すぷりんぐぶろぐ

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王様は裸だと言った子の行方

2007年09月15日 | 読書
 時折本をまとめ買いすることがある。先日もそうだったが、4冊ほど手にとってレジに向かう途中の新書コーナーで、思わず背表紙のタイトルが目に留まり買い足した本がある。

『王様は裸だと言った子供はその後どうなったか』(森達也著 集英社新書)

 家に帰ってから椅子に腰をおろし、中身をめくる前にもう一度表紙を見て「なんで、この本を即決したのかな」となんとなく考えてしまった。
 もちろん、その題名の面白さに惹かれたということだ。

 だいぶ昔のことになるが、大先輩の先生にこんなことを言われたことがある。
「『うさぎとかめ』を高学年の道徳でやったらおもしろいよ。感想文を書かせても、高学年なりの様々な感想がでるもんだ」
 早速当時受け持っていた学級で取り上げてみたら、これが最高におもしろい。記録を残して置けなかったのがつくづく残念である。
 寓話や童話は、ネタになりやすいなあと思ったのは、その頃だったろうか。

 国語科の物語文などで「続き話」という形でまとめをしたり、評価をしたりする実践はかなり以前からあったように思う。
 自分自身で童話をネタにしたものでは、「『桃太郎』で記者会見ごっこ」が印象深い。教育雑誌の実践でも取り上げてもらった。いわゆる「なりきり」という手法を使った活動は多種多様のものが考えられよう。その中で、多くの子が知っているという条件を満たす意味で童話・寓話の持つ可能性は大きい。

 さて、こうした実践のことを持ち出すまでなく自分は妄想好きなんだなという結論もすぐ出そうだ。
 筆者の森も同じなのだろうか。
 森達也の著した本を読んだ数は多くないが、印象深いものがある。同じ生まれ年という親近感?もあるかもしれない。
 ところで、この本はいつでたのかな、と奥付を見ると、今年の八月二十二日とある。
 ふうん最近だな、となにげなく前へ進み、あとがきを読んでみた。
 そこには、森自身が見つけたネットへの書き込みが紹介されている。

 森達也には使命感も勇気も目的意識も理念もない。「王様は裸だ」と言った子供がそうであるように。目の前の情景に単純に反応しただけだ。つまり致命的に場を見ることができない男なのだ。

 森は、「慧眼だ。まったくその通り」と頷いてみせる。
 そして自分の仕事や子供の頃を回想して「場を見ないやつだ」と呆れられていたような気がする、などとその書き込みに感心した後で、こう書き始めた。

 そういえば「王さまは裸だ」と言ったあの子供は、あれからいったいどうなったのだろうとふと考えた
 
 これが、この本を書く(雑誌連載だった)きっかけとなっていく。童話、神話、物語などを取り上げて、なりきりの手法でストーリーを膨らましていく形であろう。

 それにしても、森が自分自身を物語の子供と重ねあわせたのだとすれば、単なる妄想のような形をとりながら、実は森の行方を示しているのではないか…そんな考えも思い浮かぶ。
 森はどこへ行こうとしているのか、また居直ろうとしているのか…それが興味深いのは、単なる筆者に対する関心だけではなく、ネットへの書き込みがこの私自身にもかなり当てはまるという認識があるからだ。いわば同士の行方だ。

 読み始めてみよう。