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「もぐりこみ空間」の行方

2007年09月21日 | 雑記帳
 昨年竣工なった新校舎を持つ学校を参観する機会があった。
 ガラス張りの広々とした空間の多い明るい学校であった。「冬はどうなのかな」という雪国暮らしの心配はつきまとってしまうが、それにしても次々とモダンになっていく学校建築である。

 多目的ホールに面したところに一箇所、狭く薄暗い空間があった。
 ちょうど玄関側より二階に上がる階段の下部である。普通ならば物置に利用しそうな場所であるが何も置かれず、中を覗くと腰を掛けられるような造りとなっているのだ。
 校内を巡ってみると、にもう一箇所、体育館入口前にも似たようなスペースがあった。

 ははあん、あれかと思い出したことがある。
 かつて『「子どもがいきる」ということ』(藤原智美著 講談社)を読んで、あるメールマガジンに寄稿した駄文がある。

 そこに書かれてある「もぐりこみ空間」なのだな、と思った。
 実際に目にしそのスペースに入ってみると、明るく開放的な教室や廊下などと実に対照的で、薄暗くこじんまりとしていることがわかる。こういう空間を好むという感覚も確かにあるだろう。

 それにしても、校舎の中に配置された以上、管理された空間であることに違いない。かつてある世代以上が「もぐりこんだ」秘密基地的なものとは大きな違いがあるだろう。
 もしこうした校舎に勤務することになったとき、私たちはそのスペースの活用について協議することなどあるのだろうか、などと思いが浮かんでくる。
 改めて、藤原氏の著書の一部を読み直してみると、同行者のEさんが「気分転換の装置」としてあるのだということを言っている。そう割り切れば、確かに活用のアイデアはいろいろとありそうだ。

 どんなにお膳立てしても、それとは別に子どもたちは「もぐりこみ」の空間を探しにいくだろう。
 以前にも書いたが、おそらく電子空間へ向かう率が高くなっている。それは牧歌的といっていい秘密基地より、はるかに複雑で暗いかもしれない。

 大人はもちろんそこに入り込めないが位置取りぐらいは把握しておかないと、這い出した手にいつも足元をすくわれるだろう。
 そんな日常にあることを自覚していなければいけない。