すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

責任を持って妄想する二人

2007年09月11日 | 読書
 妙に惹かれる対談記事を目にした。
 『新刊展望』という小冊子の冒頭は、いつも結構面白い対談があるのだが、今回は特に際立っていた。

 「朗読の言葉、翻訳の言葉」と題された、作家古川日出男と翻訳家岸本佐知子の対談である。
 小説にも海外文学にも疎い私にとっては、どちらの著書も読んだことはない。わずかに岸本の連載エッセイを目にしたことがある程度だ。
 しかし、この二人の会話の面白さ…私にとっては新鮮さと言ってもいいほどで、なかなか読み捨てておく気にならずに、こんなふうに書き出している。

 まず冒頭に引き込まれた。

古川 翻訳している時の言葉はどんなふうに出てきますか
岸本 空っぽの頭の中に言葉が響くという感じです。
古川 聞こえてくる。
岸本 はい。
古川 ボイス系。


 この後、イメージが来るということについて語り合われるのだが、古川の小説の書き方にも思わず立ち止まってしまう。

 書いているとき、中に入ってしまうとおもしろくない。たとえば小学校の話なら小学校のまわりで外から見る。小学生と話なんか絶対したくない。

 なんとなく作家はよく取材をして書くんだろうなあと思っていたが、こういう人もいるのかとちょっとした発見となった(常識なのかもしれないが)。軽口をたたくような調子ではあるが、何かが憑依したような形で書き進められるということも興味深い。しかし、それはまた徹底した作業?のもとで完成形となっていくと古川は言っている。

 俺の書き方は、横書きでも縦書きでも書いて、フォントを変えて書いて、声に出して読んで、それぞれ別々の姿かたちを持つそれら全部が同じ質量を持ったときに初めて、パーマネントにとどめていいものになる。

 ここからの朗読や文字の話が実に刺激的である。「主体は物語にあり」「文字の向こうにあるもの」といった小見出しがついているが、それらでは括れない突っ込みが出てきて思わず引き込まれる。
 岸本の翻訳の話から、古川はこんな言い回しをしている。

 ただ大文字の「犬」。そこに見えてくるものを物語の中に常に召還していって、読者はそれぞれのものを再生すればいい。「dog」の向こうに見えるものは、作家が想像したdogというよりも、作家がそのように想像したであろうと岸本さんが想像したdogを、作家が想像した以上に本物にしてしまったもの。

 作家とはかくあるべきかと少し感動した。古川は言う。
 
 自分のまなざしの強さだけが正しい。

 それに続けて、岸本が言ったことばが、稀代の妄想家!らしいこの一言だ。

 もう、責任を持って妄想するしかない。