下見ウォーキングした竹部地区と御蔵戸地区